沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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熱量
スコセッシ監督が、ずーっとつくりたかった作品。
その熱量が、本当に、細部から、全ての質感やセンスから伝わってくるものになっています。
音のセンスがまた、本当に秀逸です。無駄に音楽をつかいません。
原作を読んでいないので、原作ファンの方の持つ違和感はわかりませんが、信仰があるないに関わらず、また洋画邦画と意識せずに見られる大作です。
162分と長いですが、これは描くのにはそれくらい必要だと納得。
他の方も書かれていますが、【外国から見た日本の描き方】の違和感は感じません。日本人キャストの力もあますところなく出されていると思います。
どちらかと言うと二枚目担当なイメージのある窪塚君が演じる姿は、もう何枚も脱皮したような印象です。(色々経験されて昔とは違うのかな)
信仰と、目の前の信徒を救うこととの矛盾。迷いや苦しみの中、神の福音(声)を求め続け、絶望し、彼が一番拒んでいたことを受け入れるその瞬間に、神の存在を感じる矛盾。
原作を読んでみたいと思いました。
かつて日本においてもこんなにも信仰で苦しんだ人々がいたことー歴史の知識でしか知らなかったことが立体的に、重さと苦しさ、胸の痛みの実感をもって、知る機会になりました。
観るのに受け止める気力が必要ですが、それに値する作品だと感じます。
完全な無音の「沈黙」は映画館でしか体験できない。
ネタバレしないように気をつけたので、薄く書きます。
まだ見てない人のために最初に伝えておくと、この作品はエンドロールですらBGMが流れません。
従って、映画館で売っている食べ物であっても食べたり飲んだりすると異常に響きます。
結論から言うと、本当に見て良かったです。
なぜ映画館で観るべきかというと、
強制的に、耳が痛くなるほどの無音状態を体験できるのは映画館だけだからです。
この映画の大事なポイントは、題名の通り「Silence」
本当のSilenceを体験でき、理解できるのは映画館でだけ。
とあるシーンで完全に無音になります。
その無音が意味するところを、噛みしめる事ができるのは映画館でだけです。
なぜキリスト教が日本に根付かないと思うか、井上筑後守がとある物に例えて言うセリフが、いち日本人として心に残りました。
ぜひ、映画館で見てください。
神は沈黙していない!
物事は、どのように見るかによって、全く違うものになる。
この映画は、人間の浅はかな目線で描かれたものなのだと感じた。
いつの時代も、神の声を聴くものは少ないのかもしれない。
しかし、神は沈黙などしていないと思う。
監督にも神の声はインスピレーションとして、
降りていないのではないかと思える作品だ。
残念!!
誰もが考えること
「神様がいるのなら、何故こんな悲劇を黙って見過ごすのか、何故助けてくれないのか」誰もが考えた事だと思う。固い決意で危険な日本に渡ってきた宣教師も、その考えに囚われていく。
代官や通訳の言う理屈はとても分かりやすい。何度も転ぶ男や保身に走る村人達の心も良く分かる。
その一方で信仰に身を捧げる多くの信者たちや、転んだにも関わらず許されない元信者、共に海を渡った宣教師達の壮絶な最期を見せつけられる。
両者の狭間で主人公と共に苦悩し、堂々巡りをし続けた
こころは常に動く
劇中の日本の情景や、鈴虫の音色が、何故か今日は悲しく感じた。
日本の島たるものも少し垣間見た気がする。
田舎は余所者を嫌い、学歴や、見かけ、生まれを特に気にする。
権力や地位たるものは、時に暴走さえもしてしまう。
そもそもなぜ異教を拒んだのか。
また、なぜ、布教を目指したのか。
にっぽんの光には多くの影が潜んでいる。
正直に生きることは裏切られ、嘆くその時、人々は何を真実とするのか。
誰もが、明日に希望を持つ為、生きる為、日々何かしら祈っている。
それは、神であり、現実であり、そして、母だ。
踏み絵や、真っ直ぐな人々が命を落とし、今のこの自由な時代があることを忘れてはいけない。
静けさを動かすものは、人、そして、心でしかないのかもしれない。
映画『沈黙 サイレンス』評
映画『沈黙-サイレンス-』(米2016/マーティン・スコセッシ監督作品)評
-音が探求する真実を映像に求める時観る者は捜索者として君臨する自己証明の有りかを液体の変容過程の中に見出だすのである。その時人は映画が炎という記号が醸す光の存在である宿命を認識するであろう。それがリュミエール兄弟への潔い諦念である事を再認識させるに足るこれは映画の原点を光と影に求めるまさしく探求者の映画である-
