沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
全415件中、21~40件目を表示
信仰に対する苛烈な葛藤と苦悩
もっと宗教色の強い作品だと思っていたが、予想以上の衝撃作だった。本作は、17世紀、江戸時代初期の江戸幕府によるキリシタン弾圧を通して、主人公の若きキリスト教・宣教師ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)の信仰に対する壮絶な葛藤と苦悩を真正面から描いた人間ドラマである。
若き宣教師、ロドリゴ、ガルペ(アダム・ドライヴァー)は日本の長崎で布教活動をしていた師匠フェレイア(リーアム・ニーソン)が棄教(転び)したという情報を入手し、真相を確かめるため、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本に潜入する。そこで、彼らは、日本信者たちの過酷な現状を目の当たりにして、次第に信仰と救いの矛盾に苦悩していく。ついには、主人公は捕らわれの身になり、幕府の役人達(イッセー尾形、浅野忠信)に棄教を迫られる。そして、主人公の前で、キリスタンという理由だけで信者達が無残に殺戮されていく。信仰によって何故信者は苦しめられるのか、こんなに信者が苦しめられても何故神は救いを与えないのか、沈黙したままなのか、という疑問が彼の心を苛んでいく。探していた師匠フェレイアにも会えるが、師匠の心境の変化に主人公の動揺は更に増していく。ついに、彼は神の声を聞き、ある決断をする・・・。
娯楽作品ではない。信仰を貫こうとする主人公への極限の試練、激しい問題提起に圧倒され、立ち竦むしかない。若き宣教師を演じる二人が、人間らしい喜怒哀楽を持った、聖職者然としていない、普通の人間として描かれているので、素直に感情移入でき、主人公の心情と一体化できる。主人公とともに、我々観客も、自分の価値観を根こそぎ揺さぶられる。従来の洋画では、信仰は絶対であり、それでもなお、というストーリーが多いが、神の存在を問うた、ベルイマン監督の“処女の泉”を思い出した。宣教師という聖職にある主人公の決断は、あまりにも酷であり、彼は、何故ここまで苦悩しなければならないのかと思うと涙が溢れてくる。ラスト近くまで、主人公の本心は分からないが、ラストシーンで明かされる。鑑賞しながら、そうあって欲しいと思い続けた通りの幕切れだった。救われた思いがした。
信者たちに加えられる拷問は凄まじく目を覆いたくなるほどであり、彼らの信仰心も揺らぎ、キチジロー(窪塚洋介)のような棄教者、密告者も出るが、それでも、多くの信者は信仰を捨てない。死ねば苦役や飢饉もないパラダイス(天国)に行けると信じている。それだけ、当時の人々の日常は過酷なものであり、信仰は、彼らの見出した唯一の光明だったことが推察できる。彼らは、罪人ではない。信仰の自由という扉を開こうとしただけである。本作のような自由を行使した者たちへの弾圧は、洋の東西を問わない。戦後生まれの我々は、生まれた時から、思想信条の自由など、様々な自由を当然のように謳歌してきた。しかし、その自由を獲得するまでには、本作のような過酷すぎる道程があったことを決して忘れてはならないだろう。
きりきりと心がいたむ
神さまの沈黙
テーマに惹かれて鑑賞しました
カメラワークが秀逸すぎる。。
加瀬亮の首が飛んだところ、びくっと思わずなりました
英語、長崎弁がとびかうので日本映画に一瞬感じますが、日本のスタッフや予算では無理なんじゃ?と思うほどまさに大作の描写!
学ぶものは多くありました
ん、日本が舞台?あー、「沈黙」って、遠藤周作が原作の作品かー。 私...
