沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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最長老監督だけに老練!160分でもだれません!
スコセッシ監督御年75歳。おそらく最長老クラスでしょう。劇場経営上の理由で長尺映画の嫌われる昨今、159分って相当長いです。でも作っちゃうんですねえ。映画愛です。前作「ウルフオブウォールストリート」なんて179分ですよ!3時間って考えらんないです、大作です。デジカメになってフィルム経費気にせず作れるようになったのでしょうか。愛がほとばしっております!でも長いからって決してダレないのが老監督の名人芸。1つ1つのシーンにドラマが込められております。字幕追いかけて観てると気付けないようなこまかい演技演出をしてるんですよ。日本の俳優ってこまかいこと器用に表現するんですが、それをちゃんと映像に拾えるのがスゴイなあと。 そういうとこ探して観てると時間長いの忘れます。結構難解なセリフ回しなんで字幕読んでたら、ちっとも面白くないですよ。自分は、外人ってやっぱ大雑把なんだよなあ、訳わかんないこといってらあ、ってなもんでボヘエっと見てました。カルト宣教師の言ってることに意味はありません。やっぱ浅野忠信さん(の役)がいいんだよなあ。 ただどうしても気になることが一点! 緊縛シーンが多々でてくるのですが、全部ユルユルなんです。縛ってないやん・・・。簀巻のシーンなんて縄ほどけてるやん! 海に放り込む場面なんで、おそらく役者の安全のためなんでしょうが、本気で縛らんかい!と団鬼六と黒澤明が私に発破をかけるのでした。
強い物語となって
もう何十年も前の記憶なので正確ではないが、遠藤周作の沈黙は弱くて卑怯な心に向き合ったもっと、じめじめした情けない話、そこに救いがある話だった。それが一転、映画は強い心を持ったパードレの話になっていて、それはそれでずっしり心に問いかける重い映画であった。 監督は今なぜこの映画を作ろうとしたのかな。今の宗教に絡んだ世界情勢と、鎖国の日本で隠れキリシタンとなって自分達の信じるキリストを守る姿は距離がありすぎて、比較にはならない。 もう一度本を読もう。 一晩たって思うのは、井上さまとキチジローの役者が、それぞれ十分力を出しきっていたのだろうけど、どうしてもその演技に注目してしまって、物語が中断する、そこが、私が映画に入り込めなかった理由。演技がちらつくとお芝居になってしまうのよね。ここは小林薫と柄本さんにやってほしかった。 追記 本を再読したら驚くほど本に忠実に映画が作られていた。でも心の弱さや葛藤は、映画では見るひとの想像力に委ねられていて、私は全然この映画を理解できていなかったのだとわかった。何事もわかったようでいて、何もわかっていないのだった?
心を征服する者、心を蹂躙する者
心を征服しにきた宣教師と、心を蹂躙する為政者と、どちらも同じ穴の狢。 どちらかというと、日本人の私としては、やはり一神教のお仕着せがましさが鬱陶しい。 神に代わって汝を許すなどと、神の声を聞いたこともない同じ人間に言われたくはない。 劇中の浅野忠信の言葉を借りると、仏教は「自分の力で悟りへの道を学び仏に近づく」ものだが、一神教は「神の教えに盲従しろ」というもの。 縁もゆかりも無い顔かたちをした男性に「汝の罪は既に私が背負っている」などと言われても、じゃあなんで今苦しいわけ?と突っ込みたくなる。その点「人間が苦しいのは自分の欲からである」と説く仏教の方が、より普遍的に思える。 ただ、武士階級など生活に余裕のある者は、「苦しみは己の欲から生ずる」という教えに向き合う心の余裕もあろうが、重税に苦しみ、ひたすら現実から目を背けたい農民にとっては、「何も考えずに心を委ねる」一神教は乱暴な言い方をすれば楽ですよね。 その点を武士もきちんと心得ていて、農民が本当の意味ではキリスト教の教えを悟っていないこと、そしてだからこそ洗脳されやすい危険があることを承知している。 