沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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すごくよかった
イッセー尾形が高圧的でなく、話せば分かる人でけっこう譲歩してくれているところが余計に主人公を追い詰める感じがすごくいい。キリスト教に不理解でなく、理解したうえで提示していて、むしろ主人公のほうが頑なで、よくない感じがする。
窪塚洋介のしょぼい感じがすごくよかった。そんな彼と腐れ縁で死ぬまで付き合いがあることに感銘を受けた。人付き合いをしていると失望することがあるのだが、それでも付き合い続けることの尊さが胸に沁みた。
見る前は不安だったけど変な日本描写がまったくなかった。
信仰にはまるで興味がないのであるが、もし自分が信心深かったらもっといろいろと面白かったのかなと思った。
1回目はすごく眠くて眠気を我慢して見ていたら頭痛がしてその後寝込んだ。2回目は体調を万全に整えて見たのだが、それでもちょっとウトウトした。それでもすごくクオリティの高い作品であることは分かったし、かつ面白かった。
理想的な日米合作
江戸時代初期、キリスト教の布教を目的とし日本の長崎にて司祭として使命を果たしていたフェレイラ神父が棄教したとの報せを受けた2人の弟子がその真意を確かめようと日本に渡った様子を描いた歴史大作。
観る前に原作を読んでみたが非常に重い内容だった。
そしていざ観てみると割と忠実にそれが再現されていた。
字面から想像していた映像が実際に俳優の表情や演出をもってより生々しくリアルに描かれていた。
演出といってもBGMは静かな波音以外ほぼなし。それが余計に処罰の生々しさを引き立てて、穴吊や磔のシーンなんて眼を背けてしまうほどの表現だった。
表現はもちろん凄まじかったが眼を見張るのが配役。巨匠スコセッシの映画にしてこんなにも日本人俳優が。
主要キャストはさすがにハリウッド俳優だが準主役陣やチョイ役陣も日本人俳優が至る所に出演していた。
ハリウッド常連浅野忠信、いよいよ本格ハリウッドデビューか窪塚洋介、この作品の一つ前の出演作が僕明日だというとんでもないギャップの小松菜奈笑、そしてどこに出ていたEXILE AKIRAと全員が壮絶な演技を披露。
舞台が日本なだけに彼らの存在に違和感があるわけもなく、むしろあの風景に馴染んでたアンドリューガーフィールドやアダムドライバーの方が凄いわけだが日米合作としては稀に見る理想的なバランスで成り立っている。
去年の作品、スポットライトのときも思ったが自分は信仰がないため、絶対的な存在がない。ましてや姿形が見えないような存在のために命をかける、会ったことも見たこともない存在を描いた絵すら踏むことすら断固としてしない、人間の気持ちがわからない。
それをこの作品は描いている。容赦ない描写で。
教科書1ページで済まされてしまうような出来事を2時間半強に詰めリアルに描いた傑作。
タイミング的にも内容的にも監督本人的にもアカデミーを狙った会心の出来のはずが、撮影賞にしかノミネートされなかった。
アカデミーは癖があって相変わらず読めない。テーマが重すぎたのだろうか。残念。
大事なのは神か、人間か
迫り来る死に怯えながらも信仰を曲げない者たちと、その運命を見守るだけの自分
そこに追い打ちをかける、人を食ったような為政者たちの国を守る者としての正論と情け
一方、迷える私には何もお示しくださらない神
あらわになる自分と宗教の抱えていた矛盾、無能さ
それでもなお、人は神にすがらねばならないのか?
いろいろなジレンマ
私はあそこまで窮してはいない
ってことは、まだやれるってことですね
使命
もしくは啓示。
まるで、そんなものでもあったのかと思うように鬼気迫るものがあった。
マーティンスコセッシが、この沈黙を撮ったのは必然なのではないだろうか?
