「170130映画『沈黙(スコセッシ版)』感想」沈黙 サイレンス 水玉飴さんの映画レビュー(感想・評価)
170130映画『沈黙(スコセッシ版)』感想
上映時間161分は全く長く感じなかった。むしろ短いと感じるほど、終盤のロドリゴの日常生活や、当時の日本の仏教以外の宗教文化を思わせる習俗、情景などへの描写が、もっと盛り込まれていて欲しかったとわがままを言い出したくなるくらいに、鑑賞直後の私の高揚と充実感とは並々ならぬものだった。
クライマックスでロドリゴがフェレイラの「彼らを救えるのはお前(の転び)だけだ(※うろ覚え)」に対して「それは悪魔の囁きだ、失せろ(※うろ覚え)」と遮り、極限の苦悩に耐えつつ辛うじて自らの信念を繋いだかのようにみえた直後で彼に聴こえた「私は只黙っていたのではなく、常にお前の苦しみと共にあり続けてきたのだ。踏みなさい(※うろ覚え)」という神の声が、はたして先に彼によって語られた筈の悪魔の巧妙な誘惑の囁き、そそのかしではないと断定できる如何なる要素も、この映画では発見できないのではないか。スコセッシ作品群の脈々たる作風に、善悪、善意と悪意、良識と狂気、聖職とマフィア、パンと愛、…等の対抗軸、既存の判断基準への手加減無き批判精神というのがあって、これは何も革新左翼的で浅薄なロック精神だとか反権力精神だとかでは決してなく、そもそもの古典的教養、良識、知性に裏打ちされた伝統保守的な精神から、浅薄な似非ヒューマニズムが作り出し、国際社会的規模の純粋無垢故に無頓着過ぎる群衆の良心をたぶらかしミスリードし続けてきた、正に罪深き、人間の死生観における伝統性故の多様性への侮辱としてのグローバリズムを弾劾する、こういった意味での反骨精神と、私は理解している。スコセッシがグローバリズムを意識的に批判していることは、前作の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でほぼ明白だろうと思うが故に、今作の映画『沈黙(スコセッシ版)』にも彼の反グローバリズムとしての多元主義的な国際共存社会秩序を標榜する思想的ビジョンが貫かれているだろうとする私の推測は、しかし必ずしも無根拠な飛躍ではない。つまり映画『沈黙(スコセッシ版)』では、そもそも人間の苦悩を救済するのは、「沈黙と、沈黙から現実逃避して捻り出された欺瞞としての神からのお告げと」の、はたしていずれなのか?或いは、「それは神のお告げだったのか、それとも悪魔のそそのかしだったのか?」、「信仰の勝利だったのか、それとも自己欺瞞による背信、敗北だったのか?」、いや待て、そもそもキリスト者の信仰における本質とは、それらのこれまで散々使い古されてきた対抗軸を、そもそものイエス・キリストその人が述べた筈の神の愛、許し、救済の精神まで遡るといったいわゆる伝統保守的な視野にまで立ち返った時に潔く捨て去って、「神の愛、許し、救済に優先され得る如何なる信仰も布教も宗教的組織活動も無いのであって、これはたとえキリスト者的なそれらについても決して例外ではないし、このような本質的な判断基準には、神か悪魔か、善か悪か、信仰か背信か、…等を逡巡する精神的な手続きは、この限りにおいては無駄と言う他無い。答えは既にイエス・キリストの述べられたところで与えられていたのだから」と、この反グローバリズムとの整合性も保有していて当然の相互尊重(愛)の精神にまで立ち返るべきところのものだったのではないか、といったかたちで、その似非ヒューマニズムへの反骨精神が貫徹されていたと、私は解釈しているわけだ。
