「ひなたの匂い」沈黙 サイレンス kihakuさんの映画レビュー(感想・評価)
ひなたの匂い
人生を賭けた信仰と絶望的な状況下における人間の選択。予め覚悟はしていたものの、喩えようのない悲しさと寂しさを噛み締めて、深夜の映画館を後にした。
本作は、マーティン・スコセッシ(1942-)の監督作品であることに加え、遠藤周作(1923-1996)の世界的に有名な小説(『沈黙』新潮社1966)が原作であること、さらには出演している俳優陣など、注目される要素は多いように思われるが、日本公開1ヶ月現在における本作の反響は、比較的「静か」な印象を得ている。〔もしかしたら、今の時代には合わない(=受けない)のかもしれない。〕
原作自体が単純明解とは言えない作品である以上、映画もそれなりになっているであろうと予測はしていた。しかし、そこはマーティン・スコセッシ監督の腕の見せ所であろうと期待もしていた。オープニングやエンディングの「虫の音」と暗黒の世界に引き込まれたり圧倒される場面もあれば、ストーリー展開が早すぎて、内容が理解しにくい場面も散見された。私は鑑賞前に原作を読んでから映画館へ足を運んだが、原作を知らない人が観ると、少し違う内容の作品として理解するかもしれない。
この作品は、タイトルの印象から一般的に「神の沈黙を描いた作品」と誤解されている。しかし、遠藤氏曰く「神は沈黙しているのではなく語っている」という意味を込めた作品である。もちろん、作品中で主人公とその友人たちは、様々な苦難に直面する。絶体絶命の状況下で、(キリスト教における)「神」が、なぜ救いの手を差し伸べない(何もしない=沈黙している)のかを問う。それは神に選ばれし者が、神に与えられた「試練」なのか?「見せしめ」なのか?それとも・・・。
キリスト教徒にとって神の存在を否定することは、自らの信仰を失うことになる。神への信頼と疑問。様々な葛藤の末に、主人公がたどり着いた境地とは。本書は、ある信仰者の内面的葛藤を描いた「回想録」である。
ちなみに『沈黙』というタイトルは、著者自身が付けたものではない。元々は「ひなたの匂い」というタイトルで脱稿した作品であり、後日に出版社からの意向を受け、タイトル変更したものである。(遠藤周作『沈黙の声』プレジデント社 1992)
作品の終盤、この「ひなたの匂い」という原題名を感じさせる場面が淡々と続く。ある種の「救い」がそこはあったのだろうか?主人公の両手に隠された十字架だけが、それを知っているのかもしれない。