農民を苦しめている根源であるにも関わらず、「我らも嫌なのだ」「取り合えず形だけでいいのだから」と甘言で体裁を整えようとする嫌らしさ。形だけの行為が、じわじわと彼らを蝕むことも知っている。 そんな農民に「主は許してくださるから踏み絵をしてもいい」と救いの手を伸ばすどころか、神罰と背教を恐れて真の慈悲を見失う宣教師。イコンに執着する心の弱さよ。 本当に信仰しているのなら、胸を張り毅然とした態度で踏み絵をすればいい。 結局人を救えるのは人だけであるということ。 私は、神よりも人の内に宿っている善意を信じたい。 余談だが、最後の20分は蛇足。ロドリゴが踏み絵を決意する緊張の「サイレンス」の演出で終幕すれば、傑作になったのにと思った。
重くて長い純文の結晶
人は弱そうで強い。人は強そうで弱い。 宗教とは何か。信じるとはどういうことか。 正義は1つではない。艱難辛苦を受ける者にも、与える者にも、それぞれに正義はある。 そして、生きるとはどういうことなのか。何を求めて生きるのか。生きることと死ぬことはどう違うのか。同じじゃないのか。この世に生まれる意味は何なのか。神はいるのか。 それらを詰め込んだ映画でした。テーマが重厚で映像に魅入る暇なんかなかった。終わり方も重い。心にドシーンときて沈殿してる。 ニーチェのツァラトゥストラはかく語りき支持者からすれば答えはこの映画とは異なる。目指すべきは超人なのだから。
転びバテレンにも聞こえたかもしれない沈黙の声
塚本監督の約作りが物凄いモキチの殉教シーンは必見です(インパクトは加瀬亮に軍配w)情熱的な宗教家にとって【殉教】というのはある種の救いであり憧れでもあり(死ねばぱらいそに行ける理論)現代でも自爆テロが教義と合致してしまう恐ろしさがあります。島原の乱後の日本においてもその恐怖が身に染みているのか、為政者が宗教的指導者を殺さずに【棄教=転ばせる】選択をしたという設定は凄い説得力があり、作中でリーアム・ニーソンが再登場したときの絶望感はハンパないです。しかしいわゆる【転びバテレン】にも彼らなりに辿り着けた境地があるかもしれないという遠藤周作がいうところの弱者の声を見事に拾い上げたスコセッシ監督に拍手です。しかし窪塚洋介が何度も踏み絵をして褌一枚で走り去る姿は何かだんだんほっこりしてきて良いですねw
沈黙・・・
原作は読んでいないが、とても気になり鑑賞。 ところが・・・ キリスト教弾圧の酷(むご)さが描かれる。 冒頭から、雲仙にて張り付けられたキリシタンに、源泉の熱湯を浴びせるシーン。 柄杓に穴をあけ、熱湯を少しずつ。。。 じわじわと痛みつける。 他にもモキチの殉教のシーン、首を刎ねられるシーン、 さらには宙ずりになったり、ととにかく酷い。 ただ、この映画からはいろいろなものを考えさせられる 神の声とは・・・ 信仰とは・・・ そして、人の心の強さ、弱さは・・・ 様々な試練に対し、そして神の「沈黙」に対し、ロドリゴはどう思ったか。 そして棄教、転ぶことを選択したが、その後の彼の思いは・・・。 とにかく奥深い映画であった。 それに日本人俳優の熱演、キチジローもよかったが、井上様を演じたイッセー尾形が素晴らしい。 当時の人はあんなに英語を話せたんだな(笑)
なぜ桎梏を回収するのか
最後の30分は無駄。 せっかくの作品を台無しにしている。 自らの栄誉と名誉のため、信仰のために人を犠牲にできるのか、 それを神は黙するのか。信仰は、誰のためにあるのか。 遠藤周作は、この問いを未回収のまま我々に投げかけた。 なのに、これをこの映画は無残にも、整理し回収してしまった。 最後の30分は、回収されてしまった「言葉」の物語であって、この小説からは大きく外れてしまっている。 #だから、全てを「英語」で回収しようとする、最もしてはならない愚をこの作品は犯している。残念ながら、この作り手は遠藤のこの作品を自分の 「マスターベーション」にしている。わかったつもりになっているだけだ。まさに、全てを回収しようとするこの作品は、「イノウエさま」そのものなのだ。
観客男率高っ!
