沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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なぜ桎梏を回収するのか
最後の30分は無駄。
せっかくの作品を台無しにしている。
自らの栄誉と名誉のため、信仰のために人を犠牲にできるのか、
それを神は黙するのか。信仰は、誰のためにあるのか。
遠藤周作は、この問いを未回収のまま我々に投げかけた。
なのに、これをこの映画は無残にも、整理し回収してしまった。
最後の30分は、回収されてしまった「言葉」の物語であって、この小説からは大きく外れてしまっている。
#だから、全てを「英語」で回収しようとする、最もしてはならない愚をこの作品は犯している。残念ながら、この作り手は遠藤のこの作品を自分の
「マスターベーション」にしている。わかったつもりになっているだけだ。まさに、全てを回収しようとするこの作品は、「イノウエさま」そのものなのだ。
沈黙は神もまた苦しんでいたからか
日本におけるキリスト教信者への迫害は、1587年豊臣秀吉による、伴天連遂放令に始まる。秀吉は、唯一の絶対君主となるために一斉に刀狩りを行い、20万人の兵を率いて九州に侵攻、島津藩を降伏させて,天下統一を図った。1592年には,16万人の兵を朝鮮に出兵させ、明との友好的国交を絶ち、植民地化への道を探った。彼は早くから、スペインと、ポルトガルが日本を征服しようとしている意図を察知していた。それに対抗するために、彼は琉球王国、朝鮮、明の国を植民地化し、さらにポルトガル領インド、スペイン領フィリピンを征服する予定で居た。
そもそも秀吉を怒らせたのは、バテレン宣教師たちが、当時の習慣になかった牛馬肉を食べ、キリスト教を唯一の教えとして他の教義を否定し、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買し、巨利を得ていることが発覚したからだった。秀吉の命令を受けて、1597年2月 長崎西坂でスペイン、ポルトガル、メキシコの司祭と20人の日本人信者、合計26人が焚刑に処されたことは、クリスチャンでなくとも人々を恐怖に陥れた。
秀吉の死後、徳川幕府は、さらにキリスト教信者への弾圧を強め、1614年1月にはキリスト教禁止令を発した。このときから実に1873年明治政府がキリシタン禁止令を撤廃するまでの長い間、政府はキリスト教を禁じたのだった。
1610年にポルトガル人、クルストファ フェレラ司祭は他の司祭たちと共に、マカオから日本に入国し、20年余りの間イエズス会地区長という最高の重職について、布教を続け。他の隠れ残っていた37人の司祭たちや信徒を統率していた。迫害が始まる前の日本には、九州から仙台まで、たくさんの教会が建ち、いくつもの神学校が作られ、40万人もの信者が居た。しかしその後、弾圧と迫害の嵐が吹き荒れ、1637年には島原の乱が起こり、3万7千人の一揆に参加した信者たちが惨殺された。
クリストファ フェレラ教父が20年余りの困難な布教ののち、幕府に拘束され、拷問を受けた結果、棄教したという信じがたいニュースがローマ教会に伝えられた。
と、いうところから、遠藤周作の1966年に発表された小説 「沈黙」が始まる。
映画はこの原作を忠実に制作されている。
ストーリーは
フェレラ教父を心から尊敬し慕っていた弟子のセバスチャン ロドリゴ司祭は、彼が棄教したというニュースが信じられず、事実を確かめようと、フランシス ガルべ司祭とともに、日本に密航する許可を教会から得る。彼らは舟で1638年、ポルトガル リスボンからポルトガル領インドのゴアを経て、マカオに着く。そこで二人の司祭は、出会った日本人キチジローを案内人として、九州五島半島のモトギ村に潜入する。彼らは隠れ信者たちのために洗礼、布教をするが、弾圧は激しく困難を極める。村では司祭や信者を見つけて、役人に密告すると、莫大な謝礼金が出るといった密告社会が出来上がっていて、告発された信者たちには、踏み絵をはじめとして見せしめのための、激しい拷問が待ち構えていた。