深い霧が立ち込める地獄温泉での宣教師の棄教の為の熱湯による苛酷までの拷問作業に従事する幕府方の周囲には霧深さを浸透する湯気の荒々しさまでもが加担する蒸気と大気のあくなき交錯が醸されそれは映画に独特のダイナミズムの発生装置を担わせる。
マーティン・スコセッシ監督はこの膨大に廻したであろうフィルムから元編集マンの実績からも無駄を省いた自己の映画論を宣うべくキリスト教がヤソ教と蔑まれ禁令さえ発する日本の江戸時代との確執の中でまずポルトガル宣教師の強靭なる意志力によって耐え抜く為の力学を五島列島のかくれキリシタンに伝授してゆく。筑紫守の強硬な踏み絵作業に加担しない人間への痛烈なシウチには宗教戦争の過酷さを知る事だろう。
さわさわと騒ぐ虫の音がピークを迎えた途端なりやむ時映画はタイトル『サイレンス』だけが黒画面に描かれる。この時この映画が例えモノクロであっても何等不自由しないとも謂えるほど血の赤さが鮮明さを誇示するのも幾度も踏み絵の対象となるイエスの肉体そのものの静止がまさに沈黙という二字に纏わる事でこの映画が沈黙と深く渡り合う時こそが映画の説話的磁場である筑後守の制度との沈黙の闘争劇として成功している。これはそんな音の探求が映画という視力を得たものの特権を担う観衆自らがこの宣教師に擬え音から派生する映像に於いて真実への捜索者を施行するノエマによる自己証明へのあくなき探求を量る事となる。
それは主題とも関わる記号体系としての液体による変容が映画の進行により様々な形態を示唆するプロセスを歩む時のキリスト教に於けるナチュラリズムの根源を伺わせる。島雨特有の冷徹さに満ちた水の表情はやがて神の沈黙に於ける宗教が切り捨ての被写体と成るときこそかくれキリシタン達の責め苦の材料として十字架に張り付けられ冬の高波に浴びせられ死んでゆく凶器とも謂えるだろう。または宣教師の喉の乾きを癒す為の雨水からそれが人間誰もが流す体内の血肉が拷問の一環として役人がかくれキリシタンの若人の首を撥ね囚人達の罵声と泣き声のカオスからその身体を引きずる時の血の轍が死生観を喪失させる唯物的描写はいかにもユマニストに
徹するスコセッシらしい呆気ないそぶりが潜んでいる。
そして行方不明のフェレイラ神父の回想場面での拷問として逆さ吊した時に耳に開ける傷から自然に漏れる血の色にはキリストのたっ形を倒錯させた拷問形態としてその苛酷さが窺えるのだがこれこそは彼の踏み絵と棄教の原因ともなるまさに人間回帰の原点的な血でありこのキリシタン狩りによる自己犠牲の儀式の終焉としての収束した血でもある。
然しそれは決して最期ではなくスマキにされた女達を舟からふるい落とし海水による溺死へと導く時の凶器の海水そのものが晴天下に行使される時映画はマリア不在の悲劇的クライマックスを向かえる。
スコセッシはこの液体の変容過程からも自らを宗教映画監督とは決して見做さず虚構的空間に於ける唯物史観に則ったイタリアン・ネオ・レアリズモの申し子或は末裔として任ずるこの水にキリストの顔を浮かばせるほど些かシニカルな視点を有しており決して審美観でフィルムを廻してはいない。そこが似た題材を映画に持ち込んだタルコフスキーへのシニカルな一瞥でもあろう。
マーティン・スコセッシ監督はこの雄大な土地を背景とした映画の中で自然が創造したキリスト教の当時の位置をその自然界を司る天・地・水・風そして映画誕生の兄弟リュミエールへ敬意を払うべくラストの宣教師の収まった棺を炎で焼く場面にカメラまでもをその中まで侵入させる時晩年は棄教し検閲等で余生を暮らしていた死んだ彼のその手の中に光る木彫りの十字架のイエスに接近する時この映画の主題体系が実はフランス語リュミエールの意味に自然と繋がるのだ。もうお分かりだろう。それは常に女性名詞(マリアに代表される)である所の「光」の存在であるからに他ならない。
(了)
浅野忠信は色気で人を殺せる
日本は「建前」の社会なのだと思う。
キリシタンへ踏み絵を命じる役人達が「形だけでよい」「指をかすめるだけでもよい」と言うように、それが本当に背教の証明だとは思っていない。百姓達のキリスト教信仰を根絶できるとも考えていない。ただ公に聖画を踏んだという事実が重要なのであり、社会としてキリスト教を禁止する体裁が必要なのである。
井上奉行が背教司祭となったロドリゴに何度も証文を書かせたのも、棄教の事実を公的なものとする建前を求め続けたからであり、しかし一方でキリシタンの残る村を紹介したりしているのだ。
そんな日本社会へ最終的に順応することを選んだロドリゴは、幕府の禁教政策に協力し、日本名を授かり、神の名を遂に口にすることなく死んでいきながらも、最後まで信仰を捨てていなかった。
