沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
全417件中、221~240件目を表示
信じる者は救われる?
遠藤周作も読んだこと無いし、もちろん『沈黙』も知らない。
クリスチャンでもないし、カトリックでもない、仏教徒でもない無神論者です。
以前天草で『天草四郎メモリアル館(?)』に寄った時に有名な『島原・天草の乱』の話を聞いた。
キリシタンと呼ばれるカトリックの信徒の人たちを主とした一揆(実際には関係の無い人もいたらしい)が起きたその前後のお話。
ある程度は時代背景等を知ってはいるが、色々と難しい言葉もでてきた『転ぶ』って何?って感じw
当時の幕府や大名が外からやってきたキリスト教を危険な物と考えるのはわかるし、今まで信仰してきた宗教を否定されるのが辛いのも理解できる。
(ここから色々な宗教を信仰している人すいませんw)
しかしながら、宗教の為に命を捨てるのは理解に苦しむ。
確かに現代の様な色々な情報や娯楽、色々な楽しみや心の支え等が簡単にいともたやすく入手できる環境では宗教の必要性や考えは軽い物かもしれない。
それでも、ただのプレートを踏むだけをできない、マリア像に唾を吐きかけることが出来ないのは、「とてつもなくつらいことなんだな、、、」と思いながらもずっと??な感じでした。
だから宣教師の苦悩や葛藤を共感する事は難しかった。
結局棄教してしまうのも、「え?熱い信仰心はどこいったのよ?w」と突っ込んでしまった。
もちろん目を覆いたくなる様な拷問や信徒への弾圧があるのですが、それでは殉教していった人たちは一体?と感じました。
しかしながら、映画自体は非常に時代考証されているというか映像も美しく、拷問もかなり強烈ですがキャストの演技が非常に素晴らしく日本人側は特に秀逸です。英語も難しかったとは思いますがググッと引き込まれました。
本当に神はいるのか?もしかしたらいるかもしれないが、これほど信じて求めている人に『沈黙』を決め込むのはいかがなものかと思いますね。『信じる者は救われる』とはよく言いますがそれなら出てきて奇跡を起こしてみたらいいのに、あまりにもあなたを信じたために死んでいった人たちがかわいそうだなと思った作品だった。
よくもないし悪くもない
すばらしい!!元気な時に鑑賞を。
始めに、ネタバレから。
「信仰に対する揺らぎとその克服」がテーマの映画です。「沈黙」そのものがテーマでは無く、神の沈黙に直面しながら、それでも神が常に側にいることを発見することがテーマです。
豪華キャストが映画の世界に入っていくことを助けてくれます。例えば、井上筑後守は、小説でも特異な性格の人物であることは分かるのですが、明確なイメージを持つのは難しいと思います。しかし、映画ではイッセー尾形が、大胆に一つの人物像(屈折した面も含めて)を示してくれます。浅野忠信が、職務に忠実な武士のイメージを具現化してくれます。
さらに、日本の汎神論的土壌、武士社会の形式主義なども、サブテーマとして描写されていて、今日の日本を世界と比べて理解する助けになると思います。
『深い河』も合わせて読むことをおすすめします。「(自分が神を捨てても)、神は自分を見捨てない」という遠藤周作の信念がより理解できます。
一点だけ残念なのは、自然の美しさの描写が無かったことです。農民の日々の喜びも描かれていません。前半、農村が舞台の間、貧しさの中での信仰と迫害への抵抗が描かれている全てという感じ。原作に忠実ということかもしれませんが、映画なので、五島や平戸の自然の美しさなども盛り込めたのではと思います。
とはいえ、「神はいるのか」という疑問を持つことがある方には絶対おすすめの映画です。
「自分は信仰を持っていないから、理解不能の映画では?」と疑問を持つ向きもあるかもしれません。しかし、この時代のこの地域の農民が、イエズス会の宣教師達に触発され、改宗していった理由も理解できるように配慮されています。始めに信仰ありきの映画ではありません。貧しい農民が、半ば誤解したまま、キリスト教による救済を信じた背景が客観的に描かれています。終盤の仏教寺院のシーンなどは、庶民の生活から切り離された静寂の空間として描かれており、こんな世の中だったら、新しい宗教に救いを求めるかもしれないと理解できました。
3時間近い映画ですし、内容の重さを考えると、元気な時の鑑賞を。
憐れ
日本人と一神教
キリスト教をタテマエ上禁止するのではなく、癌を切除するかのように隠れキリシタンを排除した井上たちは「キリスト教は危険」と判断したからそうしました。
