「神を信じる強さと宗教が持つ欺瞞のはざまで」沈黙 サイレンス めいさんの映画レビュー(感想・評価)
神を信じる強さと宗教が持つ欺瞞のはざまで
江戸時代初期、禁教下の日本で布教をしていた恩師が棄教した報を受けた宣教師のロドリゴとガルペは、真実を確かめに長崎へ来日し、迫害される信徒達の姿を目撃する…。主人公ロドリゴらは、日本に向かう途中のマカオで漂流民キチジロー(窪塚洋介)に出会い、案内役として彼を日本に連れていく。主人公は来日し、隠れキリシタンの村で宣教を行う内に、キチジローが棄教した元キリシタンであり、家族を全員迫害で殺されていた事を知るが、キチジローは主人公らを裏切る。
昔原作を読んだ通り、非常に宗教色が強く、更に心理的な話なので退屈かと思いきや、そうはならないのが流石スコセッシだった。「沈黙」というタイトルの通り、劇中で音楽は一切使われず、虫や鳥の声、波の音など自然界の音作りに徹していて、それが非常に映画に奥行きを持たせているのが印象的だった。
別にカトリックでなくても鑑賞できる作品だが、個人的にはマタイによる福音書などを読んでおくと、作品中の喩えや構図がよく分かると思う。
映画版ではイノウエサマが明確に元切支丹であることが書かれていなかったような気がするのだが(見逃していただけかも)、イノウエが「種」や「土」の喩えを使ってロドリゴと問答してるシーンを観て、聖書を読んだことがある人はイエスの「種蒔く人」や「毒麦」の話をしていると気づくので、イノウエが聖書をよく知る人物である=元切支丹である、というのが分かるようになっている。
「沈黙」を観た後、久しぶりに新約聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書を読んだのだが、主人公の宣教師ロドリゴは、自分をファリサイ派等から迫害を受けるイエスとその弟子に投影しているように思える。それでは、ユダの象徴であるキチジローは彼にとって何なのか。
ユダは銀貨三十枚でイエスを売った後自殺するが、キチジローは銀貨三百枚でロドリゴを売った後も信仰を捨てられずロドリゴに付きまとう。農民たちのキリスト教観は、聖書が読めず、長い間宣教師と関わりを持ってなかったせいで大分歪んでおり、その歪んだ信仰のまま、拷問され殺されていくが、キチジローだけは何回踏み絵を踏んでも信仰心を捨てず、主人公に赦しを求めて来る…。
聖書の「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という言葉。これが主人公のキチジローに対する態度なのでは…と思うが、逆に言えば主人公は赦しを乞われている、求められ続けられるからこそ、神の使徒でいられるのではないか。
棄教後も彼を傍に置いていたことこそが、ロドリゴにとって「隣人への赦し」の実践のように見え、心の奥で信仰を持ち続けていた証拠とも思えた。
遠藤周作自身がカトリックでありながらカトリックに対して疑念を抱いたことがあったせいか、「沈黙」でのイノウエの主人公に対する問いかけは、かなり合理的で宗教というものに対する矛盾を的確に指摘してくる。あれがなかったら単なる切支丹かわいそう物語になっていた気がする。
日本以外の人と日頃接している人は、日本人社会の同調圧力の嫌らしさを充分知ってる(口には出さなくても)と思うが、外国人監督が撮っただけあって、そういう日本人社会の嫌な所がかなり正確かつ的確に描写されており、絶妙。
神を信じる事は強さなのか弱さなのか。宗教は究極的に人を救えるのか。人は主のように裏切る者を赦し愛せるのか……多分信仰を持つ人、持ったことがある人には非常に響く命題だと思うし、持たない人にも、信仰とは何かを考えるきっかけをくれる映画だと思う。