沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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NHK BSにて視聴。興味深かった。何故、日本人がこれを撮れないか...
NHK BSにて視聴。興味深かった。何故、日本人がこれを撮れないか、と思いました。
苦悩・・・神は何故沈黙を続けるのか
危険を覚悟の上、使命感に満ちて来日した二人のポルトガル人宣教師が、キリシタン弾圧の対象となり、信者と共に苦悩する姿や、見せしめの為の拷問による処刑シーンに、胸が苦しくなりました。
ロドリゴ神父を演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技が秀逸で、フェレイラ神父と対面し、言葉を交わした時の苦悩に満ちた表情が忘れられません。
癖のある井上筑後守をイッセー尾形さん、ネイティブな通詞(通訳)を浅野忠信さん、人間味溢れたどこか飄々とした隠れキリシタンを窪塚洋介さんが表現力豊かに演じられていました。
小松菜奈さんも隠れキリシタンの女性を好演。
当時の日本のキリシタン弾圧のむごたらしさと苦悩を、痛烈に描いた作品。
NHKBSを録画にて鑑賞
モキチさんの賛美歌?が…
私はカトリック教徒です。
この映画みて何だか胸が苦しくなりました
1番はモキチさん達が拷問にあうシーン
十字架に吊るされしかも海の波にもまれるシーン
観てられなかった
モキチさん以外の人達が亡くなる中モキチさんは亡くなるまで数日かかりそんな中賛美歌を歌う
もうここが辛かった
この演技力もすごいと思った
マーティン・スコセッシ監督の致命的な過り。
神は存在しているのか?
もし存在しているのだとして、これだけ祈り続けても、なぜ一言も応えてくれないのか?
これが「沈黙」という作品のメインテーマであり、タイトルの由来でもあるはずです。
しかし、この作品の中で、ただ一度だけ、神は声を出し、赦しを与えています。
この最大のテーマについて、どうやら監督は見落としてしまっていたようです。
監督が気がついていないのだから、観衆も気がつくはずがありません。
こうして、この作品は、単なる異文化との衝突をグロテスクに描くだけの作品に堕してしまったのでした。
遠藤周作先生も草葉の蔭で泣いておられることでしょう。
ロドリゴ司祭が棄教する、まさに瞬間、初めて神は声を発し、赦しを与えていたのですが。
だからこそ「沈黙」というタイトルだったのですが。
名監督をしても気がつかなかったということが、残念でなりません。
「日本ってこんな国」を見つめる
・オープニング、何かウァッって出てくるんじゃないかと目細めて身構えたけどなんもなかった。
・このオープニング演出すごい。
・(極力)洗脳しない映画。
・たとえば音楽がほとんどない。
・事実をフラットなテンションで描いて、お前はどう思う?と聞いてくる映画。
・決して時代遅れではないテーマ。映画の時代の日本の姿は、現代日本にもがっつりリンクしている。
・だから今それを映画で描く事に意味がある
・こんなん続けて一体何になるんだろう?と思いながら毎日頑張って働いている人がたくさんいるはず
・映画の中の「本当に神はいるのか...?」という葛藤は、現代の働く人にとって共感できるもの
・「自分は間違っていない」という確信だけでなく、「与えられた環境で自分はなにができるのか」という気づきが芽生える瞬間が描かれている
・日本には八百万(やおよろず)の神を崇める文化があるように、日本人は特に、おのおのが信じたいと思うものを信じる気持ちが強い。
・映画の中で、日本のキリスト教徒が崇めていたのはキリストではなく、太陽だったというのは非常に興味深い(すごい独自アレンジw)
・キャスティングがおもしろい。
・クワイガンジン役の俳優さん出てて、着物姿がしっくりくる。
・日本の怖さと美しさが描かれてる
・普段当たり前になっていることがポルトガル人の視点から見ることで、日本を客観視できる
・自分の信じるものが日本的でないときには、黙って信じていることしかできない
・「黙ってでも信じていればいい」
・そして心から信じたものは、他人からどんなことをされても奪われることはない
・ポピュラーでないものは用無し、性に合わないものは徹底排除、という風潮がある日本は限りなく社会主義にちかい資本主義なのかもしれない。
・小保方さんや佐村河内さんの騒動のときの異様な熱の高ぶりをみると、今の日本にもそういう気質はある
・言いたいこと言えて、なんでも好きなものを信じる事ができる現代が、いかに自由であるかがわかる。(戦後アメリカが与えた恩恵といえるかもしれない)
・現代日本のキリスト教布教率をみれば、日本文化の一貫性を感じる
・映画の中でいうところの、日本という国の土は、昔から変わってない
・性に合わないものを徹底的に排除する日本の文化は今も健在
・しかし、それは日本独自の才能でもあり魅力でもある
・アジアから流れてきた文化を、日本的な感性と照らし合わせて、自分に合わないものを徹底的に排除(洗練)させ、ブラッシュアップして、独自の文化を築き上げてきた
・ざっくりいえばシンプルにアレンジする才能。
・日本は、そんな魅力がある国という解釈もできる。
・原作者の遠藤周作は日本になにかを諦めていたんだろうか?