ん、日本が舞台?あー、「沈黙」って、遠藤周作が原作の作品かー。
私は無神論者です。宗教、大嫌いです。なぜって、他を認めないから。世の中の争いの原因の大部分を占めてもいます。
本作でも随所に、「どうしてそこまで信じ込める?(そうさせられている?)」
踏み絵なんて踏めばいいじゃん、だって殺されるんだぜ、自らの命をもっと大切に!司祭もそう言ってやれよ、お前らのせいだぜ!本作の司祭2人の意見が分かれてたのが面白かった。本作、そういう意味では考えさせられること多し。キチジロー(窪塚洋介)こそが人間。
信仰は自由でそれを否定する気は毛頭ありませんが、自分の命だけは大事にして欲しいです。
興行的には大失敗だったようですね。そらそうです。重くて見て面白いものではない。
評価高いですねー。こういう作品こそが意義深いって評論家が言いそうですね。
長い(笑)
「とある男の奇譚」程度で終らせておかないと、あまりにもつらく哀しいお話
『マークスマン』からの流れでリーアム・ニーソンさん(危うく“ニーアム・リーソン”と書いてしまうところでしたぁ!)ご出演作品ということで1000円で買った中古Blu-ray購入で観直してみました。
雑談の中でやっちゃいけないことのトップに君臨する“宗教”という物を題材とした映画です。
レビューもそれなりに言葉を選んで書かないといけないと思うのですが。
序盤から「これがええんか!これがええのんか!」と文字通り地獄の責め苦の連続です。
観ている途中で、日本におけるキリスト教迫害の歴史だとか、キリスト教の教えだとかを、さらりと読み流してみました。
難しい!ややこしい!全く理解できない!
そしてあまりにもヘヴィーな内容ですので「とある男の奇譚」という感想程度で終わらせておかないと、後々厳しくなる作品ですね。
“神の沈黙”がテーマだったのだろうと、簡単勝手な解釈をしていますが、最後の最後のカットが、何よりもこの男の生涯ついて雄弁に語っていたような気がします。
そして、そこでやっとこの物語の救いを見た気がしました。
キリスト教的救済については、全く理解できないままでしたけれど。
あれぇ?今回はやけに真面目なレビュー書いてるぞぉ(笑)
この流れからの1971年版の『沈黙 SILENCE』を観て、からの『パッション』をまた観直してみたい気がしてきました。
マゾか!自分!←やっぱりこうでなくっちゃ!
極限状況での人の悩み、苦しみ、葛藤
この作品は、棄教したことの是非を問うものでも、キリスト教の善悪を考えるものでもなく、1人の宣教師が棄教にいたるまでのその悩み、悲しみ、苦しみ、葛藤を描いたものだと思います。
過酷なキリシタン弾圧のもと、自分が信仰を守ろうとすればするほど、さらにたくさんの信者が拷問を受けて処刑されていくのを目の当たりにして、ロドリゴ宣教師は、自分が殉教することよりもさらに激しい心の苦しみに襲われます。この状況下で尚神は自分に踏絵を踏むなと仰るのかー。
この映画を見た時、天正遣欧少年使節の4人の使節たちの帰国後の生涯を思い浮かべました。
千々石ミゲルは棄教し、原マルチノは禁教令を受けてマカオに移住してそこで亡くなり、そして中浦ジュリアンは禁教令が出たあとも布教を続けて最後は穴吊るしの刑で処刑されます。
時代は下って2007年に中浦ジュリアンはローマ法王によって福者の称号を授かりますが、しかし、過酷なキリシタン弾圧の中で、3人それぞれ悩みや苦しみや葛藤があったはずで、誰の生き方が正しかったとは決めつけられないでしょう。
正義や大義に殉じた人はもちろん立派ですが、現実に負けてしまった者の悩み、苦しみも忘れてはならないと思いました。
日本人が監督、
と言われても違和感ない出来上がりです。
歴史好きなんで、歴史物をみると色々違和感を多々感じますが、あんまり感じなかった。
ただ当時の人が( 特に幕府側)結構打算的な考え方で
なおかつ外国語も話せて、現代人と変わらないじゃないかと思いましたが、そこを言ったら映画にならないので目をつぶった💦
まぁそういう人もいたらしいので、、
最後は、そうなんだろうなと思った。
いい映画だが観ていて辛くなる
スコセッシ監督は以前、「最後の誘惑」でもキリスト教を扱っていたが、キリストが誘惑されてしまうという、キリスト教徒からみれば、とんでもな展開で、かなり非難を浴びるような内容だったので、この映画を見終わった時、スコセッシ監督にしては意外に真面目な映画だと感じた。
個人的には残酷なシーンが多かったので、余り好きな作品とは言えないが、映像美、ライティング、音響、セット、もちろん役者の演技等を含め、かなり全体の完成度は高い作品である。