私の記憶が確かなら、映画『沈黙(スコセッシ版)』には劇伴の一切が聴こえてこなかった。江戸初期の日本における隠れキリシタンの歴史を全くノーリスクな鑑賞者の立場、これはあたかも神の立場そのものから傍観させる際に、制作者の意図による過剰な鑑賞者の情感、感傷の誘導を抑制するといった意味での劇伴演出の抑制、などと私には思えたのであり、これは正に制作者たるスコセッシから鑑賞者への「沈黙」に被せたパフォーマンスの一種とも取れるし、或いは天地創造主たる森羅万象の制作者が自身以上の他の頂点的な存在を見出しようも無い孤高の立場における「沈黙」的な状況に鑑賞者の無意識的な感情移入を誘導するための、スコセッシによる手の込んだ演出だったのか、まぁこれら全てを含める以上の様々な意味合いによる完成度を極めた芸当の一側面であったには違いない。この点に関して、私は素直に素晴らしいと思っている。
鑑賞後、スコセッシの『最後の誘惑』と『沈黙』とを比較して一考した。少なくとも、映画『沈黙(スコセッシ版)』においては、「これまでにない信仰をもって、神の愛に報いるのだ(※うろ覚え)」に象徴されるように、組織化される以前のイエス・キリストの精神の本質に立ち返ったが故の「これまでにない信仰」、或いはそれまでにはなかった形式上(といっても不法入国及び禁教の布教の咎で、この見せしめの意味から生涯出国を許されず監視下で拘束され続ける永い時間の振る舞いの一切において)の信仰の敗北という比類無き十字架をロドリゴは「沈黙」の内に、派手さも無く、地味に、惨めに、背負い続けた後に、スコセッシ独自の解釈によるあぁいったかたちでこの生涯を全うしたという部分だけ見ても、勿論『最後の誘惑』には福音を集成したところからヒントを得た原作小説を元に制作した分の相応の深みはあったものの、愛を極めた超人イエス・キリストの派手な伝承と、これに続こうともがく一信仰者ロドリゴの地味な物語との比較という意味においては、より後者が、決して超人足り得ない鑑賞者としての信仰者、或いはその他大勢的な一般的鑑賞者の人の感覚に対して、切実さを増して迫ってくるものなのだろうと、他でもない私の鑑賞がそういった臨場感で絶え間なく終始したところから、思わされている。ここまでくると私にとって『最後の誘惑』や『ミッション』は最早娯楽映画の範疇であり、映画『沈黙(スコセッシ版)』はここと一線を画した思想哲学映画と呼びたくもなる位置付けとなる。ここまで思想哲学的要素の色濃い映画を、私は他に知らないといった意味である。従って、私は映画『沈黙(スコセッシ版)』を娯楽映画としては好評できない。しかし、映画が娯楽映画に留まらない可能性を秘めた精神媒体だと解釈することがどの加減まで許されるのかにも依るが、私はもうこの際、映画として云々はどうでもいいところで、映画『沈黙(スコセッシ版)』が『最後の誘惑』や『ミッション』以上に大好きだとだけ書き残しておきたい。その、多元的国際共栄秩序の要足れよう相互尊重の精神と深く真っ向から向き合ったスコセッシの、遠藤周作の原作との出会い以来約30年の積み重ねの結晶から受ける、より突出した、宗教的に生々しい切実さとこの充実を極めた作中の雰囲気が、私を過去のどの作品にも優って、宗教文学的な精神の範疇で満足させた。そもそも文学も漫画も映画も音楽も、個の自由と公けの秩序とへの標榜を中庸させたところで、人類平和のテーマ性と普遍的に不可分であらざるを得ないと信じて疑わない私にとって、例えば映画『沈黙(スコセッシ版)』と劇場アニメ『この世界の片隅に』とを比較した時、見えてくる違いは作品同士の優劣ではなく、前者における思想哲学的な人類平和のテーマ性へのアプローチと、後者における飽くまで娯楽作品的な人類平和のテーマ性へのアプローチとの差といった、手法の違いが主立って際立つかたちとなる。つまりここで私が言いたいのは、ここ数ヶ月の内にそれら二つもの奇跡的な傑作映画と出会えたことに感激してるということだ。