背教司祭という建前を守り抜き、座棺の中で隠し持っていた十字架のように、心の中でひっそりと神を信じ続けたのだ。
必要に迫られればいつでも踏み絵をし、ロドリゴを裏切ることもした弱く卑しい窪塚洋介も、心の中では常に神を信じ続けていたのかもしれない。他の村人達と違い、形ある信仰の証を欲しがらなかった彼は、最後までロドリゴを追いかけ告悔をし続けた。
社会は心の中まで取り締まることはできない。心を裁けるのは神のみである。
信仰とは何か。ロドリゴは布教の志を捨ててしまったけれども、一方でその答えにたどり着くことができたのだと思う。
・・・なんて、とくにキリスト教とか宗教に詳しいわけでもないが、色々と考えてしまいました。
キリシタン達に降りかかる数々の苦難や拷問のシーンは、本当に観ていて苦しくなるし、ズシンと重たい気持ちが残るものの、どこか希望というか救いも感じられる不思議な鑑賞後感です。
蜩の声による「日本」感醸し出し効果はすごい。
ちょんまげで英語を喋る浅野忠信は至高。
「ラスト・プリースト」なわけで
重厚で厳かな圧倒的な画力。ブラックアウトで始まり、ブラックアウトで終わる。そこには自然音だけが響いている。"神"は一貫して沈黙したままだ。エンドロールの余韻が深い。
カトリック信者であり、キリスト教文学を多く残した遠藤周作だからこそ、生来のクリスチャン(=マーティン・スコセッシ)による映像化は待望といえるかもしれない。ただひたすらにスコセッシの原作への想いが強く迫ってくる。
キチジローは"ユダ"だし、ロドリゴは"イエス"、井上筑後守は"ローマ総督"なわけで、クリスチャンに刺さる内容ながら、一方で宗教的な解釈を持たず、単なる歴史映画として観ることもできる。日本人による日本語で書かれた原作なわけだから、自由な解釈で観てかまわないはず。エンターテイメント性はゼロだが・・・。
「ラストサムライ」(2003)ならぬ、「ラスト・プリースト」である。"日本人って何なのか"をガイコクジン目線で語られるとドキッとする。そんな映画のひとつになる。"大自然"に神を見い出し、"絶対神"ではなく、キリストを自己都合の解釈で消化してしまう日本文化の土壌を客観的に指摘していたりして。
カトリック信者には評価が分かれる原作だが、字幕をカトリック・イエズス会司祭で上智大学文学部教授の川村信三氏に監修依頼しているので、しっかりと考証のバックグラウンドは押さえられている。
ホントは茶化しちゃいけないとは思いつつも、宣教師フェレイラ役のリーアム・ニーソンは"クワイ=ガン・ジン"だし。悩む司祭仲間のアダム・ドライバーは"カイロ・レン"だし。そうなるとフェレイラを"師"と仰ぐ、アンドリュー・ガーフィールドが長髪を後で縛っている姿がユアン・マクレガーに見えてくる(笑)。すみません。
(2017/1/21/TOHOシネマズ日本橋/シネスコ/字幕:松浦美奈/翻訳監修:川村信三)
「観てよかった」と「観て欲しい」の違い
「見てよかった」と「見て欲しい」の違い
マーチンスコセッシ。
名前は知ってる。
昔観た「ケープフィアー」を
おぼろげに覚えてるくらい。
そんな知識の私が観た結果。
この映画は、、、。
「怒り」のレビューでも書いたのだけど
「観てよかった」映画であって
「観て欲しい」映画ではないかな、ということ。
勧めたくない、訳ではない。
胸を張ってお勧めできる映画なのだが
人と、観るタイミングを選ぶ映画。
テーマも重いし
序盤の絵面も重たい。
長い上映時間も相まって
気力と体力に自信があるタイミングで
ぜひ観に行って欲しい。
そんな映画。
間違っても残業明けの
レイトショーなんかは
お勧めできない。
この映画を選んだ理由は
とにかく窪塚洋介が見たかったから。
アイキャンフライしてから
映像の世界からは遠ざかっていたが
はじめて劇場で「GO」を見たときの
あの衝撃は今でも忘れられない。
その窪塚洋介。
・・・。
どうも私の頭の中に
未だにIWGPのキングの
残像が残っているために
狡い、強かなキチジローと
一致せず、そのまま消化不良で
終わってしまった。
普通ならこれで「つまらない」
と、終わってしまうところだが
他の日本人キャストが
なかなかよかった。
やはりイッセー尾形だろう。
怪優が見事に怪演した。
薄ら笑いに甲高い声。
喉が渇いたり
立ち上がるときに発する
「ん、ん、ん」という
お付きのものに甘えるような声。
あんな演技は
彼しかできなかったと思う。
海外の人にどうな風に見えるんだろう。
そんなことばかり気にしながら観ていた。
あと驚いたのが
浅野忠信。
この人の演技って
日本語だとボソボソ
抑揚なく喋ってる感じがして
あんまり好きじゃないんだけど
英語でのセリフを聞いて
こっちの方がしっくりきた。
この人の英語力ってどうなんでしょう?