正直、評論の外にあるようにも思う。
原作を読んではいないので、この作品が作者・遠藤周作の意図をどれほど反映してるのかは分からず…この映画の評論をするなら、まずそこから語らねばと思う程だ。
作者がキリスト教に心酔していたのか、それとも忌み嫌っていたのかでも作品意図は変わってくる。
「心の中は"主"にしか分からない」
この一文が、深く突き刺さる。
彼の亡骸と共に葬られた十字架…原作もその通りなのか確かめてみたいところだ。
作品のテーマは実に繊細で、そのおかげで戦争まで起こってしまう程の問題だ。
ただ、この原作をマーティンスコセッシが映像化するにあたり、監督は一つの明確な選択をしたかのように思う。
「人は惨めな生き物なのである。」
衣装も個性も、社会も。今も未来も。
人は、悩み、争い、貶め合い、殺しあう。
その連鎖から抜け出す唯一の方法として"宗教"が推奨されたりする。
だが人間はそれすらも争いの種にする、困った性質を持っている。
つまりはこの連鎖から抜け出す最善の方法は未だ発見されておらず、人類は全くもって救われないのである。
人は元来、産まれてから死ぬまで救済を常に必要とする愚かで惨めな生き物である。
そういう選択を映像化するにあたりしたように思う。
作品は、重厚な作りになってた。
文字である原作を出来る限り再現するというような熱意を感じた。
それにしても…日本の役者の存在感!
いや、存在の仕方とでもいうべきか…見事だ。勿論、そういう外観をメークなり衣装なりから与えられてはいるのだが、実に普通だった。まるで、その世界に生きていたかのようであった。
加瀬さんの気負いのなさ!
あれ普通の人だよ、全く他意なく生きてる人のそれだよ。
小松菜奈に妙な色気を出してる宣教師をぶっ飛ばそうかと思ったよ。
その中でも…片桐はいりさんの怪演たるや。
いや、怪演は失礼だな…きっと片桐さんはアレが通常運転なのだ。
俺は、笑ったのである。
あの作品の中で、唯一と言ってもいい。
明確に笑った。
アレを意図して採用したというのであれば、マーティンスコセッシの懐の深さに感動すら覚える。
確かナレーションが被ってたと思う。音のフォーカスもそこにはなかったし、台本に明記されてるような文脈でもなかった。本国では英語のテロップなんかは絶対つかないんじゃないかと思う。
つまりは、他にもあっただろう?と。
なぜアレを選んで残したのかと!
厳格な歴史の伝道者とも評価できる作品で!
…恐るべし、マーティンスコセッシ!!
また、あの現場でアレをぶち込んだ度胸の良さというか…信念というか…敬服する。
ブレない。
片桐さんの魂を見たような気がした。
そして、イッセー尾形さんのあの声。
どうにも真意が掴めない。
汲み取れない。
こいつはどっち側なんだ?
あの普段とは違う高い声…いや、そういう差も日本人なら感じるんだけど、そうじゃなくても腹から出してないと、そう印象付ける声。初めは違和感バリバリだったけど、物語への関わり方を追っていくうちに…いや、正直、観終わってコレを書いている最中に、あの声だったからこそ、あの明確でありながらアヤフヤな立ち位置でいられたのではないかと考えたりする。
なんと狡猾な…その役者としてのスタンスに戦慄する。この人の役作りは声にまで及ぶのかと…。
最早ここまでになると、役作りというよりは、観客へのアプローチとか、演出への挑戦とか…そんな域にまで踏み込んでるのかとさえ思う。何より、それを役者という足場から発信している事に戦慄する。
浅野さんは凄く英語が達者になってたなあ。
そして、この作品にはBGMの印象がない。
スタッフロールのバックには波の音が流れてた。
その波の…幾度となく繰り返す波の音に、この作品のテーマを感じたりもした。
観終わった後、下りのエスカレーターで「後世に残したい10本の映画の一本に入るな…」となんとなく考えてた。
そして、新宿ピカデリーのロビーでなんのキャンペーンかは知らないが「つっこみ如来」と名付けられてた像を見て、日本人の信仰はどこに向かったのかと笑いが込み上げてきた。
監督も突っ込まずにはおれんやろ…と。
スコセッジ監督にやられっぱなし