奇跡は起こらない
遠藤周作の苦悩を一心に表すこれでもか、という映画
これはクリスチャンの苦悩ではない遠藤周作の苦悩だ
高校生の時からこの本や他の遠藤周作の作品を読んで
あたしなりに言って仕舞えば、無駄な悩みだな…と
スコセッシ監督がここまで表現してくれたら本望だろう
あたしもなんちゃってクリスチャンなので
真理は常に神にあり、と祈りながら考えるけど
人間の罪のために十字架にかかったイエス
「拷問」というのがこの世にあった、ということが苦しい
ない時代に生まれて良かった、それだけは幸せ
天真爛漫に神の愛だけを感じる人生だ
深い沈黙
沈黙
原作は読んだことがなかったのですが、海外の作品としてできるのかという不安もありましたが、
素晴らしかった。
とても海外で作られたとは思えない日本の空気感に圧倒されました。
長崎の街の様子などは日本映画と見間違うほどです。
仏教国日本にキリスト教が入り、キリシタンが増えたものの、幕府によってそれが禁止され、人々は密かに信仰を続ける。
それは本当に、キリスト教を信仰していると言えるのか。
自分自身のキリスト教の信仰は本当に正しいのか。
とても重く、辛く、難しい話でした。
アンドリュー・ガーフィールドさん、アダム・ドライバーさんはじめ、俳優陣の演技が印象的でした。
きっと日本へやって来た神父たちの恐怖はとてつもないものだったんだろうと思います。
日本の大物俳優も大勢出演しているのですが、辿々しい英語で話す姿は新鮮です。
幕府が行った迫害の数々、それによって苦しみながらもパライソへ行けることを信じ、亡くなっていった信徒、神父たちの映像からは目を背けたくなります。
タイトル通り最初から最後までとても静かな映画で、特にエンディングは自然の音と静けさが美しいです。
原作を読んでからもう一度観てみたいと強く思います。
思ったより面白かった
日本の描き方に全く違和感を覚えなかったところがまず凄い。
日本家屋、衣装、日本人訛りの英語が実に良かった。
それから海岸での磔刑シーン。ザブーンって波が打ち寄せてくるシーン、どうやって撮ったのかな。壮絶で本当に死ぬかと思った。
さて。
ストイックならそれでいいのか?それは単純と言えば単純だ。イエス・キリストが示した愛とは抽象的な理念ではなく、具体的行動であるという遠藤周作の信仰理解。
つまり、英雄的な殉教よりも、苦悩しながらなんとか正しいと思うことを探すことこそが、むしろキリスト教の精神に近いと言える。
善良な周囲の人間が拷問を受け次々に殺されていくときに何をするのが「正しい」のか、という選択を迫られたとき、フェレイラーが力強く言う。
「もしキリストがここにいたら、たしかにキリストは、彼等のために、転んだだろう」。
十字架の上で無残な姿をさらし続けるイエスから目をそむけず、その無残な姿を深く心にとどめよ、神はそういう無残な姿をさらすイエスをこそ肯定しているのだ。
ロドリゴとキチジローはどちらも救われるべきというスコセッシの人間観が見えた気がした。
神は決して沈黙していない。
ちなみに私自身は「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「私はそのような質問に対する答えをもたない形で感謝と祈りの日々を送っています」と答える。
観た
以前に観たので、感想を忘れてしまった。痛恨。いつかしっかり書きます。
映画館が「EJアニメシアター」になっているのは、観たのが、ここが「角川シネマ新宿」だった時代だからです。
弾圧されているからこそ、際立ってしまう、宗教への向かい方。
モキチなのか、キチジローなのか?