ネイティブの方、お教えください^_^
それ以外にも贅沢なくらいに
有名、個性派の俳優陣を起用。
160分の映画だったが
その時間ほど長くは感じなかったな。
外国映画によくありがちな
日本の風景の再現力の低さはなく、
不自然にならなかったのも
引き込まれた一因なのかも。
エンドロールも個人的に
すごくよかった。
もしここでタイアップした
どっかの有名アーチストの曲が流れたら
一気に白けてしまうところ。
ただ、自然の音を淡々と流す。
この映画にはこれ以上ない
素晴らしいエンドロールだった。
残念なのは
途中で出てきた
EXILEののAKIRA。
アーチスト、パフォーマーとしては
すごいんだろうけどね。
このいかにも
ねじ込まれた感がある
キャスティングは如何なものか。
結構重要なシーンだっただけに
学芸会のような演技に
場が一気に盛り下がってしまったのが残念。
兎にも角にも
一度マーチンスコセッシの映画を
ちゃんと見てみようと思わせてくれる
そんな映画だった。
PS:
これは偶然だと思うが
予告が終わって本編が始まるときに
2分近い「沈黙」があった。
これはもしや、タイトルに引っ掛けた
イオンシネマの粋な計らい?
・・・な訳ないか。
ちょっと、面白かったので
蛇足。
信仰
信仰とはについて考えさせられた。他人を犠牲にしてまで貫く宗教とは...
無信教である自分には到底理解できない境地であるが、よくも悪くも自分で答えを出すことが人生ではないだろうか。
全ての俳優の演技が素晴らしく、ウルフオブウォールストリートの後に本作を撮影した監督の手腕には脱帽。
時間をおいてもう一度鑑賞したい。
やってしまいましたね、
見事な大失敗ですね。
沈黙+スコセッシでかなり期待していたのですけど、殆どマイナス評価ですね。
真面目な話しですが、何を間違えてしまっているのでしょうか?
ちゃんと小説の中身を捉えているのでしょうか? 理解しているつもりなだけなのか? それとも脚本を誰かに丸投げしているのか?
配役も変だし、、、
悪い点を挙げればキリが無いです。真面目な意味でのツッ込みどころ満載です。ホントに遠藤周作を読んでいるのかなぁ?
例えば小説の最も重要な配役であるキチジローです。彼は3人の心を持っていなければならないのに、誰の心も込められていません。込められるべき3人とはキリストでありユダであり、主人公ロドリゴであります。それらを通じて神を感じる事が主題なのです。
神が沈黙の中に於いても主人公の苦しみを分かち合っていると云う事をキチジローを生き鏡として表現しなければならないのに、何にも表現出来ていないです。そしてその神の苦しみはキリストの苦しみであり、またユダの苦しみであると云う事を理解させなければならない。
この映画では単純にキチジローをユダ扱い程度でやめてしまっている。キチジローが何度も踏み絵を踏んでいる事が本当の神のメッセージである事を伝えられていない。
もっとも、窪塚洋介じゃあ、こんな難しい役はこなせないでしょうね。キチジローはみすぼらしく卑しい人間として演技しなければならないのに、トレンディドラマみたいな演技で眼光をギラつかせてちゃ台無しですね。ありきたりの演技で、韓流と間違えているんじゃないでしょうか?