主人公の苦悩にはかなり共感でき、棄教したことも致し方ないのではと思っていたら、最後、遺体の中に十字架が隠されたいたことに(ある程度は予想できたが)、最後まで棄教したことに悩んでいたのではということが伺えて、ジーンとくるものがあった。そして、エンドロールとなり、普通なら賛美歌か何かの厳かな感じの音楽が流れるところ、音楽はなく、敢えて虫の声と波の音にしたところは、心憎い演出だ。
強いて注文を言えば、主人公が棄教する踏み絵のシーン。逆さ吊りで殺される寸前の何人かを救うためだったが、彼らは顔がむしろで覆われていて顔がわからない。主人公が最初に捕まった時、一緒に捕まった数人の男女がいて、牢屋も一時一緒に過ごした人たち。結局、一人は刀で首を切られ、他の人たちも結局海に投げ込まれ、死んでしまった。顔がわからない人たちよりも、このような一緒に過ごした人たち・・・親密感を覚えた身近な人たちを救うという、より主人公の棄教に対する「止むを得ない」感が増したのではないか。
それにしても、外国映画にしては日本人の英語が違和感なく感じられた。設定そのものが、通辞以外は片言の英語しか喋れないはずなので、流暢な英語のほうが不自然かもしれないが。逆に、イッセー尾形の英語はうますぎて、不自然かもしれない。
キリスト教も信仰もわからない‼️でも、人心の機微に触れた様な気がする‼️❓
原作に忠実に作られて、なおかつ、かなりの高品質です、演技も、演出も素晴らしい。
キリスト教については原作からして、読者に丸投げですから、映画も同じです。
余談ですが、夢に良くキリストが出てきて、お前は私の生まれ変わりだと言うのです、それで、今まで右の頬を打たれたら、左を差し出して、人生がサンドバッグ状態です。
私が無神論なのは、信者が神の定義などを知らずに信じているからです、神を自分のために利用する人がいるからです。
神について考えると、堂々巡りですが、この映画では、当時の人々が何を考えていたのか、手にとる様に触れることができます。
何かに縋りたい気持ち、それは必要だと思います。
心は脆く、愛は強い、それだけでも、わかれば上出来でしょう。
神を否定できても、信じる人の気持ちは否定出来ない、そう思うのです。
こんな世の中だから、余計にそう感じるのかもしれません。
日本の景色も異様に綺麗だし、小松菜奈などの演技も異質に素晴らしい。
マーチンスコセツシ、少し見直しました。
キリスト教に関心ない方も是非。
ずるい映画として忘れられない
アダム・ドライバー(カイロレン)が好きだったので見た。きっかけとしてはそれだけです。イッセー尾形も好き。舞台やめちゃったので久しぶりに見たなと感じました。原作は読んでいません。
色々印象には残っています。踏み絵というのは知ってたけど、大人になって一番がっつり映像を見たなという思い。
セットや俳優たちの演技も素晴らしかったんだと思います。一生懸命見ました。
でもどうしても、「そっから(逃亡シーン)始めるのずるくない?」っていうのが拭えず忘れられない作品です。
キリスト教ってそもそもそんなに素晴らしいですか?地球上で最も血を流させてる宗教じゃないですか?イギリスとかフランスとかひどいですよね。天草四郎、オタクの大好物の素材ですし、彼はただただ信心深かった純真な若者だったかもしれないけど美化されすぎじゃないですか?十字軍の裏の顔なんて色々暴露されてますよね。
日本が鎖国をしたのは、キリシタン大名が火薬や鉄砲などの戦力と引き換えに日本人キリシタンを奴隷として50万人も海外に売り飛ばしてたからじゃないですか?西欧の世界戦略的にはキリスト教を餌に、現地民から文化とアイデンティティを奪って財力と労働力を手にすることが目的だったのは事実で、日本だってインカ文明のように滅ぼされていたかもしれない。だってみんな黄金の国ジパングを目指してたんだから。イエズス会がその手先だったことは事実ですよね。イエズス会の組織の人間として宣教師たちがそのことを一切自覚してなかったとは思えません。だから、作中の宣教師と信徒たちの立場は全く違うものだと思います。宣教師たちは国家的原住民侵略作戦に失敗した人たちです。可愛そうですか?「キリスト教を信じるか信じないかは別に自由だよ。でも侵略はだめ」って作中でも浅野忠信かイッセーに言わせてませんでした?侵略してる自覚がない宣教師たち、よっぽど恐怖の塊じゃないですか?超排他的ですよ。改宗が順調だったら日本人総奴隷ですよ?