ロドリゴ司祭は、キチジローの密告により逮捕され、長崎奉行;井上越後守から尋問を受ける。この男はロドリゴ教父を改心させた男で、それまでの宣教師や信者たちへの迫害はかえって信者の信心を強化する役割しか果たしていないことを知っていた。そして、より効果的に司祭を改心させる手立てを考えていた。
拘束されたロドリゴ司祭は、自分が拷問されるのではなく、自分をかくまって、食べ物を差し出し世話をしてくれて信者たちが自分の代わりに、目の前で拷問を受けることに苦しみ抜く。問答無用に踏み絵を踏んだ信者たちが、許されることなく首をはねられ、海に突き落とされて死んでいく。唯一の仲間だったガルべ司祭も、信者を追って水死した。激しい拷問にあとで殉教していく信者のための彼の祈りは、神に聞き届けられない。
ロドリゴは井上越後守の計らいで、日本に渡航する目的だったフェレラ教父に会う。かつての師に棄教するように勧められるが、しかしロドリゴは、フェレラに軽蔑と、憐憫の情しか持ち得なかった。まして、自分を裏切ったキチジローというユダを赦すことができない。神は何故祈りを聞き入れてくれないのか。神は沈黙を守り、信者の祈りに応えてようとしない。
ロドリゴ司祭は長崎中を裸馬に乗せられ引き回しの刑をうけたあと、暗闇の牢のなかで人々のうめき声を聞く。3人の信者がロドリゴ司祭が棄教しないために穴吊りの刑で死につつある。自分が棄教しさえすれば信者たちの命は助かる。ついに、ロドリゴはフェレラに押されて、踏み絵を踏む。
その後、ロドリゴは岡田三右エ門という日本名とともに、幕府から住居と給与を与えられ妻帯する。先に沢野忠案庵という名を与えられていたフェレラとともに、幕府に請われるまま、翻訳やキリスト教関係の執筆などをした。ロドリゴは30年余り生き、江戸で病死する。死ぬときに彼は殉教した信者からもらった十字架を持っていて、棄教したのは偽りで、偽装転向していただけだったことがわかる。
というストーリー。
フェレラとロドリゴの棄教とは、異なる。フェレラは絶望から棄教した。3日間汚物をつめた穴の中で逆さに吊るされ、耳に開けられた小さな穴から少しずつ血を流し続け、自分と同じように5人の信者が吊るされているうめき声を聞きながら、彼は神に絶望する。「神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必死で祈ったが神は何もしなかったからだ。」「司祭はキリストにならって生きよと言う。もしキリストがここに居られたらたしかに、キリストは彼らのために転んだだろう、」とフェレラは言う。
ロドリゴが踏み絵に足を乗せたのは、「銅板のあの人は言った。踏むがいい。お前の足の痛さはこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負たのだ。」という声を聞いたからだ。そして彼は、悟る。「神は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。神は弱い者のためにあるのだから。」 ロドリゴは決して絶望していない。神は弱い者のために一緒に苦しんで、沈黙していたとわかったからだ。
自分の信心と志を曲げずに殉教していった信者たちよりも、痛みや恐怖から自分の信念を捨てた弱い者のために神は居る。という思想は作者、遠藤周作の一環したキリスト者としてのテーマだった。
当時、重税にあえぎ、貧困に苦しみ抜いていた人々にとって、生きていても良い事はない。死後に苦労が報われて、救われると信じたいという他力本願の思考は、限りなく仏教の親鸞の教えに近い。すなわち、「善人なおもて往生を遂げる。いわんや悪人をや。」という思想だ。
来世を信じて神に祝福されて死んでいきたいと願いながら殉教していく信者を前にして、「それは、神の教えとは違う」、と、ロドリゴは言うことができなかった。来世に行くために踏み絵を踏まずに拷問を受ける心の強い信者も、踏み絵を踏む弱い信者も、同時に神から赦されるべきだと、ロドリゴは考える。そして、ロドリゴは、自分を密告したキチジローのために、懺悔を聞き、赦しを与えた。