本人はどうやって上手に英語を喋るかに夢中だった感じで、本当は英語の聞き易さなんてどうでも良い事に格好を付けようとするんで、本来果たすべきキチジローの人間表現が全く成り立っていないと云うかブチ壊しなんですね。まあ、本来なら小説を読んだ時点で自分の実力に見合っていない事を早々に悟って、辞退しといた方が良かったんですけど、この人は仕事が来れば何でも食い付くんでしょうか?
次に最悪なのがイッセー尾形です。私はイッセー尾形さんは十指に入る大好きな芸人さんですけど、彼の一人芝居をそのまま映画に乗っけてる様で酷すぎます。元々、映画の演技などとはカテゴリーが違い過ぎるんで、、無理なんです。その上、アフレコの英語が外れまくっています。多分、アフレコ時に英文を読むのがやっとで、自分の舌を見てる余裕が無かったんでしょうけど、誰かちゃんとサポートしてあげて暮れなかったんでしょうかね?
イッセー尾形の井上筑後守の役はキリストを処刑したときのローマ総督を追体験しようとする者だとは、誰も教えてあげていないのでしょうか?
そして、この映画の根本をひっくり返しているのが、神様が喋くりまくる点です。遠藤周作が一番悩んだであろう沈黙をいとも簡単に破って、あれこれ神ツイート三昧です。オマケにイメージ画像付きです。「やってくれるね~!」って感じですね。どうせ神様が喋るのであれば、主人公の声でやるか、キチジローの声でやれば何とかなったんでしょうけど、ありきたりな野太い声でやられてしまって残念でつまらないです。
で、未だあるんです。本当のクライマックスである、逆さ吊りの刑での呻き声のとこですね。小説ではこの呻き声に悩まされる過程が主人公の棄教への最も大事な契機になっているのに、、、、 30秒くらいでサラッと流されちゃいました。「えっ! あれっ? はっ? どうしたの? こんだけ? えっホント? どう云う意味?」って、暫く凍り付きました。「じゃあ、いったい、この映画は何が表現したいんダヨ?」と、「ただのエンターテーメントじゃん!」て感じで情けなくて仕方ありません。
まあ、棄教した後も長ったらしいし、「小説の方はこんなにダラダラしてたっけかな~?」って思い出しながら観てましたけど、、、 要は説明が必要なんですね!!、、いちいち、、本編の映像表現で出来なかったんもんで、、 映画でこんな長いナレーションは私は聞いたことが無いですね。落語の枕話しよりも長い!! 誰もそんなの聞きゃあしないよ!!
エンディングのオチは、まるで学生映画か何かのノリです。こんな事しなくても良いのに、、、 主題が入れ替わってしまっている感じです。
でも、世間の評価は良いみたいですので、興味のある方は観てみましょう。但し、観た後に小説の「沈黙」を読み直すのを忘れないで下さい。この映画と対比する事で、遠藤周作が何を問いかけようとしていたかが理解し易くなるでしょう。そうする事によって、小説「沈黙」の本当の意思が伝わって来ると思います。
違和感あり・・・
内容はさておき当時の役人があんなに外国語に堪能だったでしょうか。また教えてほしいのですが外国語を使うシーンがすべて英語だったように思います。パードレはポルトガル人なのでポルトガル語が全く聞きとれなかったように思いますが。
せっかくいい映画なのに違和感を感じる理由です。
役者が、ナーバスになるのも納得・・・
ハリウッドが、日本を舞台にここまで作り上げたら邦画は敵わない。
映画好きとしては、クワイ=ガン・ジン、スパイディ、カイロ・レンを演じた俳優さんだったのと、窪塚さんや浅野さん、尾形さん以外にも・・・
えっ!て感じで、馴染みの日本人役者さんが惜しげも無く出演してるので、難しく考える間もなく物語に入り込めました。
ただ内容的には、胸が詰まる思いと痛さと理不尽の連続でかなり重いですが、その中で、キチジローが何度も何度も懲りず同じことを繰り返す・・・
しつこいくらいに繰り返す・・・・
宣教師ロドリゴが、心痛に見舞われてる時に限って現れる・・・・
役に入り込んでるアンドリューと一発即発にもなるったって、窪塚さんの後日談にも納得の☆4.2
出来れば朝や昼間より夜観て帰るだけにしないと・・・長くキツイ1日になると思います。
思ってたほどには重くない
覚悟して見たからか、思ってたほどには重くはなかった。
遠藤周作氏は何を言おうとこの物語を記し、 マーティン▪スコセッシは何を想いこの映画を作ったのか?
