沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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1点だけ気になったが興味深い作品
キリスト宣教者対反キリスト日本大名両者ともの尊厳を守って描いていて素晴らしかった。
日本なのに、日本の映画にはない絵の綺麗さ。音や影の使い方が美しかった。
なにを伝えたい映画だったか。人を救うのは神か人か?人々を幸せにするための教えであるはずが人々を苦しめる矛盾か?受け取れるメッセージは他にも沢山あって色々考えさせられる。
キリストの誘惑や受難を想起させ、神の沈黙のなか本人だけでなく自分のせいで(神の沈黙のせいで?)苦しめられている周りの人々を見るのはキリストよりも苦痛を与えられているのではとすら思った。
ただ、気になったのは宣教者たちは「どうして日本の偉い人はそこまでキリスト教を受け入れたくないのか」を考えないのは自然ではない。原作でも触れられていないのだろうか。
日本はキリスト教が根付かないそういう土地なのだ。で済む話だろうか。事情を知らなければ当然拒絶され、人々に安易に救いを求める矛先として扱われるだけだろうと容易に想像できる。
実際、キリスト教が広まったのは祈るだけで救われる天国に行けると聞いた貧民層たちが大半だったとは思うが、宣教者たちはそのように望んでいなかったはず。映画の中でもフェレイラが嫌味を漏らしていた。
そこがないのでなんだか主人公の感情にはのめり込めなかったが
メッセージ性のある作品が好みなので、全体的には素晴らしく楽しめた映画だった。
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だ...
苦悩・・・神は何故沈黙を続けるのか
危険を覚悟の上、使命感に満ちて来日した二人のポルトガル人宣教師が、キリシタン弾圧の対象となり、信者と共に苦悩する姿や、見せしめの為の拷問による処刑シーンに、胸が苦しくなりました。
ロドリゴ神父を演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技が秀逸で、フェレイラ神父と対面し、言葉を交わした時の苦悩に満ちた表情が忘れられません。
癖のある井上筑後守をイッセー尾形さん、ネイティブな通詞(通訳)を浅野忠信さん、人間味溢れたどこか飄々とした隠れキリシタンを窪塚洋介さんが表現力豊かに演じられていました。
小松菜奈さんも隠れキリシタンの女性を好演。
当時の日本のキリシタン弾圧のむごたらしさと苦悩を、痛烈に描いた作品。
NHKBSを録画にて鑑賞
モキチさんの賛美歌?が…
私はカトリック教徒です。
この映画みて何だか胸が苦しくなりました
1番はモキチさん達が拷問にあうシーン
十字架に吊るされしかも海の波にもまれるシーン
観てられなかった
モキチさん以外の人達が亡くなる中モキチさんは亡くなるまで数日かかりそんな中賛美歌を歌う
もうここが辛かった
この演技力もすごいと思った
マーティン・スコセッシ監督の致命的な過り。
神は存在しているのか?
もし存在しているのだとして、これだけ祈り続けても、なぜ一言も応えてくれないのか?