高校時代にスコッセッジ監督のタクシードライバーに感動してからのファンです。やはりその物語の再現性、ドラマティックな躍動感、タクシードライバーでは社会の矛盾に生きる人間の無力さを描き、この映画でも人間の自己矛盾の弱さ、それが故に神にすがる姿を見事に描ききった感動作です。
往々にしてこうした欧米の映画では、日本も含めたアジア人を滑稽に描きがちですが、この映画では当時の幕府の事情や、日本の仏教感についても好意的に描かれ好感が持てます。
それにしても殉教を尊いものとされる西洋の種々の宗教に対してどうにも共感できません。多くの宗教対立が現在もテロとなって世の中を脅かしていることをどう理解すれば良いのでしょうか?「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」の親鸞の教えの通り、自分も阿弥陀仏が掬い取ってくれることを望みます。
フェアな描写が生む説得力
日本人でもなく、キリスト教信者でもない人が見ても耐えうる細かでフェアな描写が、文化と文化の対立と軋轢を生々しく浮き立たせる一本。また二時間半の長丁場を、全くもって疲れさせず感じさせない物語の運びと映像の美しさ、一転してドライな残酷さが、たとえ宗教に興味がなくとも生きた人間の葛藤を十分に味あわせてくれる作品と見る。
さて、誰の言い分にも理不尽さはなく、ないからこそ相容れない時、試されるのはおそらく背負ってきた文脈ではなく個人の判断だろう。ただその責任を負いきれない時、判断を授けた相手を「神」と呼んで、許しを請うのだと感じた。
原作と共に浸ればなお、普遍的探究に旅立てるとおすすめしたい。
疑問は解けないまま…
人々を豊かにするはずの「信仰」が苦しみを生んでいく。苦しみから逃れるために信仰し、信仰したことで苦しみ、小松菜奈さんはパライソに行けたのだろうか?最大の疑問、何故そこまで自分たちの信仰に真理があると考えるのか?については解けないままでした。
信仰は人が身勝手に持つのではなく神から与えられるもの
信仰を与えられた人々の沈黙する姿が示すように、人々には苦しみや悲しみの前で沈黙しているように思えるときも、神はいつも共にいてくださる。
そういえば初めて小説の「沈黙」を読んだのは中学生のころで、その頃はクリスチャンではなかったので今日の映画鑑賞後の感想とはまったく違うことを読後に考えていたのを思い出しました。当時、夏休みの読書感想文の宿題に提出したほどなのでインパクトは大きかったのでしょうが。
大人になった今この映画を観ることができて嬉しいです。
クリスチャン同士で分かり合ってるような映画
原作を読んでから映画鑑賞。
ちなみに自分は母親がクリスチャンだった(洗礼も受けたが後に棄教)ため、少年時代に教会には10年近く通ったが、現在は無神論者。
そういう立場での鑑賞。
このテーマ、原作者の遠藤周作がクリスチャンで監督のスコセッシも当然クリスチャンということで、何やらクリスチャン同士で分かり合ってるようなムードがある。
例えば、原作ではロドリゴはラストで「棄教はしたが自分の信仰は揺らいでいない」と独白するが、映画ではそれを視覚的に見せる、と言った具合。他にも原作ではなかったセリフなども多々あるが、ほぼ原作を補強するような内容になっている。
なので無神論者、特にキリスト教に一度は触れて、そこに欺瞞を感じた者の疑問に応えるようなものは見せてはくれず(応える義理もないのだろうが)、むしろ「欺瞞の核」を見た思い。
ロドリゴもキチジローも遠藤もスコセッシも、真摯で善良な人間であることは疑えないし、ロドリゴの辿り着いた境地を否定する気もない。
作中人物では井上に最も共感(というより同調)したが、井上も多分同じだったと思う。
うーん。
宗教に対する思い入れが、わからないので全く共感できなかった。その為に命を差し出すとか、家族を犠牲にするとかわからない。
まず、大切なのは、人の命で、その人が生きる為に必要なものが、信じる者であるのに、その優劣が違う気がして、終始、うーんって感じで、しかも長い・・最後はもう、見てるのが辛かった。あと、牧師さん?の一人がカイロ・レンだったから、なんか余計に入り込めなかった。笑
一回観た位じゃなんも言えん!