日本人の多くが流暢に英語話す以外は日本の描き方に違和感はなく見れたのはさすがはスコセッシと言うとこだろう。
原作ファンとしては…
ちょっと惜しい作品。
待ちに待った作品だったので尚更。
全体的に原作のシーンを忠実になぞっていき
作品のテーマを分かりやすく表現しているところは、流石スコセッシというところ。
映像はコントラストの高い
フィルム調の映像に仕上がっており、
無駄なBGMが流れず、作品に没入できる。
ただ、原作ファンとしては
如何せんロドリゴが神と対話し葛藤、苦悩するシーンが短すぎるのが惜しい。
転ぶ直前に見つけたフェレイラの手跡、
(幾ら何でも見つけるの早すぎやしないか?)
拷問時の呻きを門番の鼾と勘違いした時の
あっけなさ、そしてラストシーン
棄教に至るまでの葛藤にもっともっと
時間を割いて欲しかった…
えっ!もう諦めるの?感がどうしても拭えません。
ただでさえ長尺の作品なので
興業的に延ばせないのであれば
シーン単位のオミットが必要だったのでは…
原作ファン目線だと辛口になりますね。
女性と見に行く映画ではないが圧倒的迫力のハリウッド映画 必見
この映画は家族や夫婦で見る映画ではない。むしろ一人で人生とは信仰とは何かを考えながら見る映画。人には命より大切な物がある。それが家族であったり、自分の信じるものであったり人それぞれであろう。最初から弱き者をこれでもかと代官がキリシタン達を拷問する。貧しい農民達にとってキリシタン達は信仰が全てであった。自分が何かを捨てなければならない時、彼等にとって最後まですてられないものは信仰であった。神父の祈りに対しても神は沈黙し何も答えない。村のキリシタンは海に建てられた十字架の上で3日生き続け、引き潮の時には賛美歌を歌いそれが村に響く。何か崇高なものを見たような気がする。これはまさしく現代ではあり得ない日本人がなした崇高さである。キチジロウは私のように弱くずるく、汚い人間である。しかし信仰を捨てられない。神父につきまとい神父からも軽蔑されているが、最後には神父から一緒にいてくれてありがとうと言われる。最後に神は沈黙を破る。このシーンではたぶん一人であったら涙が出ていたと思う。涙をこらえるに必死で腹が痙攣するほど動いていた。娯楽はないが確実に感動する映画であり、映画の価値も非常に高い。
弱さと強さはコインの裏表かもしれない
約400年近く前の日本の九州が舞台であるが、単なる信仰を扱う映画としてでなく人間の内面を見つめる映画としてよく出来ている。スコセッシ監督は映像ドラマとしてしっかり作っている。特に誰しも好きではない拷問場面は苦痛を感じるが、これも考えるためのツールとして割り切るしかない。
テーマは宣教者のような高い理想を目指す人間だとしても、やはり逆境のなかでは完全とはなり得ないことを示している。この映画にはヒーローはおらず、登場人物が弱さを持ち同時に強さを持つ。卑怯なやり方で人間の外面をどのように変えようとも変えられないものはある。それが信仰であったり信念だったりする。
日本人俳優はイッセイ尾形の奉行や通訳の浅野忠信はじめ多くの俳優に存在感があった。個人的には窪塚洋介のいい加減なキチジローが共鳴できた。弱さを持ちながら必死に生きている。こういった弱い人間を愛することが出来るのは神しかいないかも知れないが…。静かに人間のあり方を考えることができる至高の映画である。
信仰や疑い、弱さや人間のありようについて深く考えさせられる傑作
原作は遠藤周作の小説。キリスト教が禁じられた江戸時代の初期を描く殉教映画です。洋画にカテゴリーされる作品ですが、日本人俳優が重要な役を演じる邦画ファンも必見の作品。構想から完成までなんと28年も。いくつもの困難を乗り越えて映画化を実現したというマーティン・スコセッシ監督の執念がまるで、「神の試練」のように感じてしまいました。信仰や疑い、弱さや人間のありようについて深く考えさせられる傑作です。
舞台は17世紀、江戸初期の長崎。
冒頭から、幕府によって捕らえられた宣教師たちが雲仙の源泉に連れて行かれて、そこで熱湯を浴びせられるという拷問、処刑シーンが描かれます。いくらそういう映画なんだと予告編で覚悟してきても、やはりあまりにむごすぎて息を飲んでしまいました。ふと気がつくと、そのシーンには、映画に付きものの音楽がついていないのです。そんな沈黙が、余計に戦慄さを感じさせたのかもしれません。
さて、物語はこのあとポルトガルのイエズス会本部に移ります。宣教師であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)は、信じがたい噂を耳にします。それは自分たちの師であり、日本でのキリスト教の布教を使命としていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が、日本で棄教したという噂でした。尊敬していた師が棄教したことがどうしても信じられず、それを確かめるべくふたりは危険を冒してでも、日本へ渡ることを決意するのです。