その残虐行為は、個人の信仰の自由を否定する非道な宗教弾圧に他なりません。
しかしキリスト教が他の一切の宗教を否定し、個人の信仰の自由を認めない宗教であると判断したならば、それは危険と言わざるを得ないでしょう。
私はキリスト教が危険というより、一神教というものが日本人にとって危険かもしれないと思います。
否、日本人のみならず一神教は危険かもしれませんが、ややもすると日本人は一丸となって一神教と心中したがるわけです。
日本人と宗教の関係を要所要所で男と女の関係になぞらえたこの作品は、まことに見事なものでございます。
とはいえ、仏教だけが日本人の唯一の宗教であるかのように描かれている雰囲気もあり、そこがちょっと気になります。
もちろん当事のことはわかりませんので、それで正しいのかもしれませんけれども……。
サイレン沈黙
長崎県天草が舞台なのかな、又見てはいませんけども異国のキリスト教を日本に広めて、徳川家に抹殺去れる話しかと推測します、昔魔界天性と言う角川映画が有りました。これ天草四郎が隠れキリスタンであり摩訶不思議な術使い輪廻天性で死んだ人達を行き返すと言う話しで、駆れ此れ40年前真田と沢田謙二や千葉慎一や成田三夫と名だたる大物俳優さんが出てました、緒形拳さん小次郎役もTVの再放映で見た思い出す、窪塚洋介がリメイク版魔界天生も有りましたけどもつまらない。さて、今回のサイレン沈黙は内容量と日本にキリスト教を必要性があるのか見て見たいです。
また見たい深い映画。
映画館に観に行く前に、本と篠田監督の映画を見ました。内容がヘビーなので誰も一緒に行ってくれなくボッチ鑑賞です。長丁場ながら全く長さを感じさせなく最後は心が暖かくさえなりました。もちろん拷問シーンは目を塞ぐ程でしたが。。私は見に行く前から、何故踏み絵を踏まないのか疑問でした。もし目の前にキリスト様がいたら踏みなさいと言うと思ったのです。神とはそう言う存在だと思うから。心の中にあるものだと。自分が信じていればそれでいいのではと。最後までその気持ちは変わりませんでした。自分が宗教を持たないからかもしれません。でも神はいると信じています。ロドリゴ役のアンドリュー·ガーフィールドの苦悩する姿にきゅんときてしまいました、罰当たりでごめんなさい(泣)また観に行くつもりです。
私はプロテスタントのクリスチャン
私はプロテスタントのクリスチャンです。
沈黙を見て日本という国は本当にキリスト教が広がるのが困難な国だと思いました。この時代のようにクリスチャンだからと言って殺される事はなくても、私自身クリスチャンとして生きていきにくい国だと物心ついたころから感じていました。でもこうして日本人としてクリスチャンとして日本に生まれたのは神様の計画の中だと強く感じました。神様が私を聖めて神様のご計画のためにご自由に使って頂きたいと思いました。人間の目で見てこの日本が救われるのは難しいとか、あの国は簡単だとか思ってしまいますが、神様にかかれば全てが可能なのだという事を忘れずにたくさんの日本の方にも神様の愛を知って頂きたいと強く思いました。
信仰を知らないと
信仰をもたない自分には、なぜ利益にならない信仰をもつのかが分からなくて、なぜこんな風に見えないもののために自分をかけられるんだろうと思った。
自分が人生で行動してきた理由は、目に見える、自分や家族のための利益のためでしかないし、信仰というものが分からない。
キリスト教の教えでなければ、救われない人たちがいるなら、踏み絵なんて迷いなく踏んで、その教えを支えにしながら、日本のルールにうまくのってもいいのでは、と思った。
人生の意味は、よりよく生きることで。
頑なに信仰にこだわって神様に義理立てすることになんの意味があるのか分からない。
そう思いながら、同じようにホロコーストで死んでいった人たちの信仰が分からなかったことと同じなのかと思った。
なんのために生きるんだろう、信仰ってなんだろう?と何度も思わせられた。
クリスチャンの人にどう思うのか聞きたい。
寛容こそ美徳
潰された傍流。
うれしい!たのしい!大好き!的要素は全くない、棄教しないと殺される状況での信仰についての映画である。
酷すぎるキリシタン迫害を見せ付けられ、やがて棄教を選んだロドリゴの苦悩が描かれた。
ロドリゴは棄教したが、その中で神を見出した。そして、その事を死ぬまで沈黙したという筋である。
私はクリスチャンではないが、キリシタンたちと司祭たちの苦しみに寄り添って見た。
同時に井上や通辞にも。
重層的で、とてもよかった。
日本人のキャストはうれしかっただろうな、ということも常に思っていた。