これが「沈黙」という作品のメインテーマであり、タイトルの由来でもあるはずです。
しかし、この作品の中で、ただ一度だけ、神は声を出し、赦しを与えています。
この最大のテーマについて、どうやら監督は見落としてしまっていたようです。
監督が気がついていないのだから、観衆も気がつくはずがありません。
こうして、この作品は、単なる異文化との衝突をグロテスクに描くだけの作品に堕してしまったのでした。
遠藤周作先生も草葉の蔭で泣いておられることでしょう。
ロドリゴ司祭が棄教する、まさに瞬間、初めて神は声を発し、赦しを与えていたのですが。
だからこそ「沈黙」というタイトルだったのですが。
名監督をしても気がつかなかったということが、残念でなりません。
「日本ってこんな国」を見つめる
・オープニング、何かウァッって出てくるんじゃないかと目細めて身構えたけどなんもなかった。
・このオープニング演出すごい。
・(極力)洗脳しない映画。
・たとえば音楽がほとんどない。
・事実をフラットなテンションで描いて、お前はどう思う?と聞いてくる映画。
・決して時代遅れではないテーマ。映画の時代の日本の姿は、現代日本にもがっつりリンクしている。
・だから今それを映画で描く事に意味がある
・こんなん続けて一体何になるんだろう?と思いながら毎日頑張って働いている人がたくさんいるはず
・映画の中の「本当に神はいるのか...?」という葛藤は、現代の働く人にとって共感できるもの
・「自分は間違っていない」という確信だけでなく、「与えられた環境で自分はなにができるのか」という気づきが芽生える瞬間が描かれている
・日本には八百万(やおよろず)の神を崇める文化があるように、日本人は特に、おのおのが信じたいと思うものを信じる気持ちが強い。
・映画の中で、日本のキリスト教徒が崇めていたのはキリストではなく、太陽だったというのは非常に興味深い(すごい独自アレンジw)
・キャスティングがおもしろい。
・クワイガンジン役の俳優さん出てて、着物姿がしっくりくる。
・日本の怖さと美しさが描かれてる
・普段当たり前になっていることがポルトガル人の視点から見ることで、日本を客観視できる
・自分の信じるものが日本的でないときには、黙って信じていることしかできない
・「黙ってでも信じていればいい」
・そして心から信じたものは、他人からどんなことをされても奪われることはない
・ポピュラーでないものは用無し、性に合わないものは徹底排除、という風潮がある日本は限りなく社会主義にちかい資本主義なのかもしれない。
・小保方さんや佐村河内さんの騒動のときの異様な熱の高ぶりをみると、今の日本にもそういう気質はある
・言いたいこと言えて、なんでも好きなものを信じる事ができる現代が、いかに自由であるかがわかる。(戦後アメリカが与えた恩恵といえるかもしれない)
・現代日本のキリスト教布教率をみれば、日本文化の一貫性を感じる
・映画の中でいうところの、日本という国の土は、昔から変わってない
・性に合わないものを徹底的に排除する日本の文化は今も健在
・しかし、それは日本独自の才能でもあり魅力でもある
・アジアから流れてきた文化を、日本的な感性と照らし合わせて、自分に合わないものを徹底的に排除(洗練)させ、ブラッシュアップして、独自の文化を築き上げてきた
・ざっくりいえばシンプルにアレンジする才能。
・日本は、そんな魅力がある国という解釈もできる。
・原作者の遠藤周作は日本になにかを諦めていたんだろうか?
奇跡は起こらない
深い沈黙
沈黙
原作は読んだことがなかったのですが、海外の作品としてできるのかという不安もありましたが、
素晴らしかった。
とても海外で作られたとは思えない日本の空気感に圧倒されました。
長崎の街の様子などは日本映画と見間違うほどです。
仏教国日本にキリスト教が入り、キリシタンが増えたものの、幕府によってそれが禁止され、人々は密かに信仰を続ける。
それは本当に、キリスト教を信仰していると言えるのか。
自分自身のキリスト教の信仰は本当に正しいのか。
とても重く、辛く、難しい話でした。