キリシタン弾圧の物語「沈黙」長崎県民として観てきましたよっと。 つい最近観たグザヴィエドランとは相対する何をどう訴えたいのかや、その表現の仕方がとても明確でわかりやすい映画でした。まあ、私は余白のある映画が好きなので好きなタイプの映画ではありませんがとても分かりやすいし、飽きないし、内容もよい映画でした。 自身がキリスト教徒である遠藤周作が原作って所がなお良かった様に思う。 キチジローが結果的に間違っていなかったということ。なんだかとても腑に落ちる結論だった。(無宗教だからなのか?日本人だからなのか?) 個人的には千眼美子ちゃんにぜひみてもらいたいとおもったよ。彼女は大川総裁を踏むのかい踏まないのかいさぁどっちなんだい?#踏むでしょ #死にたくないけど踏めないってすごいよね#イッセイ尾形よかったね#浅野の役もよかったね#チョイ役すぎるのに片桐はいりの破壊力すごかったね#エンディング長すぎだね#スペシャルサンクスは一気にだして欲しかったね#帰り際がわからない観客達
すばらしい作品でした。
これまで1000本以上の映画を見てきた私ですが、「アラビアのロレンス」や「シンドラーのリスト」以上に心に残りました。信仰や個人心は、どのような迫害や強制があったとしても、それらに支配されない。人間の自由や信仰の自由の原点を見た想いです。監督のキリスト教思想についての、深い理解と洞察も感じました。遠藤周作の「沈黙」よりもはるかにすばらしい作品になっています。この作品の評価が、なぜ3.8なのか、理解できません。私にとっては、満点です。スコセッシ監督、有難うございました。勇気をいただきました。
たまにはこんな映画も良いです
やはりいろんな意見が出る。考えさせられる映画でした。私自身が全くの無宗教。というよりむしろ宗教自体に批判的なのですが、こういう時代が日本にあったという事を見せられて今の時代に生きている自分の幸せを感じました。 それにしてもやはり人間は弱い生き物ですよね。貧しい村の人たちが必死でお祈りをしている姿をみると、彼らが貧しさの中に救いを求めているのが良くわかる。だけど、今のこの時代にやはり救いを求めて宗教に(特に新興宗教に)救いを求めているってのは、今は昔に比べてはるかに豊かなのだけど逆に精神は豊かさにともなってないのだろうと思います。 創造主が人間を創ったのではなく人間が創造主を創ったのだと私なんかは思っているのだけど、こんなこと書いたら宗教家に袋叩きに合うのかな。だから宗教って嫌いなんだけど。 自分の無宗教ぶりをあらためて感じることができた映画でした。
是非、みてほしい。
意見は分かれるかもしれない。レビューを見てそう感じましたが、とても深いテーマをいくつも内包している映画です。ただ、よくまあこんな映画が作れたと、感嘆です。アカデミー賞じゃなく、ノーベル賞をあげたい。閉塞感、なぜ支配する側とされる側に別れるのか、宗教とは何なのか。心の自由、人間という生き物の弱さ、人は変わらないものなのか?変わるものなのか。信じる、理解する、とはどういうことなのか。違う考えや価値観を持つ人間同士が、いのちを奪いあったり傷付けたり蔑んだりせずに生きることは、はたして可能なのか?正しいとか正しくないとか、良かれと思って押し付けあったり。今の時代も全く同じと感じます。最適な解はわからない。でも、観終わった今でもずっと考えている、そんな投げかけをくれる映画。
泥沼