当時秀吉に「日本は自分の国だ」っていう自覚があって、天下統一がほぼ間に合って、外交をコントロールすることができたことは奇跡なわけです。確かに無いで済むならないほうがよかったキリシタンたちの犠牲だとは思いますが、彼らが可哀想だからって鎖国中にじっくりと培われた江戸時代の文化を否定するんですか?今その文化のおこぼれで海外戦略してますけど。
自分が受けた歴史の授業を思い返しても、「キリシタン弾圧があって踏み絵などをさせていた」というのは教わりましたが、それが国を守るためだったという教え方はあんまりしてなかったような記憶です。どうも「天草四郎かわいそう」っていう方向に引っ張っられて終わった気が、、、。そこがそもそも間違ってるんですけど。今も歴史教育的にはそんなもんなんでしょうか。
基本的に踏み絵させるほうが悪者的な切り取り方。確かに自尊心を破壊するひどい拷問だったとは思いますが、キリスト教が行なっていた拷問の方がよっぽどひどかったでしょう?キリスト教が勝った方がよかったんですか?
そういった背景を無視して展開する映画も、日本人なのにスルーして「信仰は辛くて美しい」とか言ってるレビューも、なんなの?って思います。一神教の人たちは他の宗教を一切認める許容がないんですよ?改宗しなきゃ火あぶり皆殺しなんですよ?彼らが成功してたら神社仏閣バンバン破壊されてたんですよ。神道の方は仏教も受け入れたようにキリスト教だって受け入れる気でいたのに、こちらを尊大に否定してきたのはまずあっちです。
白人に憧れすぎじゃないですか?西欧の強引な世界ごちゃ混ぜ奴隷化計画(グローバル化)から逃れた日本は稀有な国です。
お正月に初詣に行って、仏壇に手を合わせ、クリスマスを楽しみにしてる日本人は、とても不思議かもしれないですが、皆殺しにしようとするよりよっぽど良くないですか?神道や仏教はキリスト教に比べて薄っぺらいですか?私は、強迫観念を植えつけることなく生活に寄り添ってくれる八百万の神々は頼もしい存在だし、季節ごとのイベントを大事にする日本は実は大宗教国家だと思ってます。まぁ神様というかほぼ妖怪になってる感もありますが、、、。
別に好きな宗教を信じればいいし、無知で純朴だったキリシタンたちはかわいそうだったと思います。イッセー尾形に言わせたように、
「この国には合わない」。
その部分だけが、監督が勉強して受け入れた部分なんだろうなと思いました。それ以外は、結局のところ白人の優位性、侵略の正当性を表現するのにいい素材だったから撮ってみたんだろうとしか思えません。今や恥です。
なぜ日本には1%しかキリスト教徒がいないのか。中国や韓国ですら3〜4割もいるらしいのに。そのことの方が興味深くないですか?