救いの先に信仰があるのか
信仰の先に救いがあるのか
とにかく何やら言葉で形容しがたい何かが心を占領しました。
原作を昨年読みましたが、
テンポの良い脚色にスコセッシ節を感じました。
面白かった!
「沈黙」を鑑賞して
遠藤周作原作の小説を映画化した「沈黙」という作品を見に行った。監督はマーティン・スコセッシ氏。キリスト者としては、1988年に公開された「最後の誘惑」という映画の監督としても記憶に刻まれる人物だ。「最後の誘惑」において描かれるイエス・キリスト像が、聖書の記述に相入れないものであったので、当時、おびただしいキリスト教会団体が、この映画の上映反対運動を起こしたぐらいであった。ただ、私としては「ディパーテッド」や「シャッターアイランド」など、人間社会の暗部を忌憚なく描き、また人間の生を理想化、安易化しないであからさまに赤裸々と描く氏の手法には脱帽はさせられる。
「最後の沈黙」は、主人公を中心とした各登場人物の苦悩に沈黙を守られる神が、主人公に沈黙の中で語られる有様を描く。時代は江戸時代17世紀の中期、鎖国体制が完成し、織田信長の時代に始まるポルトガル・スペインを中心とする(主にイエズス会が主体となって進めていった)キリスト教布教を経て、日本全国にキリシタンが増え広がっていたが、秀吉から家康、家光に至って、キリシタンおよびキリスト教宣教師に対する激しい弾圧起こり、多くのキリシタン、そして宣教師が殉教した、日本史にとっては稀有な時代である。日本人は「宗教に寛容である」というが、当時のキリシタン弾圧は寺院も絡んでいて、そうした主張は世界の国々と比べれば「民族問題」が比較的僅少である環境に依存しているにすぎない。「異分子を排除する」という性質こそ、今も昔も変わらない日本人の遺伝子である、と言えよう。
この映画の主題は、上記のように、人間が心身ともに苦悩する時に直面する「神の沈黙」であり、また、主人公のように、自らの命ではなく、他者のいのちが天秤にかけられた時に、私たちはどのように決意し、行動を選択していけばよいのか、ということにある。「沈黙」における主人公は、結局、権力側の拷問を受けるキリシタンたちの命を救うために、「外面的に」信仰を捨てる、という選択をする。すなわち、イエス・キリストの像が刻まれた「踏絵」を踏む、ということだ。
この主人公の精神は高邁ではあって、人間の多くは、まずは「自らの命」の保身のために動くのが普通だ。しかし、他者のために命を捨てる決意のある、利他的な人間が、他者を盾にされた時、そして、いわば、「神」を捨てれば他者の命は助かる、という状況に立たされた時、どのようにその危機に立ち向かえばよいのか。
そもそも、「踏絵」自体は神でも何でもないのだから、「踏絵」を踏みつつ内的に信仰を保持していく、という選択は可能性としては成り立つ。また、権力側も一枚岩ではなく、単に上からのキリシタン弾圧命令に服しているだけで、キリシタンに対する処罰自体は後味が悪いため快しとはしない(一部のサディストでなければ、こうした心境の役人も多かったであろう)人物も多数いたと思われ、こうした人たちは、できれば、表面的にでもキリシタンたちに「棄教」してほしい、と思いつつ、弾圧の任務に就いていたのかもしれない。
私たちキリスト者は、この映画が提示する問題に、どのように応答していけばよいのであろうか。それは、キリスト者それぞれに回答があるであろう。まさに、この主人公が苦悩のあてに至った信仰は、カトリック信者であった原作者遠藤周作の至ったそれであり、また、恐らく、スコセッシ氏自体の信仰表明でもあろう。