この映画は、そこに尽きると思う。
信じることに徹し、磔で命を落とすことをも厭わないモキチの生き方が、本当に唯一無二の信仰のあり方なのか。生き残るために、司祭さえも売り、踏み絵を踏むことにもなんら抵抗のないキチジローの生き方は、神を信じているとは言えない冒涜な生き方なのか。
モキチは磔で死に、キチジローは生き続け信仰を続けたであろう。もし、神がいるなら、預言者キリストが生きていたなら、モキチを讃え、キチジローを否定するだろうか。
原作を読んでから、また考えてみたい。
神のみぞ知る
日本史の授業では、
さらさらぁ〜と説明される
禁教令、キリシタン弾圧。
こんなことが本当にあったということにも
肝が冷える思いでした。
島原出身であるからこそ、地元にはキリシタン墓地や、慰霊碑、また、隠れキリシタンがいた場所が今でも残っています。
この映画を観て、当事者達へ思いを馳せるには
私はあまりにも軽率である気がしてしまいました。
心の中ではどう思ってたのか、
何も言わない、語らない、
形上、転びキリシタンであるも、
最期の最期まで、何を守ったのか。
神のみぞ知ることだと思います。
歴史を知ることの惨さもありますが、
私は知れてよかったと思いました。
結局、人は幸せになりたい生き物だから、
だから悩むし、だから何かを信じたい。
キリシタンは日本に負けたんやない、
"時代"に負けたんだと思います。
思想も宗教・信仰も自由になった今。
戦争なんかしてる暇なんてないですよ。
もっと違う方向にエネルギー使っていきたい!
話ぶっ飛びまくりましたが、
幸せについて考えさせられた映画でした!
撮影大変だったろうな本当に、、、
創ってくれて、この世に生み出してくれて
ありがとうございました!!!
驚異の作品
宗教の話は、なかなか日本人には難しい。一般的に特定の宗教を持たないとされる私たちには、神やら信仰やらを理解するのは簡単ではないから。
原作はまだ未読なので、どこまで忠実なのかはわからない。ただ、この作品が迫害される日本人にも宗教を伝道する教会にも加担せず、全てを冷静に描いている点で遠藤周作もしくはスコセッシの力量に敬服せざるを得ません。
日本のキリシタンも当然聖人ではなく、一方で宗教を広めようとしたクリスチャンにも、「野蛮人を救いたい」という傲慢な姿勢があったはず。
なによりすごいのは、これを書いたのがその宗教に疎い日本人であること。
【”主よ 貴方は何故に黙ったままなのですか” マーティン・スコセッシ監督が28年間の想いを込めた乾坤一擲の作品】
遠藤周作の原作は読んでいる方が多い筈なので、内容には触れない。
が、今作はかなり忠実に原作の世界観を再現していたと、私は思う。
今作のキャスティング、(特に日本人俳優)は見事だったと思う。
特に下記3人が劇中印象的。
・マーティンがオーディションに来た事を知って驚いたという
塚本晋也(モキチ)
・笈田ヨシ(イチゾウ) パリ在住で舞台で活躍 出演していることに驚いた、が見事。
・窪塚洋介(キチジロー)一度、オーディションに落ちながら、再チャレンジし、役を獲得した。
他の
・浅野忠信(通辞:安定の演技)
・イッセー尾形(井上筑後守:流石の演技)
・加瀬亮(ジュアン:役にピッタリ、どんな役でも出来る人)
・小松菜奈(若手女優ではトップクラス)
は邦画界のトップ俳優クラスなので、納得。
アメリカサイドも負けじと、
・アンドリュー・ガーフィールド(セバスチャン・ロドリゴ神父)と
・アダム・ドライバー(フランシス・ガルペ神父)
の二人は命を懸けて異国に布教に来た神父としか見えないし、
・リーアム・ニーソン(クリストヴァン・フェレイラ神父)は”転んだ”宣教師を重々しく演じる。
<寒々しい風景をバックに、制作陣及び俳優陣達の熱い思いが詰まっている、実に見応えの有る作品である。>
<2017年1月12日 劇場にて鑑賞>
拒絶され理解深め合えない切なさ共感の壮絶ドラマ
アカデミー賞撮影賞ノミネート作品