スコセッシの現場に行きたいと思うよね、よかったね、と思った。
片桐はいりが面白かった。AKIRAや伊佐山ひろ子はどこに出ていたかわからなかった。
加瀬亮にはっきりとしたせりふがなくて(青木氏と立ち話するのみ)、ちょっとさみしく思ったが、リアルな生首だった。
誰かの正義は、おおよそ誰かの悪だと思う。
キリスト教を未開の地に布教せんとするは、ヨーロッパの正義だが、侵食されんとする側にとっては、脅威でしかない場合もある。
政教一致であった時代、布教は侵略と等しい。
おのれが信じる正しさが、誰にとっても正しく、その道を解くことは、望まれるべき事だと考えるのは、傲慢だ。
『沈黙』を見ようが見まいが、この点は私の変えられない意見だ。
ロドリゴとガルペの矜持を、そんな風に思いながら、映画を見た。
キリシタンたちがパードレを欲していたことも、よく分かるし、迫害は酷く、ここまでしなくたっていいじゃないかと思った。
根絶やしにしなくても、表向きは禁止で、こっそり信仰させておく懐の深さはないんかいと。
迫害された結果、日本は独自文化を存続させられた。
大勢のキリシタンの死の上にある。
キリシタンに限らず、主流を揺るがしかねない傍流は、潰される。
そうしなくては主流が主流でなくなるから。
その思想には賛同しないけれど、その結果を生きているわたしに批判する権利はないように思う。
とはいえ潰された傍流の心の中から消えなかった信仰が、美しく崇高なものに見えた。
深い。
信仰が無いので
共同体の権威と個人の信仰、そして不条理
誰もが学校の歴史の時間に習ったことを復習してみる。
原始時代、例えば大型の動物を捕獲するとき、ひとりで捕獲するよりも複数の人間が役割を分担して捕獲した方がより捕獲できる確率が高くなるし、かかる時間も短縮される。つまり効率的だ。または植物を栽培するときも、ひとりで全部の作業を行うよりも、複数の人間で協力して行なった方が効率的である。
狩猟、採集も、植物の栽培も、収獲または収穫は、日照や雨、風などの自然条件に左右される。自然条件がどうなるかを予見したり、有利になるように祈ったのがシャーマンで、シャーマンは原始共同体の指導的立場となった。
文明が発達した大河川の流域では、土地が肥沃で植物がよく生育する半面、川の氾濫で作物を喪失する危険性もあった。治水しようにも川は巨大で、ひとりではどうにもならない。しかし大勢の人間が協力して治水をすれば、安定した収穫を得ることができる。そこで原始共同体が誕生する。しかし大勢の共同作業となると、計画や指示命令系統の確立が必要だ。各個人が勝手に行動し、互いに指示命令しあって誰も服従しなければ、共同作業は成立しない。つまり共同体も成立しなくなる。そこで必要になるのが、人々を服従させるための権威だ。最初は、最も暴力的に優れている者が個人として権威を持つことになる。暴力によって苦痛を与えられるとわかれば、それを避けるために腕力の強い者に従うようになるからだ。しかしそれは長続きしない。個人の暴力は時間的空間的に限界がある。ひとりで毎日24時間闘いつづけることはできないし、遠くの敵とも闘えない。寝ているところを襲われたら終りだ。そこで、複数の人間を束ねて暴力装置とすることができる人間が権威を獲得することになる。組織し、命令系統を確立すれば、多くの人間を服従させることができる。24時間交代制の護衛を置けば、寝首を掻かれることもない。それが王のはじまりだ。
次の段階では、あちこちに成立した共同体同士の利害対立がはじまる。それは共同体を支配する権威同士の対立でもある。権威というものは暴力装置に担保された共同的な幻想であるから、他の権威に暴力的に打ち負かされると消失してしまう。日本や中国の戦国時代の歴史を見れば、弱小の共同体の権威が強大な共同体の権威によって消失、または服従することを繰り返している。共同体の支配者の権威はどこまでも相対的な価値観なのだ。
そこで共同体の支配者たちは絶対的な価値観によりどころを求めることになる。神話だ。神話に於ける権威と、共同体の権威を一致させることで、共同幻想の相対性を弱めることが目的だ。歴代の武将が天皇制を利用したのはこの構図である。
一方、共同体の内側では、支配する階級と支配される階級が世襲的に固定化された格差として存在するようになる。格差社会はいまに始まったことではなく、大昔の共同体の成立時から構造的に発生したものなのだ。支配される側には服従するだけの人生しかなく、何の救いもない。救いがなければ自殺や強盗が多発して共同体が崩壊することになる。そこで共同体内部にも神話を登場させ、絶対的な価値観を説いて現実の共同幻想を相対化しようとする。共同体のルールへの服従と勤勉を説くことで共同体の生産性が維持できるのだ。個人と共同体の対立構造よりも、個人と絶対神との関係、つまり信仰に重きを置くことで、人生に救いが生じる。イスラム教やキリスト教はこの類である。