わたしはクリスチャンでも、親鸞の浄土真宗信者でもない。聖書は13歳のときに一度読んだきりだ。
人は宗教を持とうが持つまいが、人として、「良き人でありたい」と願いながら生きるものだ。「人は他人のために生きて初めて生きたことになる。」 というトルストイの言葉が好きだ。良き人になろうと努力をして、良き人として生き、良き人として死んでいきたい。踏み絵を踏むか、踏まないかは個人の問題だ。弱い人、強い人というものがあるわけではなく、人には誰でも弱い時も強い時もある。だから、遠藤周作が、この作品を発表したとき、カトリック団体から厳しい批判が出て来たことが不思議でならなかった。
人々がみな鉄の意志を持ち、正義と、神への愛のために生きることができるのであれば、文学や詩などありえない。芸術など成立しないではないか。
井上筑後守を演じたイッセー尾形の演技が冴えている。残酷な指導者ほど物腰が柔らかく、ねこなで声で優しい。そんなコントラストのある役を、ひょうひょうと演じていた。キチジローの窪塚洋介は、とても良い役者だ。
でも日本人役者の中で一番良かったのは、通辞役の浅野忠信。彼の日本人なまりのない英語が耳に快い。すばらしい。通辞役は、はじめ渡辺謙がやるはずだったそうだが、撮影スケジュールの関係で浅野忠信になったそうだが、これが正解。
この通辞は、自分もはじめは神学校で洗礼を受けたクリスチャンだったが、宣教師たちの白人至上主義の差別的態度や傲慢さに嫌気がさし、棄教した人物。貧乏侍の子供が食べていくのに有利なように、ポルトガル語を習熟したという秀才で屈折した男、という難しい役を浅野は淡々と演じていて、とても魅力的だ。
監督はフェレラ役を、はじめはダニエルデイ ルイスと考えていたという。本当に彼がやっていたら、もっとフェレイラの裏切る姿に複雑な陰影が現れていて良かっただろう。彼の心の葛藤なども、うまく表現されていたに違いない。
主役のロドリゴ役の アンドリュー ガーフィールドは今や一番輝いている若手の役者だろう。ことさらカメラが、彼の顔のアップを捕えているシーンが多かったが、さすが舞台俳優、、、苦悩する人の表情、心を痛めている表情が存分に表現されていて共感を呼ぶ。
この監督は、作品を、実に巧みな映像の力で、効果的に人に訴えることを得意とする監督だ。最高のテクニシャン。天才的なストーリーテラーだ。彼の手にかかれば、どんなつまらないお話も、わくわくどきどき連続、時には恐怖のどん底に突き落とし、時には最高の幸せ感で一杯にしてくれる。フイルム「シャッターアイランド」では、出だしから不安感をあおり、究極の恐怖感まで上り詰めさせてくれた。「ウルフ オブ ウオールストリート」では、裸の女の肛門に置いたコカインをレオナルド デカプリオが吸い込むシーンで始まり、終わりまでアメリカ的なアメリカのためのアメリカンテイストのシーン満載で、ゲップを連発させてくれた。
「ヒューゴの不思議な発明」では、映画というものの素晴らしさを、バケツ一杯の涙が出るほど巧に見せてくれた。彼は映像の魔術師。本物の映画屋だ。
その彼が1991年から「沈黙」の構想を持っていて、映画化することが念願だったという。日本の17世紀初頭を映像化するのに資金がかかりすぎるため、すべて撮影を台湾で行なった。それが、とてもとても残念。海と山の場面は良い。しかし、フェレイラが住居としていた西勝寺や、長崎奉行、井上筑後守の屋敷などが、安造りでがっかりした。
日本の四季の移り変わり、木漏れ日、真白の障子、欄間を通して光る陽、襖に描かれた山水画、生け花の楚々とした美しさ、淡い空気の変化、真新しい畳の香り、畳の縁飾り、磨き抜かれた廊下の輝き、瓦屋根に沁みる雨、緑の鮮やかさ、淡い色の花々、行灯の淡い影、朝夕の寺の鐘、本堂に至る石段、苔に覆われた庭、、、日本の屋敷、日本の生活様式の美しさ、、、、、。映画を作る前に、2日でも3日でもマーチン スコセッシ監督に、日本家屋での生活を体験してから撮影に取り掛かって欲しかった。そうすれば撮影を予算節約のために台湾のセットで行うなんてことはなかっただろう。残念だ。
観客男率高っ!