原作者がキリスト教徒だし、製作陣も海外の方も、そもそもの背景と日本の慣習をどこまでわかって見てたのか?まぁまず絶対理解できないでしょうね。あくまで「俺たちのキリスト教こそが正義なのになんて野蛮なことしてくれてるんじゃい!」っていうスタンスなんでしょう。なので、逃亡シーンから始まってずっと「俺たち悲劇」なトーンだったことがずるくてずるくてなかなか忘れられません。みた海外の人も、あ〜〜信徒たちが受難だ〜〜って感じでしかないんでしょう。遠藤周作はどうだったのか。気にはなるけど原作長そうなので読む気にはなりません。
コロンブスの像も倒されたし、今後見る人からは違った評価をされる映画になるんじゃ無いでしょうか。
そういうのを含めると、「日本人が見ても違和感がない」というけど出演してた日本人の方達は何を考えてたんでしょうね。特にキリシタン側。
神は今も沈黙しています
自分はキリスト教徒ではありません
正月には初詣に神社に行きます
結婚式は神前結婚でした
赤ん坊が産まれたら、近くの大きな神社にお宮参りして、お祓いをしてもらいました
子供が成長したら七五三で神社に行きました
両親もそうしたし、何の疑問もなく自分もそうしてきました
とすると神道なのかも知れません
とは言え、親の葬式は仏式でしたし、墓はお寺にあります
お彼岸には墓参りに行きます
法事やお盆にはお寺からお坊さんに来て頂いてお経をあげてもらっています
すると仏教徒?
でも年末になればメリークリスマス!とかいってます
つまり普通の日本人です
キリスト教との接点は殆どありません
教会には観光目的でしか立ち寄ったこともないし、神父さんには直接会ったこともお話を聞いた事もありません
その自分が体が震えるほど感動しました
日本の自然の音だけがする沈黙のエンドロールが終わったあとも動けずにいました
そしてしばらくすると声をあげて泣いてしまっていました
キリスト教徒でもないのになぜ?
そこまで心が震えたのだろう?
終盤の葬式のシーン
あのシーンはキリスト教徒が、それも司祭だった男が、異教徒の僧侶に異教の神が待つ異教の天国へ送られるシーンなのです
キリスト教徒なら身の毛もよだつような、そう死後の永遠の魂を悪魔引き渡そうとしている儀式に見えるのではないでしょうか?
信じる神を否定されること
自己の精神が成り立っている根底の価値観を否定され、そこから完全に切り離されること
それだけでなく、積極的に自らそれを否定する事を強制されること
死してもなお、自己の信じるものと違うことを強制されること
それがどれほど残酷な、それまでのどんな拷問よりも恐ろしいことか
そういうシーンだったように思えました
そして井上筑前守や奉行所の面々の言説をつい最近聞いたようにも思いました
それも何度も
猛烈な既視感に襲われました
もちろん今の日本は信教の自由があります
自分の信教、思想信条を他者から強制されることはありません
信じるものを捨てないからといって、苛烈な迫害や、捕らわれて暴力的な拷問にさらされることなどありません
信じるものを捨て去ることを強制されることはありえないのです
なのになぜ既視感が?
それは香港です
つい最近まで、あれほど民主化運動で盛り上がった香港は今では本作の舞台の島原や五島のようです
民主主義を信じる者は厳しく詮議され、迫害され転ばされているのです
まるで同じです
中国政府の報道官がいう耳障りの良い言い方は、本作の劇中で井上筑前守や奉行所の面々の言うことと本当に似ているではありませんか
21世紀の中国大陸では香港だけでなく、全土で「キリシタン狩り」が行われているのです
本作と同じです
天安門の虐殺は島原の乱と同じです
この物語は17世紀の日本の話ではないのです
21世紀、現代の隣の国で今日も起こっていることなのです
こんなことが21世紀にあってよいのか
自分達と同時代に生きる人間に降りかかっていて良いのか
なんと恐ろしい
身の震えることです
その事に思い至ったとき、堰を切ったように激情が噴き出したのです
中国の人々のこと
香港のこと
ウイグルの人々のこと
よその国の話
日本人には関係が無い?
欧州のあるファストファッションの企業はウイグル人の犠牲の上になる原料の使用を止めると表明したところ、中国全土の数百もの全店舗をいきなり閉店させられました
中国で展開する日本の企業にも、これをどう考えるのかとメディアから問われました
中国の対応に震え上がったある日本企業の社長は、いままでどおり使うと言いました
それも複数の企業の社長が
棄教した司祭と同じです
踏み絵を踏んだのです
知らない振りをして商売と政治は別と割り切る
それでいいのかも知れません
神は沈黙するのみです
あるのは自己の心の中にあるそれぞれの神に、やましいことはないのか?