仏教は成立したのがずっと前だけあって、宗教というよりは哲学に通じるものがあり、価値観の相対化と人間精神の構造を説く。現世は存在しているようで存在していない、存在していないものが実は存在するという、禅宗にも通じるような印象の教義が般若心経に書かれている。仏教は信仰ではなく悟りによってではあるが、やはり他の宗教と同様に、現世での不安と恐怖と苦痛から人々を解放しようとする。
次の段階では、国家や都市が成立し、その中で組織が細分化され、それぞれに権威が与えられる。被支配階級からも起業するものが現われて企業や暴力団を組織し、やはりそこに権威が生ずる。宗教の指導者の権威も徐々に強くなっていく。
現代日本の身近な生活を振り返っても、年長者、先輩、上司、会社、自治体や国の政治家、得意客など、頭を下げなければならない人間が山ほどいる。必ずしも相手を尊敬しているから頭を下げる訳ではない。相手に権威が与えられているから頭を下げるのだ。
つまり人間の生活は大小強弱さまざまな権威に支配されつづける生活なのだ。しかもすべての権威は相対的で、いつ失墜しても不思議ではない。絶対的と思っていた筈の信仰に於ける権威も、実は歴史の関係性の中で生み出された相対的なものなのだ。神という権威はどこまでも人間が生み出したひとつの観念である。
さて、そういった複雑極まりない価値観の変遷を踏まえた上でのこの映画である。絶対神を奉ずるキリスト教の価値観は、自力本願を旨とする武家の仏教と相容れない。日本の支配階級の役人たちは、キリスト教の権威が武家の権威を脅かすと考えたのだ。
登場する人々はどの立場にあっても不安と恐怖に苛まれている。弾圧する側もされる側も、例外なく権威という相対的な幻想に蹂躙されているのだ。
多くの人々は、そのことを理解している。にもかかわらず、子供を生み、同じく不安と恐怖と苦痛に塗れた人生を繰り返す。歴史は不条理であり、人間の存在も不条理だ。
これほど不条理を実感させる映画は滅多にない。最初から最後まで登場人物は全員不条理に曝されている。観客はその重苦しさに窒息しそうになるが、人々の不条理に抗う姿を見続けずにはいられない。殉教は必ずしも肯定されるべき行為ではなく、踏み絵を踏むのも必ずしも責められるべき行為ではない。それは禅の考え方に通じる、相対的な価値観である。
役者は皆、達者な演技をしている。しかしそれはこの映画に限っては、強ち特筆すべきことではない。人間は日常的に不条理の中で生きている。
役者たちに不条理に抗いながら生きている演技をさせた監督の演出は評価に値する。不条理を言葉でいうのは簡単だが、演技指導として不条理を前提にするのは困難極まる。ロバート・デ・ニーロにタクシードライバーを演じさせた監督の面目躍如である。
見終わっても重苦しさが消えないのは、映画が齎す不条理の量が圧倒的だからだ。それは歴史の一時点の不条理ではなく、時の流れに少しも衰えることなく、いまに至るまで人間を苦しめ続けている。映画を観終わると、あたかも断崖絶壁に立たされた人間が目隠しを解かれたように、自分がどうしようもない不条理の現実に生きていることに気づかされる。立ち竦まずにいられる人間は、ひとりもいない。
ちいさな宗教戦争
妥協が見える自己満
内容ではなく、映画として。
日本の農民はキリスト教徒であれば
誰でも英語を話せるということ、
武士も役人は当然、
下々の牢番まで英語を話せること。
これでは浅野忠信の通訳は不必要。
異国の中でしっかり英語を話せる通訳だからこそ、
心を通じる(かは分からないけど)
という大事なポジションなのでは?
そしてそもそもはポルトガル語なのでは?
この言語の描写をスルーしてレビューすることは
この映画に関してはとてもできません。
違和感持たないですか?
結局、マーティンスコセッシはハリウッド目線の映画を作ったこと。
あそこまで日本の小説で日本を舞台にし、
宗教のそれを描くのであれば、
そこは妥協すべきではないところと思う。
浅野忠信もイッセー緒方も良くなかった。
窪塚洋介のくすんだ目と、
人間らしすぎる卑屈さは良かった。
「考えさせられる」
それはその言葉を発することで満足しているだけ。
原作を読もうと思う。
原作イメージ守っている
つまらない
全417件中、221~240件目を表示