キリスト教徒を隠して暮らす住民と宣教師との交流を、キリシタンの信仰が周囲に理解されない無念さ、やむを得ず改宗した人物の切なる思いが描かれ、心に突き刺さる
信仰する宗教がなくても、信じている何かを奪われる辛さ、拒絶され理解深め合えない状況の切なさ共感、色々考えさせられる
製作/監督は、『ディパーテッド』でアカデミー賞受賞したマーティン・スコセッシ
監督はカトリックの家庭で育ち、1990年の黒澤明監督作『夢』に出演、撮影していた時に日本で読んだ、遠藤周作『沈黙』の登場人物の精神面に興味を持った
脚本のジェイ・コックスと映画化を進めていたが、原作内容を理解するまで時間がかかった為に一時中断した
2009年にロケハンした日本で、オーディションを行い日本人キャストを決めた
監督の推薦で役を獲得したリーアム・ニーソンとアンドリュー・ガーフィールド
アンドリュー・ガーフィールドは霊的指導とイエズス会の精神を学んだ
アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーは、役作りの為に栄養士管理のもと痩せた
アンドリュー・ガーフィールドは当たり前だと思っていた事が有り難く思えた、と語る
窪塚洋介は、最初のオーディションでセリフを覚えておらずガムを噛んでいた為、印象が悪かったが2年後に呼ばれた時の演技が良く役を獲得
浅野忠信は1度オーディションに落ちたが、諦めずに機会を待ち続け役を獲得
オーディション時は俳優の演技や表情を見る為、監督自ら読み合わせした
イッセー尾形は、役のイラストを描いてから掘り下げていった
台湾の750人以上の撮影チームで文化の違いを確認し合いながら行った
当初の撮影予定地は日本だったが、予算が厳しく台北周辺で行った
スタッフの国籍は世界各国
撮影では日本人俳優から様々な助言を貰った
キリスト教が奴隷貿易やってたのはスルー
単純に、キリスト教が善、弾圧する幕府が悪とはなっていないのはスコセッシ監督の気概が感じられる。しかし、そこが限界だ。キリスト教(カトリック)が加害者である事を隠したままでは単なるプロパガンダ映画にしかならないが、事実を描くと公開出来なかっただろう。
この映画を最後までみた人は、2人の宣教師が神を捨てたのをみて少し情けなさを感じたのではないだろうか。苦しむ信徒を助けるために信仰を捨てるというところまでは良い。しかし、その後の彼らは捨てただけではなく幕府に協力的過ぎる。何故ここまで?と思わずにいられない。
しかし、これは映画では表現されていない事実を知ると納得できる。当時、日本にきていたキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれるが、猛烈に弾圧されていたのはカトリックだけだ。理由は簡単でカトリックは日本人を拉致して海外に奴隷として売り払う奴隷貿易に加担していたためだ。被害者は50万人とも言われ、映画の中では100%被害者のように描かれている日本人キリスト教徒は拉致の直接的加害者でもあるのだ。
ふたりの宣教師は脅しだけに屈したわけでは無く、日本人による論理的説得によりキリスト教と決別したと考えれば、その後の彼らが幕府に協力的だった事も辻褄があう。
この映画をみた日本人は、決して幕府が悪でキリスト教が善ではないことを知って欲しいと思う。
これほど内容のないものを熱演する愚かしさ
遠藤周作は本当はキリスト教を飯の種にしてただけで信じてはいないのでしょう。
形式的な信教は盲信であり妄信でもある。
キリスト教はしょせんそんなものです。
ちなみに、キリストに会ったとしても信者は気づかないでしょう。
定義はできますか。
キセキをおこせたら神ですか、誰かを救いましたか、救ったら神ですか。
170130映画『沈黙(スコセッシ版)』感想
上映時間161分は全く長く感じなかった。むしろ短いと感じるほど、終盤のロドリゴの日常生活や、当時の日本の仏教以外の宗教文化を思わせる習俗、情景などへの描写が、もっと盛り込まれていて欲しかったとわがままを言い出したくなるくらいに、鑑賞直後の私の高揚と充実感とは並々ならぬものだった。