キリシタン弾圧の物語「沈黙」長崎県民として観てきましたよっと。
つい最近観たグザヴィエドランとは相対する何をどう訴えたいのかや、その表現の仕方がとても明確でわかりやすい映画でした。まあ、私は余白のある映画が好きなので好きなタイプの映画ではありませんがとても分かりやすいし、飽きないし、内容もよい映画でした。
自身がキリスト教徒である遠藤周作が原作って所がなお良かった様に思う。
キチジローが結果的に間違っていなかったということ。なんだかとても腑に落ちる結論だった。(無宗教だからなのか?日本人だからなのか?)
個人的には千眼美子ちゃんにぜひみてもらいたいとおもったよ。彼女は大川総裁を踏むのかい踏まないのかいさぁどっちなんだい?#踏むでしょ
#死にたくないけど踏めないってすごいよね#イッセイ尾形よかったね#浅野の役もよかったね#チョイ役すぎるのに片桐はいりの破壊力すごかったね#エンディング長すぎだね#スペシャルサンクスは一気にだして欲しかったね#帰り際がわからない観客達
すばらしい作品でした。
これまで1000本以上の映画を見てきた私ですが、「アラビアのロレンス」や「シンドラーのリスト」以上に心に残りました。信仰や個人心は、どのような迫害や強制があったとしても、それらに支配されない。人間の自由や信仰の自由の原点を見た想いです。監督のキリスト教思想についての、深い理解と洞察も感じました。遠藤周作の「沈黙」よりもはるかにすばらしい作品になっています。この作品の評価が、なぜ3.8なのか、理解できません。私にとっては、満点です。スコセッシ監督、有難うございました。勇気をいただきました。
たまにはこんな映画も良いです
やはりいろんな意見が出る。考えさせられる映画でした。私自身が全くの無宗教。というよりむしろ宗教自体に批判的なのですが、こういう時代が日本にあったという事を見せられて今の時代に生きている自分の幸せを感じました。
それにしてもやはり人間は弱い生き物ですよね。貧しい村の人たちが必死でお祈りをしている姿をみると、彼らが貧しさの中に救いを求めているのが良くわかる。だけど、今のこの時代にやはり救いを求めて宗教に(特に新興宗教に)救いを求めているってのは、今は昔に比べてはるかに豊かなのだけど逆に精神は豊かさにともなってないのだろうと思います。
創造主が人間を創ったのではなく人間が創造主を創ったのだと私なんかは思っているのだけど、こんなこと書いたら宗教家に袋叩きに合うのかな。だから宗教って嫌いなんだけど。
自分の無宗教ぶりをあらためて感じることができた映画でした。
原作は中学の頃読んだかな〜 私は宗教に無関心なので 信仰する者達も...
原作は中学の頃読んだかな〜
私は宗教に無関心なので
信仰する者達も
それを阻止する者達も
そこまでしなければいけない事なのかと
理解出来ない...
塚本晋也の
張り付けシーン凄まじかったな...
アンドリューガーフィールドに
「天国に行けば
この苦しみから逃れられると…
神と一緒に
幸せに暮らせるんですよね?」と
詰め寄るシーン
なんか勘違いが否めないが
あえて抵抗して
踏み絵を踏まなかったのも
安易な逃げなのかとも取れる
ただ楽になりたいと...
いったい信仰って何なんだ?
ここまで根絶やしに潰さなければ
いけないものなのか?