アンドリュー・ガーフィールドさん、アダム・ドライバーさんはじめ、俳優陣の演技が印象的でした。
きっと日本へやって来た神父たちの恐怖はとてつもないものだったんだろうと思います。
日本の大物俳優も大勢出演しているのですが、辿々しい英語で話す姿は新鮮です。
幕府が行った迫害の数々、それによって苦しみながらもパライソへ行けることを信じ、亡くなっていった信徒、神父たちの映像からは目を背けたくなります。
タイトル通り最初から最後までとても静かな映画で、特にエンディングは自然の音と静けさが美しいです。
原作を読んでからもう一度観てみたいと強く思います。
思ったより面白かった
日本の描き方に全く違和感を覚えなかったところがまず凄い。
日本家屋、衣装、日本人訛りの英語が実に良かった。
それから海岸での磔刑シーン。ザブーンって波が打ち寄せてくるシーン、どうやって撮ったのかな。壮絶で本当に死ぬかと思った。
さて。
ストイックならそれでいいのか?それは単純と言えば単純だ。イエス・キリストが示した愛とは抽象的な理念ではなく、具体的行動であるという遠藤周作の信仰理解。
つまり、英雄的な殉教よりも、苦悩しながらなんとか正しいと思うことを探すことこそが、むしろキリスト教の精神に近いと言える。
善良な周囲の人間が拷問を受け次々に殺されていくときに何をするのが「正しい」のか、という選択を迫られたとき、フェレイラーが力強く言う。
「もしキリストがここにいたら、たしかにキリストは、彼等のために、転んだだろう」。
十字架の上で無残な姿をさらし続けるイエスから目をそむけず、その無残な姿を深く心にとどめよ、神はそういう無残な姿をさらすイエスをこそ肯定しているのだ。
ロドリゴとキチジローはどちらも救われるべきというスコセッシの人間観が見えた気がした。
神は決して沈黙していない。
ちなみに私自身は「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「私はそのような質問に対する答えをもたない形で感謝と祈りの日々を送っています」と答える。
観た
以前に観たので、感想を忘れてしまった。痛恨。いつかしっかり書きます。
映画館が「EJアニメシアター」になっているのは、観たのが、ここが「角川シネマ新宿」だった時代だからです。
弾圧されているからこそ、際立ってしまう、宗教への向かい方。
モキチなのか、キチジローなのか?
この映画は、そこに尽きると思う。
信じることに徹し、磔で命を落とすことをも厭わないモキチの生き方が、本当に唯一無二の信仰のあり方なのか。生き残るために、司祭さえも売り、踏み絵を踏むことにもなんら抵抗のないキチジローの生き方は、神を信じているとは言えない冒涜な生き方なのか。
モキチは磔で死に、キチジローは生き続け信仰を続けたであろう。もし、神がいるなら、預言者キリストが生きていたなら、モキチを讃え、キチジローを否定するだろうか。
原作を読んでから、また考えてみたい。
神のみぞ知る
日本史の授業では、
さらさらぁ〜と説明される
禁教令、キリシタン弾圧。
こんなことが本当にあったということにも
肝が冷える思いでした。
島原出身であるからこそ、地元にはキリシタン墓地や、慰霊碑、また、隠れキリシタンがいた場所が今でも残っています。
この映画を観て、当事者達へ思いを馳せるには
私はあまりにも軽率である気がしてしまいました。
心の中ではどう思ってたのか、
何も言わない、語らない、
形上、転びキリシタンであるも、
最期の最期まで、何を守ったのか。
神のみぞ知ることだと思います。
歴史を知ることの惨さもありますが、
私は知れてよかったと思いました。
結局、人は幸せになりたい生き物だから、
だから悩むし、だから何かを信じたい。
キリシタンは日本に負けたんやない、
"時代"に負けたんだと思います。
思想も宗教・信仰も自由になった今。
戦争なんかしてる暇なんてないですよ。
もっと違う方向にエネルギー使っていきたい!
話ぶっ飛びまくりましたが、
幸せについて考えさせられた映画でした!
撮影大変だったろうな本当に、、、
創ってくれて、この世に生み出してくれて
ありがとうございました!!!