ふたりは中国・マカオで日本人の漁師にしてキリシタンであるキチジロー(窪塚洋介)の手引きにより、日本のトモギ村に密入国します。そこで目にしたのは、キリシタンに対する想像を絶する仕打ちや拷問でした。そして村には司祭はおらず、「じいさま」と呼ばれる村長のイチゾウ(笈田ヨシ)だけが洗礼のみを行えるという過酷な環境だったのです。それでも村人たちは、信仰を捨てずに祈り続けていました。ふたりは村人達と交流を交わし、布教活動を行っていきます。
キチジローはかつて弾圧を受け、踏み絵により棄教したのでしたが、その時自分以外の家族は踏み絵を行えず、眼前で処刑されたのだというのです。罪の意識を背負い苦しむキチジローは自分の村である五島列島にも宣教師を招き、布教を広めます。そこでフェレイラの手掛かりも掴み、任務は順調かと思えたのでした。
しかし、キリシタンがトモギ村に潜んでいることを嗅ぎ付けた長崎奉行・井上筑後守が村に訪れ、ふたりの宣教師の身柄を要求したのでした。村人達は必死に匿いましたが、代償としてイチゾウ、キチジロー、そして敬虔な信者であったモキチ(塚本晋也)を含む4人の村人が人質となりました。奉行は踏み絵だけではキリシタンをあぶり出すことは困難と考え、「イエス・キリストの像に唾を吐け」と強要したのです。4人の内キチジローを除く3人は棄教しきれず、処刑されることとなったのです。
自分達を守るために苦しむ信者達を見てロドリゴは苦悩します。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」と。タイトルの「沈黙」とは、この神の無言のことを指しています。これほど多くの殉教者の血が流れているのに、それをただ見つめているだけの神の存在に、ロドリゴは次第に疑問を抱くようになるのでした。そして、長崎奉行の井上筑後守(イッセー尾形)が語りかける「棄教すれば、信者を助けられる」という言葉に、固い信仰心が揺らいでいくのでした。
信徒には、執拗に弾圧の手を緩めないのに、狡猾な井上はロドリゴには衣食を与えて厚遇します。それは、ロドリゴに棄教を迫るための巧妙な手段でした。井上の直感では、ロドリゴは必ず“転ぶ”(棄教の隠語)ものと察しをつけていたのです。であるなら殺さず生かしておいて、しぶとく残る信徒の切り崩しに利用しようというのが、井上の魂胆でした。
現実主義の通訳(浅野忠信)にも諭され、ロドリゴは、信仰を貫くのか、信徒の命を守るために、信仰を捨てるのかという、聖職者として究極の選択を迫られます。井上が繰り出した奥の手は、棄教したフェレイラ神父にロドリゴを引き合わせることでした。これは、原作でもよく知られた結末です。でも本作では、スコセッシ監督が長い思索の末に見つけたラストシーンを用意していていました。一見蛇足のようなシーンですが、ロドリゴが心から棄教したのかどうか、原作よりも納得できることでしょう。
ところで、洋画としてキリスト教国の側から描かれる本作なのに、井上が憎たらしい悪役として描かれないところには驚かさせられました。
スコセッシ監督は隠れキリシタンへの弾圧について、こう語っていました。“「隠れキリシタンへの拷問は暴力でしたが、西洋からやってきた宣教師も同じように暴力を持ち込んだのではないでしょうか。『これが普遍的な唯一の真実である』とキリスト教を持ち込んだわけです。それに対処するには、彼らの傲慢をひとつずつ崩していくしかないと、日本の為政者は考えたのです。”と述べています。つまり井上の主張にも、日本人として当然の言い分取り入れられていて好感が持てました。
ロドリゴの主張には、「自分たちこそ真理」という信念に傲慢さを感じました。権威的なアプローチで教えを説いたところで、日本で受け入れられるやり方にはならなかったでしょう。彼の信仰には、「厳しく罰する、父なる神」としてのキリスト教の一面が強すぎて、本来の愛と救済の教えから遠ざかっていたのです。
そんなロドリゴに井上は、日本になぜキリスト教がなぜ根付かなかったのか理路整然と語りかけていくのです。そもそもなんで犠牲者を出してまで、自分の信仰を他国に布教する必要があるのかと素朴な疑問をぶつけるのでした。そして日本は仏教国であり仏の慈悲を諄々に説いたのです。
トドメは、フェレイラが語るサビエルによる日本布教の欺瞞。自然崇拝の強い日本人に対して、方便を使ってしまったのです。サビエルは、父なる神とは“大日”なんだと。キリスト教の信仰対象を、古来からわが国にあった太陽信仰に置き換えたのでした。だから日本のキリシタンが崇めていたのは、なんと大日如来だったのです。さぞかしロドリゴもこの言葉に愕然としたことでしょう。
ただ井上の言葉に、頑なにそれを拒絶しようとするロドリゴの気持ちもよく分かります。“自分こそが正しい”と、信じて譲らない頑固な老人と使命感に生きる生硬な青年。でも、彼らが使命を果たすこと、理想を求めることで、たくさんの信徒の命が失われる現実は変わりません。これは民族と宗教が相克し合い、無差別テロを引き起こしている現代にも繋がる、争いがなくならない世界への警句のようでもあると感じました。
わが身ひとりの苦難苦痛であれば、ロドリゴも棄教への迷いを微塵にも抱かず殉教したことでしょう。しかし、自分のせいで多く信徒に苦難がおよび、いままさに目の前で殺されようとしている信徒から、救いの声が発せられたとき、棄教しないという信念は果たして正しいことなのかどうか?