恥ずかしいことはないのか?
軽蔑されることはないのか?
それだけです
その企業は、いやあなたは
キチジロウとどこが違うのか?
このようなことを書いている自分もまたキチジロウではないのか?
それを本作は鋭く問い、追及してきます
日本人が本当に信じるところはなになのか?
いや、自分が、あなたが信じるところはなになのか?
信教と思想信条の自由と民主主義
それは文明社会が歴史を経て確立した普遍的な価値なのではないのか?
中国は沼地なのか?
中国が沼地なら、日本もいつ沼地になるかも知れないではないか
神は今も沈黙しています
自然の音だけが聞こえるのみなのです
香港で民主主義を棄てろと強制された人の耳には香港の自然の音がするのみです
自然の音
それはその土地の風土の持つ音
香港の風土
中国の風土
ウイグルの風土
そして日本の風土
民主主義は根付かないのか
なぜなのか?
そのような思いが一度に噴き出たのです
だから号泣したのです
恐るべき傑作です
今こそ日本人が観るべき映画です
評価するメーターが振り切れる傑作です
タケシのお笑いウルトラクイズ
スコセッシは宗教映画になると途端につまらぬ。
周りが我慢して何本かに一本は撮らせている感。
貴重な残り打席はゴリゴリのマフィアものを。
塚本晋也熱演の拷問被虐もタケシのお笑いウルトラクイズの上島竜兵の魅せ芸に劣る。
重いテーマのだが、きちんとできている
長崎に住んだ時期があるので、隠れキリシタンの歴史は至る所で見聞した。市内はもとより、雲仙・島原・平戸... そんな見聞した歴史が、まるで現実のようにスクリーンに表れる。日本の情景や文化・生活が丁寧に表現されている。聞いたようなお国訛りも懐かしい。日本の研究・日本人スタッフの充実を感じ、外国映画らしい違和感はない。日本人の役者たちもしっかりと演じていたと思う。スコセッシのこの作品へのこだわりはキリスト教への信仰心からか?
さて、雑な仏教徒であり、キリストの教えに対する理解が甘いなりに感じたこと。自分はキチジローへの同情と共感が強かったかな。信念を曲げるのは教えに反することだとしても、生きるために外見はとりなし、だけど精神的には何も裏切っていない、と思いたい。それは心理への背信行為で許されざる行為かもしれないが、誰がそれを責める。棄教した神父たちも同じでないか? 果たして、信じる者は救われるのか? 戒めている自殺と変わらない。 絶対の神に対する疑念との葛藤に悩み苦しむ人々の姿が辛い。
きちんと原作読んでみたい。
タイトルなし
BGMもなく、棄教を迫られる宣教師と弾圧される隠れキリシタンを淡々と描いている。世界遺産登録された隠れキリシタンの壮絶な史実に基づいて、命をかえりみない信仰の深さに驚き、心痛め見た。暗い。
マーチン・スコセッシ版と篠田正浩版を比較して
結論としては、
スコセッシ版は遠藤周作未読の人と
アメリカ人のためのダイジェスト編、
篠田版は遠藤周作の日本人愛読者のための
応用編、
ということになるだろうか。
宣教師と日本人とのコミュニケーション
として、
篠田版では、宣教師がある程度、
日本語を話せる設定、
スコセッシ版ではかなりの日本人が
ポルトガル語(映画では便宜的に英語)を
話せる設定で、
さすがに後者はないだろうと思うが、
これは興行上の理由だと理解しつつも、
日本人の私には不自然に感じてしまう。
スコセッシは原作を忠実に踏襲し、
初めてこの物語に触れる観客には
分かり易い。
一方、
篠田版ではストーリーの運びについては、
大胆なカットと改変で、
原作のストーリーそのままの踏襲は避けた。
遠藤周作愛読者は、
キチジローはユダでもあるが、
「死海のほとり」の“ねずみ”との符合性
なども含めて、他の作品から映像の行間を
想像力で埋めながら観ていくだろう。
映像描写も静と動のように異なる。
例えば、住民3人の十字架刑の場面のように、
海中に静かに没してゆく篠田版に対し、
スコセッシは荒波に飲まれるダイナミックな
映像をあえて狙っているように感じる。
これは多分に両国民の感性や映画文化・歴史の違いがもたらす結果なのだろうか。