クライマックスでロドリゴがフェレイラの「彼らを救えるのはお前(の転び)だけだ(※うろ覚え)」に対して「それは悪魔の囁きだ、失せろ(※うろ覚え)」と遮り、極限の苦悩に耐えつつ辛うじて自らの信念を繋いだかのようにみえた直後で彼に聴こえた「私は只黙っていたのではなく、常にお前の苦しみと共にあり続けてきたのだ。踏みなさい(※うろ覚え)」という神の声が、はたして先に彼によって語られた筈の悪魔の巧妙な誘惑の囁き、そそのかしではないと断定できる如何なる要素も、この映画では発見できないのではないか。スコセッシ作品群の脈々たる作風に、善悪、善意と悪意、良識と狂気、聖職とマフィア、パンと愛、…等の対抗軸、既存の判断基準への手加減無き批判精神というのがあって、これは何も革新左翼的で浅薄なロック精神だとか反権力精神だとかでは決してなく、そもそもの古典的教養、良識、知性に裏打ちされた伝統保守的な精神から、浅薄な似非ヒューマニズムが作り出し、国際社会的規模の純粋無垢故に無頓着過ぎる群衆の良心をたぶらかしミスリードし続けてきた、正に罪深き、人間の死生観における伝統性故の多様性への侮辱としてのグローバリズムを弾劾する、こういった意味での反骨精神と、私は理解している。スコセッシがグローバリズムを意識的に批判していることは、前作の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でほぼ明白だろうと思うが故に、今作の映画『沈黙(スコセッシ版)』にも彼の反グローバリズムとしての多元主義的な国際共存社会秩序を標榜する思想的ビジョンが貫かれているだろうとする私の推測は、しかし必ずしも無根拠な飛躍ではない。つまり映画『沈黙(スコセッシ版)』では、そもそも人間の苦悩を救済するのは、「沈黙と、沈黙から現実逃避して捻り出された欺瞞としての神からのお告げと」の、はたしていずれなのか?或いは、「それは神のお告げだったのか、それとも悪魔のそそのかしだったのか?」、「信仰の勝利だったのか、それとも自己欺瞞による背信、敗北だったのか?」、いや待て、そもそもキリスト者の信仰における本質とは、それらのこれまで散々使い古されてきた対抗軸を、そもそものイエス・キリストその人が述べた筈の神の愛、許し、救済の精神まで遡るといったいわゆる伝統保守的な視野にまで立ち返った時に潔く捨て去って、「神の愛、許し、救済に優先され得る如何なる信仰も布教も宗教的組織活動も無いのであって、これはたとえキリスト者的なそれらについても決して例外ではないし、このような本質的な判断基準には、神か悪魔か、善か悪か、信仰か背信か、…等を逡巡する精神的な手続きは、この限りにおいては無駄と言う他無い。答えは既にイエス・キリストの述べられたところで与えられていたのだから」と、この反グローバリズムとの整合性も保有していて当然の相互尊重(愛)の精神にまで立ち返るべきところのものだったのではないか、といったかたちで、その似非ヒューマニズムへの反骨精神が貫徹されていたと、私は解釈しているわけだ。
私の記憶が確かなら、映画『沈黙(スコセッシ版)』には劇伴の一切が聴こえてこなかった。江戸初期の日本における隠れキリシタンの歴史を全くノーリスクな鑑賞者の立場、これはあたかも神の立場そのものから傍観させる際に、制作者の意図による過剰な鑑賞者の情感、感傷の誘導を抑制するといった意味での劇伴演出の抑制、などと私には思えたのであり、これは正に制作者たるスコセッシから鑑賞者への「沈黙」に被せたパフォーマンスの一種とも取れるし、或いは天地創造主たる森羅万象の制作者が自身以上の他の頂点的な存在を見出しようも無い孤高の立場における「沈黙」的な状況に鑑賞者の無意識的な感情移入を誘導するための、スコセッシによる手の込んだ演出だったのか、まぁこれら全てを含める以上の様々な意味合いによる完成度を極めた芸当の一側面であったには違いない。この点に関して、私は素直に素晴らしいと思っている。