小説を普段全く読まない人間ですが、この沈黙だけは、本屋さんで手に取って、ふと読んでみたいと思った作品でした。 珍しく最後までノンストップで読めた作品でした。 それが、いつの間にか映画化されているというじゃないですか!(笑) これは見なければと思い、見て来ました… 拷問シーンを恐れまくって見たのですが、なんとか最後まで目をつぶらずに見れた‼︎ 見ているうちに、こういうお話だったけかなと思いつつ、、 人間て不思議だなと改めて思いました。 神はなぜ、沈黙したままなのか、 なぜこのような試練を与えるのか⁇ いや、沈黙してしてるんじゃない、 神様は一緒に悲しんでくれてるんだよと。 日本は布教するには、泥沼だという言葉に、なるほどな〜と思いながら見ました。 西洋でいうところの、創造主、という概念が多分、根本的にしっくり来ない風土の中に生きてるのかなと思いました。 最後に、奥さんが石?を玄関で割るシーンてどういう意味があるのかなと疑問に思いました。
こっちが沈黙したわ。
評価が高いのが驚きです。 いや、私には人の命よりキリストが大事って気持ちが全くわかりませんでした。 リーアム・ニーソンと再会してからが泣けましたが、それまでが長い!!長くてだるい!!盛り上がりが全くない!寝てしまって、こっちが沈黙したわ。 ただ、日本人って残酷ってことはわかりました。
重かったです・・・
どこからどう感想を述べたらいいのやら。とにかく,得体の知れないものが重くのしかかってきたような気分です。 神に身を捧げるロドリゴとガルペの心情は,察するに余りあるものがあります。そして,その信仰心ゆえに,目の前の人の命を助けられずに葛藤し,苦しむ姿は,心に強く訴えかけてきます。…しかし,心の底では彼らに共感していない自分に気づかされました。むしろ,神を信仰しつつも,自分の命を第一に考え,裏切りを続けるキチジローに最も共感しました。十字架やキリスト像に祈りを捧げることを偶像崇拝と笑うなら,形だけの絵踏みなど造作もないことではないのかと考えてしまいます。でも,こう考えることこそが,沼地で育った日本人的見解なのかもしれません。 こんなふうにいろいろと考えさせられたのは,BGMを極力排し,自然の音をふんだんに取り入れていたからかもしれません。音楽によって必要以上に感情を煽らず,目の前の人間の生きざまをありのままに描くことで,見る者一人一人に深く考えさせているように思います。 今なお信仰の違いが世界中で争いの火種になっています。互いの宗教を理解できないまでも,否定,弾圧,迫害などすることなく,せめて許容することぐらいはできないものかと切に願います。
棄教する弱きものこそ
西欧のエリートが異文化の辺境で使命を捨て変貌したという知らせに若者が真相を探る探求の旅に出る。コッポラの「地獄の黙示録」その原作ジョーゼフ・コンラッドの「闇の奥」を思い出す。 では「沈黙」はスコセッシ版「地獄の黙示録」なのかというと「沈黙」の元になったのは1700年代の実話なのだからそれは違う。 「地獄の黙示録」のカーツ大佐、原作「闇の奥」のクルツは辺境で神と崇められるが、フェレイラは信仰を棄て日本人になったと言うのだから全く正反対。 west meets east。西欧人が異文化に接してアイデンティティが崩壊したのは日本でもアフリカでも起きていた事だ。 信仰=個人のアイデンティティという「沈黙」の時代と「闇の奥」「地獄の黙示録」の時代とは、全く異なる。 「闇の奥」で西欧人が直面したのは未開のアフリカ文化、「地獄の黙示録」でカーツが直面したのは欧米人に予防接種されたベトナム人の子どもの腕を切断したアジア人の西欧への不信と敵対心。 しかし「地獄の黙示録」はベトナム人に取材していない。アメリカ側の混乱の再現だからアメリカ人が考えた「理解不能なアジア人」という定型に陥っている事を割り引かなければならない。 それに比べれば「沈黙」は日本人をよく描けていると思う。