「人が人を『赦す』ことの難しさ」光をくれた人 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
人が人を『赦す』ことの難しさ
『イエスはすべての人間の罪を背負って十字架に架けられた』的な言葉を見たり読んだりしたことがありますが、本作品におけるレイチェル・ワイズの夫は、その役回りだったのですね。
もし、生きている者だけの感情で、赦すとか赦せないとかを口にすると、一見寛容なようでもありながら、どこかに加害者=赦してもらった側、被害者=赦してあげた側、という関係性を引きずってしまい、罪を犯した側と許してあげた側に隔てられてしまう。ヤヌス神の2つの顔が反対を向いているように。
レイチェルが赦しを与えるとき、それは被害者としてではなく、イエスのように周囲の者から追い詰められて亡くなった『夫の導き』(いわば擬似的な神の名の下の赦し)でなければならなかったのだと思います。
生身の人間同士の、赦した側、赦された側という隔たりが残っていたら、ルーシー・グレースも育ての親に対して向き合い方の整理がつかないまま、感謝よりも恨みに近い感情を抱くことになっていたかもしれません。
コメントありがとうございます。
オーストラリアがイギリスから独立したのは1901年、第一次世界大戦では何万人もの兵士が犠牲になったそうです。その直後、今から約100年前の灯台守の夫婦2人しかいない実質無人島という環境下、社会規範や倫理観を規定したのは身近に存在しない世間ではなく、信仰(神)だったのだと思いました。赤ん坊は神様からの授かり物、という思いに縋る妻、裁きは神の御心のままに従うとして、結果として中途半端な告発となった夫、と考えると、色々なものが腑に落ちました。私にとっては、『沈黙』よりも神の顕われ方を考えさせられた作品でした。
素晴らしいレビューですね!
赦すこととは、個人の情動に囚われている以上難しいと思います。
ハナの夫とキリストを重ねるとは慧眼で、そこまでは思いいたりませんでした。