結局自問自答で
神に許しを得たかの解釈で
棄教するが
それなら
犠牲を増やす前に棄教しろって
腹立たしくも思えた
イッセー尾形の
やってる事は酷いが
言ってる事の説得力には考えさせられた。
まさに
サッサと転べ...だ
心の中で
信じていればいいじゃないか‼︎
是非、みてほしい。
意見は分かれるかもしれない。レビューを見てそう感じましたが、とても深いテーマをいくつも内包している映画です。ただ、よくまあこんな映画が作れたと、感嘆です。アカデミー賞じゃなく、ノーベル賞をあげたい。閉塞感、なぜ支配する側とされる側に別れるのか、宗教とは何なのか。心の自由、人間という生き物の弱さ、人は変わらないものなのか?変わるものなのか。信じる、理解する、とはどういうことなのか。違う考えや価値観を持つ人間同士が、いのちを奪いあったり傷付けたり蔑んだりせずに生きることは、はたして可能なのか?正しいとか正しくないとか、良かれと思って押し付けあったり。今の時代も全く同じと感じます。最適な解はわからない。でも、観終わった今でもずっと考えている、そんな投げかけをくれる映画。
泥沼
小説を普段全く読まない人間ですが、この沈黙だけは、本屋さんで手に取って、ふと読んでみたいと思った作品でした。
珍しく最後までノンストップで読めた作品でした。
それが、いつの間にか映画化されているというじゃないですか!(笑)
これは見なければと思い、見て来ました…
拷問シーンを恐れまくって見たのですが、なんとか最後まで目をつぶらずに見れた‼︎
見ているうちに、こういうお話だったけかなと思いつつ、、
人間て不思議だなと改めて思いました。
神はなぜ、沈黙したままなのか、
なぜこのような試練を与えるのか⁇
いや、沈黙してしてるんじゃない、
神様は一緒に悲しんでくれてるんだよと。
日本は布教するには、泥沼だという言葉に、なるほどな〜と思いながら見ました。
西洋でいうところの、創造主、という概念が多分、根本的にしっくり来ない風土の中に生きてるのかなと思いました。
最後に、奥さんが石?を玄関で割るシーンてどういう意味があるのかなと疑問に思いました。
こっちが沈黙したわ。
評価が高いのが驚きです。
いや、私には人の命よりキリストが大事って気持ちが全くわかりませんでした。
リーアム・ニーソンと再会してからが泣けましたが、それまでが長い!!長くてだるい!!盛り上がりが全くない!寝てしまって、こっちが沈黙したわ。
ただ、日本人って残酷ってことはわかりました。
重かったです・・・
どこからどう感想を述べたらいいのやら。とにかく,得体の知れないものが重くのしかかってきたような気分です。
神に身を捧げるロドリゴとガルペの心情は,察するに余りあるものがあります。そして,その信仰心ゆえに,目の前の人の命を助けられずに葛藤し,苦しむ姿は,心に強く訴えかけてきます。…しかし,心の底では彼らに共感していない自分に気づかされました。むしろ,神を信仰しつつも,自分の命を第一に考え,裏切りを続けるキチジローに最も共感しました。十字架やキリスト像に祈りを捧げることを偶像崇拝と笑うなら,形だけの絵踏みなど造作もないことではないのかと考えてしまいます。でも,こう考えることこそが,沼地で育った日本人的見解なのかもしれません。
こんなふうにいろいろと考えさせられたのは,BGMを極力排し,自然の音をふんだんに取り入れていたからかもしれません。音楽によって必要以上に感情を煽らず,目の前の人間の生きざまをありのままに描くことで,見る者一人一人に深く考えさせているように思います。
今なお信仰の違いが世界中で争いの火種になっています。互いの宗教を理解できないまでも,否定,弾圧,迫害などすることなく,せめて許容することぐらいはできないものかと切に願います。
棄教する弱きものこそ
西欧のエリートが異文化の辺境で使命を捨て変貌したという知らせに若者が真相を探る探求の旅に出る。コッポラの「地獄の黙示録」その原作ジョーゼフ・コンラッドの「闇の奥」を思い出す。
では「沈黙」はスコセッシ版「地獄の黙示録」なのかというと「沈黙」の元になったのは1700年代の実話なのだからそれは違う。
「地獄の黙示録」のカーツ大佐、原作「闇の奥」のクルツは辺境で神と崇められるが、フェレイラは信仰を棄て日本人になったと言うのだから全く正反対。
west meets east。西欧人が異文化に接してアイデンティティが崩壊したのは日本でもアフリカでも起きていた事だ。
信仰=個人のアイデンティティという「沈黙」の時代と「闇の奥」「地獄の黙示録」の時代とは、全く異なる。
「闇の奥」で西欧人が直面したのは未開のアフリカ文化、「地獄の黙示録」でカーツが直面したのは欧米人に予防接種されたベトナム人の子どもの腕を切断したアジア人の西欧への不信と敵対心。
しかし「地獄の黙示録」はベトナム人に取材していない。アメリカ側の混乱の再現だからアメリカ人が考えた「理解不能なアジア人」という定型に陥っている事を割り引かなければならない。
それに比べれば「沈黙」は日本人をよく描けていると思う。一揆を防ぐ為の切支丹抑圧。ある時は仲間に犠牲を強いる隠れ切支丹の身勝手さすらリアリティを持って描かれている。そして映画では触れられていないが宣教師たちに棄教を迫るイノウエと通辞は二人とも元キリスト教徒なのだった。日本の宗教とキリスト教の神の違いを知り尽くした彼等に宣教師たちは手も足も出ない。
「日本は一神教が根付かない沼なのだ。あなた達の神は何をしてくれた?沈黙しているだけではないか?