一揆を防ぐ為の切支丹抑圧。ある時は仲間に犠牲を強いる隠れ切支丹の身勝手さすらリアリティを持って描かれている。そして映画では触れられていないが宣教師たちに棄教を迫るイノウエと通辞は二人とも元キリスト教徒なのだった。日本の宗教とキリスト教の神の違いを知り尽くした彼等に宣教師たちは手も足も出ない。 「日本は一神教が根付かない沼なのだ。あなた達の神は何をしてくれた?沈黙しているだけではないか? 逆さ吊りにあっているあの信徒達の苦しみを救うことができるのは、ロドリゴ師。あなただけだ。あなたが転べば、彼等は救われる。あなたが信仰を貫けば彼等は苦しみ抜いて死ぬ。あなたの信仰は誰も救うことが出来ない。簡単な事だ。形だけのことだ。少し脚を乗せるだけのことだ」老獪なイッセー尾形、にこやかな言葉と裏腹な浅野忠信が恐ろしい。 好むと好まざると関わらず「西欧文明の尖兵」という役割を持っていたキリスト教を徹底的に弾圧した事で、日本は植民地化されなかったが科学文明に接する機会も失った。 だがそれは後世の後知恵。今の基準で「欧米拒否した日本素晴らしい」なんて称揚するのも短絡的。 世界の果てで相容れない文化に敗北したキリスト教。しかし神は信仰をたやすく捨てる弱き者にこそ寄り添う伴奏者として顕現する。 その微かな小さな声に、感動してしまう自分がいる。この弱いものに寄り添う神は旧約聖書の厳しい神ではなく、マグダラのマリアを守るキリストだ。 イスカリオテのユダを思わせるキチジローと言う、弱い弱い人物が出てくる。生き延びる為、裏切り、ロドリゴを売り渡し、何度も踏み絵を踏む。後悔しては懺悔をするの繰り返し。 ユダや、キチジローをも許す神、弱い者と共に苦しむ神。信仰を棄てた者こそ救われなければならない者ではないかという逆説。 原作が発表された当時、カトリックからは猛烈な批判があった。信仰を棄てたものは神の敵とみなす様な批判。 いかにも西欧諸国のキリスト教の批判だ。自己を、きびしく律する事こそ神への道、そしてその自己規律から生まれた資本主義精神は弱きをくじき強くあらねばならぬと奮い立つのだ。 監督マーティン・スコセッシはカトリックの司教から原作を紹介されたそうだ。カトリックも今は遠藤周作さんの「弱き者に寄り添うイエス」を認めているのだろう。 さて、この映画の時代から600年。異文化を拒絶するアメリカ大統領、ヘジャブを禁ずるフランス、難民を拒む日本。異文化を拒む偏狭さは何も変わらない。
キリストコスプレ大集合
主人公が日本のキリシタン達を応援しに日本にやってくる。 主人公ともに日本に渡るのはスターウォーズ新新三部作のカイロ・レン君である。 そして、冒頭で日本政府に滅茶苦茶いじめられるスターウォーズ新三部作のクワイ・ガン・ジン。 そしてそして。だいたいのシーンを半裸で褌振り乱しながらはしる窪塚洋介。 想像して欲しい。 3人とも長髪がボッサボサで、 髭も伸び散らかってボッサボサで、 ものすごい汚れた着物がはだけてほとんどローマ人みたいな格好をしている。 そう。3人とも渾身のキリストコスプレなのだ。 そんななか、日本政府にやっぱり滅茶苦茶いじめられる主人公。 もうやだー! 主よー! もうやだー! ってなった主人公の前に、 パードレー! 告解してー! 告解してパードレー!! と、元気一杯で走り寄ってくる窪塚洋介。 そんな窪塚洋介が一番キリストコスプレが板についてる。 そんな恐ろしい作品だったし、 拷問シーンに次ぐ拷問シーンという苦しい内容の割には結構みれたけど、 すきじゃなかったな。 あと長いし。
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