両作品の基本的なストーリーそのものに
大きな違いはないが、
そもそも、この作品の映像化においては、
どんな検討をもってしても
遠藤周作の独特なキリスト観の原作を
正確に描くことは難しいだろう。
ならば
分かり易い原作の要約物として描くか、
それでも映画としての独自色を目指すか、
となり、
前者がスコセッシ版であり、
後者が篠田版なのだろう。
スコセッシ版は、原作の基本的なストーリーを忠実に再現することに徹した結果、
映画は時に、原作とは異なる別の価値を
創造するという意味では
物足りなくなったように感じる。
多分に、スコセッシは原作を尊重した
ということよりも、
遠藤周作の独特な母性的同伴キリスト像
を内包出来ず、
ストーリーを追うばかりになってしまった
のではないか。
私は総じて”映画として”の完成度は
篠田版の方が数段上かと思うが、
遠藤作品を未読の日本人や
アメリカの方々には、
この作品は意味があるのかも、と思った。
問題の根源
昔の日本で実際にあった「キリシタン狩り」や「踏み絵」ですが、その歴史に挑んだ良作。
信仰心とは命より大切なものなのか、その答えは無宗教の僕には難しくてわかりませんが、宗教に限らず今でも排他的な思考がイジメや差別や偏見や迫害を生んでいる根源なのだと思います。
※どんなに貧しい格好をしていても小松菜奈さんの美しいオーラが消えていないことにビックリしました。
手を合わせます
大著ですが、中学の頃 遠藤周作(クリスチャン作家)の原作を読みました。
読みながら歯をくいしばって泣きました。
帰ろうや、帰ろうや、デウスの宮に帰ろうや・・
友人は恐ろしくなって拷問の所で読むのは止めてしまったと言っていました。
五島の天草四郎の記念館にも行ったことがあります。
殺されれば殺されるほど信者が興されたらしい。
「望みはもはや天国しかない・・」
そこまで追い詰められていた貧農と彼らに加えられた圧政の、壮絶な昔を想い、草の上に膝まづいて写真を撮りました。
1点だけ気になったが興味深い作品
キリスト宣教者対反キリスト日本大名両者ともの尊厳を守って描いていて素晴らしかった。
日本なのに、日本の映画にはない絵の綺麗さ。音や影の使い方が美しかった。
なにを伝えたい映画だったか。人を救うのは神か人か?人々を幸せにするための教えであるはずが人々を苦しめる矛盾か?受け取れるメッセージは他にも沢山あって色々考えさせられる。
キリストの誘惑や受難を想起させ、神の沈黙のなか本人だけでなく自分のせいで(神の沈黙のせいで?)苦しめられている周りの人々を見るのはキリストよりも苦痛を与えられているのではとすら思った。
ただ、気になったのは宣教者たちは「どうして日本の偉い人はそこまでキリスト教を受け入れたくないのか」を考えないのは自然ではない。原作でも触れられていないのだろうか。
日本はキリスト教が根付かないそういう土地なのだ。で済む話だろうか。事情を知らなければ当然拒絶され、人々に安易に救いを求める矛先として扱われるだけだろうと容易に想像できる。
実際、キリスト教が広まったのは祈るだけで救われる天国に行けると聞いた貧民層たちが大半だったとは思うが、宣教者たちはそのように望んでいなかったはず。映画の中でもフェレイラが嫌味を漏らしていた。
そこがないのでなんだか主人公の感情にはのめり込めなかったが
メッセージ性のある作品が好みなので、全体的には素晴らしく楽しめた映画だった。
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だ...
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だったとはちょっと思えないけど、キリスト教が日本には不向きな宗教であるという話には感覚的に頷けるものがある。それに、信仰の自由というものはあるんだけど、およそ世の中の紛争って宗教から端を発していることを考えれば、キリスト教が広がっていくのを妨害したい意図も分からなくはないなと思う。
全415件中、21~40件目を表示