鑑賞後、スコセッシの『最後の誘惑』と『沈黙』とを比較して一考した。少なくとも、映画『沈黙(スコセッシ版)』においては、「これまでにない信仰をもって、神の愛に報いるのだ(※うろ覚え)」に象徴されるように、組織化される以前のイエス・キリストの精神の本質に立ち返ったが故の「これまでにない信仰」、或いはそれまでにはなかった形式上(といっても不法入国及び禁教の布教の咎で、この見せしめの意味から生涯出国を許されず監視下で拘束され続ける永い時間の振る舞いの一切において)の信仰の敗北という比類無き十字架をロドリゴは「沈黙」の内に、派手さも無く、地味に、惨めに、背負い続けた後に、スコセッシ独自の解釈によるあぁいったかたちでこの生涯を全うしたという部分だけ見ても、勿論『最後の誘惑』には福音を集成したところからヒントを得た原作小説を元に制作した分の相応の深みはあったものの、愛を極めた超人イエス・キリストの派手な伝承と、これに続こうともがく一信仰者ロドリゴの地味な物語との比較という意味においては、より後者が、決して超人足り得ない鑑賞者としての信仰者、或いはその他大勢的な一般的鑑賞者の人の感覚に対して、切実さを増して迫ってくるものなのだろうと、他でもない私の鑑賞がそういった臨場感で絶え間なく終始したところから、思わされている。ここまでくると私にとって『最後の誘惑』や『ミッション』は最早娯楽映画の範疇であり、映画『沈黙(スコセッシ版)』はここと一線を画した思想哲学映画と呼びたくもなる位置付けとなる。ここまで思想哲学的要素の色濃い映画を、私は他に知らないといった意味である。従って、私は映画『沈黙(スコセッシ版)』を娯楽映画としては好評できない。しかし、映画が娯楽映画に留まらない可能性を秘めた精神媒体だと解釈することがどの加減まで許されるのかにも依るが、私はもうこの際、映画として云々はどうでもいいところで、映画『沈黙(スコセッシ版)』が『最後の誘惑』や『ミッション』以上に大好きだとだけ書き残しておきたい。その、多元的国際共栄秩序の要足れよう相互尊重の精神と深く真っ向から向き合ったスコセッシの、遠藤周作の原作との出会い以来約30年の積み重ねの結晶から受ける、より突出した、宗教的に生々しい切実さとこの充実を極めた作中の雰囲気が、私を過去のどの作品にも優って、宗教文学的な精神の範疇で満足させた。そもそも文学も漫画も映画も音楽も、個の自由と公けの秩序とへの標榜を中庸させたところで、人類平和のテーマ性と普遍的に不可分であらざるを得ないと信じて疑わない私にとって、例えば映画『沈黙(スコセッシ版)』と劇場アニメ『この世界の片隅に』とを比較した時、見えてくる違いは作品同士の優劣ではなく、前者における思想哲学的な人類平和のテーマ性へのアプローチと、後者における飽くまで娯楽作品的な人類平和のテーマ性へのアプローチとの差といった、手法の違いが主立って際立つかたちとなる。つまりここで私が言いたいのは、ここ数ヶ月の内にそれら二つもの奇跡的な傑作映画と出会えたことに感激してるということだ。
ところで、ガルペが半ば自殺する形で自信の信仰と命を全うしたことを考えれば、作中のクライマックスをロドリゴの転びのシーンと捉えるのはおかしいのではないか(何故ならロドリゴ只一人の見せしめ的な転びのためだけに、既に転びの宣言を済ませた元隠れキリシタンの日本人百姓らが依然「穴吊り」を強いられ続けていて、この状況でロドリゴが自身の自殺で奉行所が百姓への拷問を止めるだろうと合理的に判断し得えたことは、奉行所の方針が飽くまで禁教撲滅にあって隠れキリシタンへの問答無用な処刑そのものではない、極めて文明的な冷静さで貫徹されたといった描写があったことからも明白なのだから)という疑問が仮にあった場合、これは誤解だ。