使徒たちの直接の教えを重んじるプロテスタント信者である私としては、この映画で描かれている、信者が司祭に依存するカトリックの信仰自体にも大きな問題は感じるものの(信者は、イエス・キリストだけが仲介者である、と聖書、使徒が明言している)、それは良いとして、やはり、この映画で描かれる人間の苦悩には共感できるものの、「信仰」に対する取扱いに対しては、はっきりと「否」を突き付けざるを得ない。私のような「平和ぼけ」した、生ぬるい、卑小なキリスト者が、殉教に関して物申すことは、僭越のようにも思える。それでもなお、このことは声を大にして主張したい。
聖書で証する、キリスト者の価値観は、まず、地上のいのちではなく、天のいのちこそ、重要なものである、とする。無論、人間はこの地上で生きていく肉体を持ち、この世の生自体も神が造られたものであるゆえ、非常に尊いものではある。そして、ほとんどのキリスト者は天のいのちを味わい切れずにこの世の生を過ごし、この世の生に重心を置いた生活を営み傾向にある。地上の生は天の生に準ずるものであることを、「信仰」によって実生活に体現することなど、人間業では不可能である。だから、イエス・キリストは「助け主」聖霊を遣わしてくださるのだ。
もし、天のいのちが空想の産物であって、そこに望みを置くことが空しい営みであるとすれば、イエス・キリストのよみがえり(イエスのよみがえりは信者の「初穂」としてのよみがえりである、と使徒は教えている)もでたらめであって、それこそ、キリスト教の土台が崩れ去ることになる。
私は何が言いたいのであろうか?すなわち、私であろうと、他者であろうと、地上のいのちの危機に際して、天のいのちに対する望みを無であるかのように宣言する信仰というものは、神に栄光を帰すこととはならないであろう、ということだ。イエス・キリストは、「愛する者のためにいのちを捨てる、これほど大きな愛はない。」と言われたが、これはご自身の愛を言われたことでもある。そして、その愛とは、「地上のいのち」を救うためではなく、むしろ、「霊的ないのち」(神につながり、神が約束された天的希望を目では見ずとも信仰によって喜んで生きていく力)を救うためであった、ということを明確に付言しておこう。この意味で、この映画の主人公がとった行動は、少なくともイエス・キリストに関わる愛であるとは、私には思えない。彼は「宣教師」であって、「教師」は神から格別きびしいさばきを受けることとなる。そのさばきとは、何に対する責任であるのか?「神のことば」を、羊(信者)に正しくまっすぐに伝えているか、ということだ。
真の「信仰」は、強さの内にではなく、「弱さ」の内に宿る。「信仰」が弱いのではなく、真の「信仰」が発揮できないとすれば、実際はその人は「強い」からであろう。つまり、いかなる手ではあれ、神のみ力に信頼し、より頼むことなくして、危機を脱することができる、という「強さ」だ。「信仰」とは、生きた現実における個々人の魂の神に対する応答、決意であるから、「踏絵」をすること自体が「不信仰」とは言えない事態もあるかもしれないが、いずれにしろ、それが「信仰」に基づいていなかったならば、それは「罪」である(と聖書は明言する)。イエスは、「からし種のような(きわめてちっぽけな信心で)信仰」があったら、(巨大な)桑の木に命じただけでそれが海に移る、と明言した。その意味で、この映画が描く「信仰的な弱者」というものは、霊的な面での洞察に欠けている。イエスに従う道は、この自我の強さを取り扱っていただく道なのである、彼の愛弟子ペテロが主によって取り扱っていただいたように。
この「沈黙」という映画は、生まれながらの人間の心理的葛藤を描いた映画としては、なかなか秀逸な作品と言えるかもしれないし、考えさせられる作品ではあるが、信仰者としては決して模範としてはならない道を示している、と私は申し上げたい。「信仰」の種が芽生え、成長することこそが、霊的ないのちへの道であるとしたならば、主人公の宣教師は、その神の御心(イエスは、「父なる神のみこころは、子(イエス)を見て信じる者が永遠のいのちを持つことだ。」と言われた)に仰向いているように思える。そして、彼が聞いた「イエスの声」とは、自らの罪悪感を掻き消すための「地上的な」内なる自分のつぶやきであった、ということだ。