ところで、ガルペが半ば自殺する形で自信の信仰と命を全うしたことを考えれば、作中のクライマックスをロドリゴの転びのシーンと捉えるのはおかしいのではないか(何故ならロドリゴ只一人の見せしめ的な転びのためだけに、既に転びの宣言を済ませた元隠れキリシタンの日本人百姓らが依然「穴吊り」を強いられ続けていて、この状況でロドリゴが自身の自殺で奉行所が百姓への拷問を止めるだろうと合理的に判断し得えたことは、奉行所の方針が飽くまで禁教撲滅にあって隠れキリシタンへの問答無用な処刑そのものではない、極めて文明的な冷静さで貫徹されたといった描写があったことからも明白なのだから)という疑問が仮にあった場合、これは誤解だ。カトリックの教えでは自殺は自身の命の創造主たる神の愛への背徳行為であり、ロドリゴの生きて味わい続けた屈辱の十字架と、その自殺の背徳行為とのどちらがより教理上で罪深いかといった検証の議論があり得たとしても、少なくとも自らの意志で自身の命を犠牲にする判断が、生き恥を晒す地味で惨めな十字架よりも優った信仰の現われだと、カトリック的な常識感覚から明瞭に断定されることは決してないわけで、他でもないロドリゴやガルペはこのカトリック的な常識感覚に宗教的なアイデンティティを置いていたからこそ、あそこまで八方塞的な逼迫感で苦悩しまくっていたのだ。暴論するなら、ガルペどころかイエス・キリストこそ磔刑に自ら赴いた自殺の急先鋒じゃないかと突っ込む余地を、キリスト者でない外野の感覚からは見出せるかもしれないが、そこには飽くまで自ら命を絶つ明白な意思が無い限り、創造主の愛に刃向かう自殺とされない微妙な基準があるようだ。従って、ガルペは飽くまで処刑される百姓を庇うことを装った自殺を敢行した分、組織化かされて本質から乖離したキリスト者の常識感覚からの苦悩から、少なくともその置かれた状況がどさくさ紛れの自殺を一切許さなかったロドリゴの場合よりも比較的楽に解放されたと、映画『沈黙(スコセッシ版)』のテーマ上で解釈されるのであり、必然的にクライマックスはロドリゴの比類無き転びの十字架の開始のシーンとならざるを得ない。これは原作小説でも同様であり、こう考えると、遠藤周作が『沈黙』を著した理由として述べた「彼らとその苦悩を歴史の影に語られずじまいに埋没させたくなかった(※うろ覚え)」というのは、正にロドリゴが生涯を終えても尚背信者の烙印としての十字架を背負い続けていた凡庸な歴史記述の状況において、彼の深奥のディテールに文学的な記述を加えることでその十字架を下ろしてやるか、これが無理でも共に背負ってやりたいくらいの気概を意味していたとも考えられるし、これを更に視覚的に如実に描写せしめたのが映画『沈黙(スコセッシ版)』だったとも思える。
私は映画『沈黙(スコセッシ版)』は日本でヒットしないと思う。否、米国は勿論、世界的にもヒットしないと思う。イエス・キリストが登場するでもない『沈黙』の表面上の地味さが『最後の誘惑』の興行実績すらも超えることが困難だと推測するなら、むしろその本質的なテーマ性への誤解だけが茶を濁すだけに留まって、理解も記憶もされない惨めな映画となるかもしれない。これは合衆国の新大統領が度々口にする保護貿易主義の時代的な意義を国際社会や諸国それぞれの民主主義的精神が認知できるか、できないかくらいに絶望的に困難な前途の様相である。多元主義的国際秩序を嫌う覇権主義的グローバル利権に洗脳されっ放しの多数派の群衆が民主主義を体現できている錯覚に陥っている限り、映画『沈黙(スコセッシ版)』の本質が世界的な映画市場に理解されることも、果てはキリスト者的な信仰の本質が西欧諸国の精神文化に復古することも、決して叶いはしないと、私はここに断言したい。まぁ、そもそもそこに善悪の基準を差し挟んで目くじらを立て過ぎたところで、人類嫌悪の闇を抱える徒労に終わることも又明白だから、常に諦めず、もてる限りのアプローチの活路を見出す建設的発想に身を委ね続けていたい。所詮は映画の好みの話に過ぎないのだし。