数多くの殉教者を輩出したキリスト教の歴史。それにキリスト教に限らず、信仰の本分からすれば、どんな苦難困難にあったとても棄教はあってはならないことです。しかし、棄教しなければ助けられない眼前の信徒の命という究極の矛楯。選択を迫られて苦悩するロドリゴに対して、同じ信仰を持つものとして涙しました。
こんな状況でも、神は沈黙したのか。そしてロドリゴはどのように変わったのか。熱烈なカトリックの家庭で育ったスコセッシ監督の演出に、ぜひご注目を!
そんな中で、行動に全く筋が通っていない弱き者、キチジロー(窪塚洋介)が救いとなます。ロドリゴをあがめているのに裏切り、神を信じていると言いながら踏み絵を踏むのに、神を畏れ、赦しを求めて何度もロドリコに告解を求めようとする彼の心情が、宗教に縁がない人には分かりづらいづらいのではないでしょうか。
しかし悪人正機説に立てば、彼ほど信仰を求めていた存在なのかのかもしれません。キチジローは『この世の中に、弱き者に生きる場はあるのか』とロドリゴに問います。この作品は、弱きを否定せずに、受け入れることの大切さを描いています。それは、人が人として生きる事の意味を考えることでもあると思うのです。
原作者の遠藤周作も、浄土真宗的なものにイエスを歪曲しているという批評について、エッセー『私にとって神とは』のなかで、日本的宗教意識として肯定しています。キチジローという存在は、煩悩具足の凡夫の象徴であり、浄土真宗の核心を描いた作品でもあるといっても過言ではないでしょう。
さらに本作でうれしいことには、「外国人監督が撮った日本」によくある違和感が、この映画には全くないこと。映画化にあたっては、17世紀の日本をどこまで忠実に再現できるかが大きなポイントでした。ふさわしい場所を求めて、ニュージーランドやカナダなど様々な場所を見て回り、ついに台湾で完璧なロケ地を見つけたといいます。舞台である長崎と、地形や天候が似ていたのが、大きな決め手になったそうです。
台湾での撮影にあたっては、台湾出身のアン・リー監督らの協力を得て、リー監督の『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』のために建造された水槽を活用。司祭たちが海岸の近くを移動するいくつかのシーンを撮影したそうです。
撮影では、京都の時代劇のスタッフも参加したそうです。そこに外国人の見方の加わったところが新鮮で、感銘の深い作品となりました。
スコセッシ監督のルーツは、カトリックの本拠イタリアからの移民の子にあります。昔日本に来たヨーロッパ人宣教師たちの無残な挫折のこの物語には、彼には日本人以上に身近で心に響くものがあるのでしょうね。
演技面では、キリシタンの立場を分かったようなフリをして、冗談など交えて残酷に裁いていく、イッセー尾形の飄々とした演技が素晴らしかったです。また通訳役の浅野忠信が教養と自負心でロドリゴを屈服させようとする演技にも説得力がありました。キチジローになりきった窪塚は、本作で世界に発見されることでしょう。
そしてなによりキリシタンの農民役として拷問や処刑にかかって、ギリギリまで強烈な大波を被りつづけたり、火であぶられたり、逆さに吊され続けた多くの出演陣の健闘をたたえたいと思います。
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