はっきり言えることは、使徒たちはいかなる危機的な、そして苦渋に満ちた状況においても、信仰を外に明言して殉教していった、ということだ、天にある「神の国」の希望を宣言して。そして、使徒たちが生きたローマ帝国の時代は、あるいは、江戸時代下のキリシタンよりも過酷と言えるかもしれない。私自身は、神の憐れみと御力に寄りすがりつつ、使徒たちの信仰にこそ習いたいと思う。
「沈黙」という映画は、キリスト者の真実の信仰を描いたものではない、と私は考えている。これは、むしろ、「キリスト教ヒューマニズム」の映画だ。しかし、真のキリスト教は、「ヒューマニズム」ならず「ゴッディズム」なのだ。
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(聖書)
宗教と信仰
キリスト教という宗教の欺瞞を洗脳的に見せながら、信仰自体は自らの心の中に見いだすものだということを上手く描いてると思う。
キリスト教は日本人の宗教観とは相容れないけど、それすら自分たちの好みに変容させる民衆を幕府は恐れ間違ってるとしたんではないかなあ。
ロドリゴやフェレイラの棄教はそこに気がついたからだと信じたい。沈黙する神に真理を見いだすのはまさに仏教で言うところの悟りではないかと。
それは決してキリスト教を否定してるわけではないと思う。
何を信じるのかという見た目の表現が違うだけで、信仰とは個人の心の中にあるものであり、それは宗教とは違うものではないかと強く思った。
あくまで、アメリカ人から観た遠藤周作『沈黙』。
ロドリゴ役の心の葛藤がよかった。フェレイラに対する態度も、じつにその時々の感情が出ていた。
贅沢なほど日本人俳優を端役で使う豪華さ。映像もよし。二時間半をを越す長さも感じなかった。
だけど、やはりどこか物足りない。
一つには、たとえ井上が元キリシタンであったとしても、あそこまでしゃべれるものか?(しかも、米映画という都合上、ポルトガル語じゃなくて英語なのが余計悩ませる)
また、武士はあんなに笑ったりしないということ。特に井上は、原作でも表情がないとなっているくらい、読めないはずなのだ。(にこやかでいいのは通辞くらいのはずで、それがあとで叱責のシーンで活きるのだが)
キチジローの、物語からの去り方も解せない。
ロドリゴの最期も、「心から棄教はしなかった」と言いたいのだろうが、それは「匂わすもの」で、十字架を見せて観客にネタバレしてはいけないと思うのだがどうか。そここそ監督は”沈黙”し(せめて何かを握っているような拳であるとか)、観客自身をロドリゴの悩んだ自問と同じような心理に誘うほうが、効果的だったのでは。
深い、ただ深い
信仰とは?宗教とは何モノか?
ひたすら自分に問いかけてしまう
今は原作の遠藤周作の「沈黙」を読んでいる
キリシタン弾圧、宣教師はなぜそれでも日本へ布教しに来たのか?先日天正遣欧少年使節団についてのテレビ番組を見たがイエズス会の宣教師も悪事を働いていたようだが... さすがはスコセッシ監督の作品
堪能した 音楽のない、ただ自然の音を使う
深いのです
信仰
宗教について信仰心も大した知識も無いので、宣教師側から見た日本は思想の弾圧だし日本側から見た宣教師は危険で傲慢な思想の侵略だしで何が正しいのかはよく判らないや。
でもこれだけ長くて重い内容なのに気持ちが切れずに引き込まれ続けるのは1本の映画として凄いなと。
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