逆さ吊りにあっているあの信徒達の苦しみを救うことができるのは、ロドリゴ師。あなただけだ。あなたが転べば、彼等は救われる。あなたが信仰を貫けば彼等は苦しみ抜いて死ぬ。あなたの信仰は誰も救うことが出来ない。簡単な事だ。形だけのことだ。少し脚を乗せるだけのことだ」老獪なイッセー尾形、にこやかな言葉と裏腹な浅野忠信が恐ろしい。
好むと好まざると関わらず「西欧文明の尖兵」という役割を持っていたキリスト教を徹底的に弾圧した事で、日本は植民地化されなかったが科学文明に接する機会も失った。
だがそれは後世の後知恵。今の基準で「欧米拒否した日本素晴らしい」なんて称揚するのも短絡的。
世界の果てで相容れない文化に敗北したキリスト教。しかし神は信仰をたやすく捨てる弱き者にこそ寄り添う伴奏者として顕現する。
その微かな小さな声に、感動してしまう自分がいる。この弱いものに寄り添う神は旧約聖書の厳しい神ではなく、マグダラのマリアを守るキリストだ。
イスカリオテのユダを思わせるキチジローと言う、弱い弱い人物が出てくる。生き延びる為、裏切り、ロドリゴを売り渡し、何度も踏み絵を踏む。後悔しては懺悔をするの繰り返し。
ユダや、キチジローをも許す神、弱い者と共に苦しむ神。信仰を棄てた者こそ救われなければならない者ではないかという逆説。
原作が発表された当時、カトリックからは猛烈な批判があった。信仰を棄てたものは神の敵とみなす様な批判。
いかにも西欧諸国のキリスト教の批判だ。自己を、きびしく律する事こそ神への道、そしてその自己規律から生まれた資本主義精神は弱きをくじき強くあらねばならぬと奮い立つのだ。
監督マーティン・スコセッシはカトリックの司教から原作を紹介されたそうだ。カトリックも今は遠藤周作さんの「弱き者に寄り添うイエス」を認めているのだろう。
さて、この映画の時代から600年。異文化を拒絶するアメリカ大統領、ヘジャブを禁ずるフランス、難民を拒む日本。異文化を拒む偏狭さは何も変わらない。
静かな映画だった、音がなくなる場面は隣のスタジオの映画の音が聞こえ...