カトリックの教えでは自殺は自身の命の創造主たる神の愛への背徳行為であり、ロドリゴの生きて味わい続けた屈辱の十字架と、その自殺の背徳行為とのどちらがより教理上で罪深いかといった検証の議論があり得たとしても、少なくとも自らの意志で自身の命を犠牲にする判断が、生き恥を晒す地味で惨めな十字架よりも優った信仰の現われだと、カトリック的な常識感覚から明瞭に断定されることは決してないわけで、他でもないロドリゴやガルペはこのカトリック的な常識感覚に宗教的なアイデンティティを置いていたからこそ、あそこまで八方塞的な逼迫感で苦悩しまくっていたのだ。暴論するなら、ガルペどころかイエス・キリストこそ磔刑に自ら赴いた自殺の急先鋒じゃないかと突っ込む余地を、キリスト者でない外野の感覚からは見出せるかもしれないが、そこには飽くまで自ら命を絶つ明白な意思が無い限り、創造主の愛に刃向かう自殺とされない微妙な基準があるようだ。従って、ガルペは飽くまで処刑される百姓を庇うことを装った自殺を敢行した分、組織化かされて本質から乖離したキリスト者の常識感覚からの苦悩から、少なくともその置かれた状況がどさくさ紛れの自殺を一切許さなかったロドリゴの場合よりも比較的楽に解放されたと、映画『沈黙(スコセッシ版)』のテーマ上で解釈されるのであり、必然的にクライマックスはロドリゴの比類無き転びの十字架の開始のシーンとならざるを得ない。これは原作小説でも同様であり、こう考えると、遠藤周作が『沈黙』を著した理由として述べた「彼らとその苦悩を歴史の影に語られずじまいに埋没させたくなかった(※うろ覚え)」というのは、正にロドリゴが生涯を終えても尚背信者の烙印としての十字架を背負い続けていた凡庸な歴史記述の状況において、彼の深奥のディテールに文学的な記述を加えることでその十字架を下ろしてやるか、これが無理でも共に背負ってやりたいくらいの気概を意味していたとも考えられるし、これを更に視覚的に如実に描写せしめたのが映画『沈黙(スコセッシ版)』だったとも思える。
私は映画『沈黙(スコセッシ版)』は日本でヒットしないと思う。否、米国は勿論、世界的にもヒットしないと思う。イエス・キリストが登場するでもない『沈黙』の表面上の地味さが『最後の誘惑』の興行実績すらも超えることが困難だと推測するなら、むしろその本質的なテーマ性への誤解だけが茶を濁すだけに留まって、理解も記憶もされない惨めな映画となるかもしれない。これは合衆国の新大統領が度々口にする保護貿易主義の時代的な意義を国際社会や諸国それぞれの民主主義的精神が認知できるか、できないかくらいに絶望的に困難な前途の様相である。多元主義的国際秩序を嫌う覇権主義的グローバル利権に洗脳されっ放しの多数派の群衆が民主主義を体現できている錯覚に陥っている限り、映画『沈黙(スコセッシ版)』の本質が世界的な映画市場に理解されることも、果てはキリスト者的な信仰の本質が西欧諸国の精神文化に復古することも、決して叶いはしないと、私はここに断言したい。まぁ、そもそもそこに善悪の基準を差し挟んで目くじらを立て過ぎたところで、人類嫌悪の闇を抱える徒労に終わることも又明白だから、常に諦めず、もてる限りのアプローチの活路を見出す建設的発想に身を委ね続けていたい。所詮は映画の好みの話に過ぎないのだし。
信仰心とは?
キリスト教の「真理」が分からない自分には難解な部分もあったけど、
映画として非常に見応えのある作品だった。
現に「あそこまでして守りたかったキリスト教って何なの?」って疑問(好奇心?)は湧いてきたし、
自分の中で無意識的に根付いている、仏教的な概念にも気づくことができた。
内容については上映時間も含めて「重い」ので触れないけど
総じて、日本人キャストがとんでもなく良かった。
窪塚洋介、塚本晋也、浅野忠信、イッセー尾形などなど
深みのある「芝居」は圧倒されるほどの凄みをもっていた。
まぁとにかく長くて地味な映画だけど、
本当に良い作品なのは確か。
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