驚異の作品
【”主よ 貴方は何故に黙ったままなのですか” マーティン・スコセッシ監督が28年間の想いを込めた乾坤一擲の作品】
遠藤周作の原作は読んでいる方が多い筈なので、内容には触れない。
が、今作はかなり忠実に原作の世界観を再現していたと、私は思う。
今作のキャスティング、(特に日本人俳優)は見事だったと思う。
特に下記3人が劇中印象的。
・マーティンがオーディションに来た事を知って驚いたという
塚本晋也(モキチ)
・笈田ヨシ(イチゾウ) パリ在住で舞台で活躍 出演していることに驚いた、が見事。
・窪塚洋介(キチジロー)一度、オーディションに落ちながら、再チャレンジし、役を獲得した。
他の
・浅野忠信(通辞:安定の演技)
・イッセー尾形(井上筑後守:流石の演技)
・加瀬亮(ジュアン:役にピッタリ、どんな役でも出来る人)
・小松菜奈(若手女優ではトップクラス)
は邦画界のトップ俳優クラスなので、納得。
アメリカサイドも負けじと、
・アンドリュー・ガーフィールド(セバスチャン・ロドリゴ神父)と
・アダム・ドライバー(フランシス・ガルペ神父)
の二人は命を懸けて異国に布教に来た神父としか見えないし、
・リーアム・ニーソン(クリストヴァン・フェレイラ神父)は”転んだ”宣教師を重々しく演じる。
<寒々しい風景をバックに、制作陣及び俳優陣達の熱い思いが詰まっている、実に見応えの有る作品である。>
<2017年1月12日 劇場にて鑑賞>
拒絶され理解深め合えない切なさ共感の壮絶ドラマ
アカデミー賞撮影賞ノミネート作品
キリスト教徒を隠して暮らす住民と宣教師との交流を、キリシタンの信仰が周囲に理解されない無念さ、やむを得ず改宗した人物の切なる思いが描かれ、心に突き刺さる
信仰する宗教がなくても、信じている何かを奪われる辛さ、拒絶され理解深め合えない状況の切なさ共感、色々考えさせられる
製作/監督は、『ディパーテッド』でアカデミー賞受賞したマーティン・スコセッシ
監督はカトリックの家庭で育ち、1990年の黒澤明監督作『夢』に出演、撮影していた時に日本で読んだ、遠藤周作『沈黙』の登場人物の精神面に興味を持った
脚本のジェイ・コックスと映画化を進めていたが、原作内容を理解するまで時間がかかった為に一時中断した
2009年にロケハンした日本で、オーディションを行い日本人キャストを決めた
監督の推薦で役を獲得したリーアム・ニーソンとアンドリュー・ガーフィールド
アンドリュー・ガーフィールドは霊的指導とイエズス会の精神を学んだ
アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーは、役作りの為に栄養士管理のもと痩せた
アンドリュー・ガーフィールドは当たり前だと思っていた事が有り難く思えた、と語る
窪塚洋介は、最初のオーディションでセリフを覚えておらずガムを噛んでいた為、印象が悪かったが2年後に呼ばれた時の演技が良く役を獲得
浅野忠信は1度オーディションに落ちたが、諦めずに機会を待ち続け役を獲得
オーディション時は俳優の演技や表情を見る為、監督自ら読み合わせした
イッセー尾形は、役のイラストを描いてから掘り下げていった
台湾の750人以上の撮影チームで文化の違いを確認し合いながら行った
当初の撮影予定地は日本だったが、予算が厳しく台北周辺で行った
スタッフの国籍は世界各国
撮影では日本人俳優から様々な助言を貰った
キリスト教が奴隷貿易やってたのはスルー
単純に、キリスト教が善、弾圧する幕府が悪とはなっていないのはスコセッシ監督の気概が感じられる。しかし、そこが限界だ。キリスト教(カトリック)が加害者である事を隠したままでは単なるプロパガンダ映画にしかならないが、事実を描くと公開出来なかっただろう。
この映画を最後までみた人は、2人の宣教師が神を捨てたのをみて少し情けなさを感じたのではないだろうか。苦しむ信徒を助けるために信仰を捨てるというところまでは良い。しかし、その後の彼らは捨てただけではなく幕府に協力的過ぎる。何故ここまで?と思わずにいられない。
しかし、これは映画では表現されていない事実を知ると納得できる。当時、日本にきていたキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれるが、猛烈に弾圧されていたのはカトリックだけだ。理由は簡単でカトリックは日本人を拉致して海外に奴隷として売り払う奴隷貿易に加担していたためだ。被害者は50万人とも言われ、映画の中では100%被害者のように描かれている日本人キリスト教徒は拉致の直接的加害者でもあるのだ。
ふたりの宣教師は脅しだけに屈したわけでは無く、日本人による論理的説得によりキリスト教と決別したと考えれば、その後の彼らが幕府に協力的だった事も辻褄があう。
この映画をみた日本人は、決して幕府が悪でキリスト教が善ではないことを知って欲しいと思う。
これほど内容のないものを熱演する愚かしさ
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