静かな映画だった、音がなくなる場面は隣のスタジオの映画の音が聞こえてくるほどだった。画面は美しかった。私は信仰を持たないけど、信仰を持つことはどういうものだろうと考えることはあって、答えを出さずに描いているところが良かった。それぞれの人に言い分があって、単純な悪い人は出てこないところも良かった。沼地、と言ってたけど、靄のかかる森や、海風や、それと対象的な、乾いた土のにおいとかも画面から伝わってくるようだった。蝿の羽音も印象的だった。原作も読もうと思った。長崎の踏み絵がある協会にも行ってみたい。
宗教観が希薄な私には難しい内容でした。
宗教観が希薄な私のような日本人には、登場人物達に共感するのが難しいと感じました。
主人公は劇中で何度も棄教を迫られ、それを拒み周りの人に危害が及ぶ度に、神に祈ることの意味に疑問を持つ姿があります。
神はこのような悲惨な有様を見ながら、なぜ沈黙しているのかと。
そのような目に遭ってもなぜ棄教しないのかということを鑑賞中に何度も考えてしまいました。
私には主人公の苦しみは完全には理解出来ませんでしたが、この映画を観たことで宗教について考えさせられました。
鎖国時代の宣教師を追体験した気分
日本に来るまでの映像が美しい。
来てからも、自然は美しい。
運命と処刑の残虐さが引き立つ。
お約束?の日本的処刑のシーンは虚を疲れた。
CGが少なく、圧倒的な画面。
つまり、カメラ、凄いです。
背教神父となり、政府の言うがままに従い、結婚して、火葬されても、彼らは変わらなかったというメッセージを受け取った。原作とは少し違う印象。原作の絶望感から救われた。10代の頃の読み方が悪かったのかな。
きついけど希望がある事を教えてくれる映画。
長いけど、長さを感じさせない。
キリストコスプレ大集合
主人公が日本のキリシタン達を応援しに日本にやってくる。
主人公ともに日本に渡るのはスターウォーズ新新三部作のカイロ・レン君である。
そして、冒頭で日本政府に滅茶苦茶いじめられるスターウォーズ新三部作のクワイ・ガン・ジン。
そしてそして。だいたいのシーンを半裸で褌振り乱しながらはしる窪塚洋介。
想像して欲しい。
3人とも長髪がボッサボサで、
髭も伸び散らかってボッサボサで、
ものすごい汚れた着物がはだけてほとんどローマ人みたいな格好をしている。
そう。3人とも渾身のキリストコスプレなのだ。
そんななか、日本政府にやっぱり滅茶苦茶いじめられる主人公。
もうやだー!
主よー!
もうやだー!
ってなった主人公の前に、
パードレー!
告解してー!
告解してパードレー!!
と、元気一杯で走り寄ってくる窪塚洋介。
そんな窪塚洋介が一番キリストコスプレが板についてる。
そんな恐ろしい作品だったし、
拷問シーンに次ぐ拷問シーンという苦しい内容の割には結構みれたけど、
すきじゃなかったな。
あと長いし。
お前のせいで、奴らは苦しむのだ。
映画「沈黙 サイレンス」(マーティン・スコセッシ監督)から。
原作は、遠藤周作さんの小説「沈黙」。
若い頃、一度読んだが、覚えているのは「踏み絵」の場面など、
「信仰」するという、静かだけど力強い人間の心の動きであり、
それを映像で、どう表現するのか、とても興味があった。
しかし、58歳で鑑賞した映画作品は、原作にほぼ忠実だけれど、
私の引っかかった個所は、歴史としての「宗教弾圧」ではなく、
また「他人事」としての物語ではなかった。
心を大きく揺さぶられたのは、イッセー尾形さん演ずる
「井上筑後守」が「宣教師」に言い放った台詞
「お前のせいで、奴らは苦しむのだ」だった。
(「お前が転ばぬ限り、犠牲が出る」というフレーズも・・)
「自分の存在」が「周りの人達を苦しめている」という事実を、
目の前で見るにつけ、心が揺さぶられ、心が心を裏切りそうになる。
それは、私たちの仕事や、日常生活でも同じことが起きていると、
観賞後に、ふっと気付いたとき「自分事」に変わった。
「信じる道を貫く、目の前の命を救う、どちらを選べば良いのか」
たぶん、どちらが正しいと言うことではなく、
そのことに悩み苦しみながらも、常に自分の存在を意識することが
大切なのではないか、と考えてみたりもしている。
作品のラストに、こんなナレーションが入る。
「私は沈黙したのではない。おまえとともに苦しんでいたんだ。
沈黙の中で、私はあなたの声を聞いていた」
もう1度、原作を丁寧に読んでみようかな。
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