「TOHOシネマズ府中にて観賞」関ヶ原 shallowwhiteさんの映画レビュー(感想・評価)
TOHOシネマズ府中にて観賞
原作はたぶん100に近い回数読んでいる愛読書中の愛読書。だからこそ、よくぞ映画化してくれたと嬉しく思う。
しかも、最近の大河ドラマのような温いTV局主導でなく、力ある監督による、これぞスクリーンでと言える力作だ。
是非、『城塞』の映画化に繋がって欲しい。
だが、しかし、やはり原作を愛する身として色々言いたいことはある。以下、箇条書きにて列記する。
一、原田眞人監督
監督は「当初、小早川秀秋、島津義弘を主人公に考えていた」と観賞前に読んだ雑誌取材で答えていた。
いや待て、あの原作を読んで石田三成以外の主人公があり得るだろうか。
小早川も島津も重要人物ではあるが脇役で掘り下げられてはいない。そんな彼らを主人公にすれば最早、司馬遼太郎『関ヶ原』ではない。
こういう一周回っていない戦国ビギナーの発想を原作に被せようという傲慢さは流石の原田監督だ。
この点は流石に回避されたが、冒頭でファンへの目配せのように司馬少年を登場させてから後は、名前だけを借りた得意顔の原田ワールドだ。
しかし、彼が行った改変は残念ながらどれも上手く機能していない。
二、改変① 初芽
原作では大阪城の侍女であった初芽が伊賀者に変更されている。
有村架純の凜とした動作を見ていると、これも有りかと思ったが、中盤以降は全く活躍が無いのだ。
中盤に囚われとなり、物語に怒濤の展開を期待をさせるが、その後関ヶ原に行ったにも拘わらず、三成と絡めずウロウロしてるだけなのだ。
私ならこうする。(以下妄想)
単身逃走する三成が東軍や落ち武者狩りに囲まれる危機に突然現れ、忍びの技で敵をなぎ倒す。三成を守りながら逃げ、阿修羅のように戦うが守り切れずに……(以上妄想)
原田氏以上に脚色が過ぎるが、少なくとも初芽を伊賀者にした意味は出るんじゃないか。男女逆で『ラスト・オブ・モヒカン』の「どれだけ離れても必ず捜し出す!」を壮絶にやってもいいじゃないか。
三、改変② 石田三成
二枚目スターが演じるせいか、弩や手斧を持って最前線で闘う格好良い新しい三成像だ。
だがしかし、この新三成像が原作で徹底的に描写された重要なテーマとも言うべき三成の思考・精神を厚味の無いものにしているのだ。
原作の三成は「自分は源頼朝の如き総大将である」との自負に満ち、臆病と言われようと介さず、大将の道として個の武を軽んじ、敗北後には当然のこととして逃亡することを選んでいる。
後世の高みから見ると滑稽にすら見えるが、これを通す故に三成の尋常ならざる信念が浮かび上がるのだ。
格好いい岡田新三成は、サービス程度にアクションを見せ、敗北時に「無駄死にはつまらん」と一言ボソッと言い走り逃げるのみだ。
逃亡前の三成こそ彼の人物像を見せつける場なのだ。ここがぼやけたら単なる卑怯者でしかない。
三成の望みが初芽との全国行脚であることも、いっそうこの三成像が不可解なものにしている。
彼は家康を倒すためだけに戦っているのか。否、その先の国家ビジョンがあるからこそ家康が邪魔なのだ。
恋愛行脚の夢を語るも良いが、それはもっと二人を盛り上げるエピソードがあった上だ。
男女の仲にもなっていない、相手を必要とするエピソードも不足する二人にそこまでの情念は感じない。幼稚すぎる。
四、脚色③ 伊賀者
伊賀者の蛇白と赤耳は映画オリジナルの人物だが、これがまたノイズになっている。
くノ一蛇白は、家康が信頼したとされる「阿茶局」と呼ばれるに至るが、家康に刺し貫かれる描写で終わる。
では、大阪の陣でも活躍した阿茶局は誰なのか?投げやりな脚色はただ単に混乱させられるだけで大迷惑。
老忍の赤耳も、家康を討とうという感情の変遷が不明瞭。脅されたからと初芽を狙い、次の出番では西軍に尽くすと言う。感情の演出が雑過ぎる。
五、脚色④ 島左近の最期
平岳大は原作でイメージした島左近像に近い。が、色々ノイズはある。
左近が三成に臣従したのが、秀次粛清の時というのも歴史的には色々おかしくノイズだが、それはまあ良しとしよう。(この時に壇蜜が出る意味も無いが)。
何より失望した脚色は島左近の最期、石田軍の壊滅の様だ。
後に東軍の兵が夢にまで見て恐怖したという島左近最期の突撃は無い……左近を含めた石田軍の兵は皆で合体して串刺しにされ、自爆するのだ…自分でも何書いてるのか分からない。何だこれ。
石田軍の砲術名人が李氏朝鮮からの渡来人である、これ自体は朝鮮の役後の状況を思えば有りな設定と思うが、終盤急に出てくる人物であり、左近の最期に被せるには唐突過ぎた。
あと、司馬遼太郎作品の決死の場面で指揮下を鼓舞するお決まり台詞 「ものども死ねや!」 を左近が叫ばないのはマイナス100点。原田監督には司馬愛がない。分かってない。
六、脚色⑤ 取捨選択
原作にない秀次一族刑死の場面はあるが、関ヶ原開戦前の駆け引きは軒並みカットされている。
この原作中巻の攻防は関ヶ原を舞台に決戦に至った重要なパートなんだが監督は興味ないらしい。
結果として両軍の位置関係、特に東軍を取り囲む小早川軍や毛利軍の配置の説明もないまま戦に入るから、ビギナーには一体何を三成が焦れているのか分かり難かったのでは。必勝の布陣だったのだ。
島津軍の退き戦「捨て奸」がない点は、戦国ファンも大落胆だろうが、カットされたと推測する。
そうでないと松平忠吉や長淳院をキャスティングしている意味が無いからだ。
七、キャスティング
役者は結構はまっていたと思う。
岡田准一は、演技の幅が狭いが、故に器量の狭く不器用な三成らしく見えた。
しかし、作品ページのポスターアートに主役たる彼の顔が無いのは納得いかない。自意識過剰な肖像権管理を行う芸能事務所は一切映画に関わって欲しくない。代わりになる役者はたくさん居る。
役所広司は大仰さの中に狡い味もあり、激高すらも謀略になる百戦錬磨の家康にぴったりだった。
滝藤賢一の秀吉も良かった。この役者は監督により良し悪しが大きく別れる。
八、劇伴
NHKのドキュメンタリー番組であったかのような高いコーラスの劇伴…新しいが上がらなかった。野太い音がもっと欲しかった。
九、殺陣
合戦での描写にて、足軽の槍と槍が組みあい運動会のように押し合う描写は、目新しく納得できた。
兜の飾りを取る描写は狙撃避けだろうか、これもなるほど。
だが、弓隊の少なさは気になる。
また、局地戦ばかりという感じで戦闘のスケール感は乏しい。
また、これという戦局を変える印象的な見せ場が欲しかった。小早川裏切りも描写が淡白。
中盤の有村架純の殺陣については、接写が過ぎた上、編集も巧くなく何がなにやら判らずで、個のアクションは明確に下手な監督だと認識した。
十、美術
大名が集まる間の畳が古い。ロケ地の現状で已む無しだが画が貧相だ。
秀吉の間にあった銀色の「何か」。観てるときは「鶴松の遺骸?」とゾッとしたが、どうやら監督選択の現代アートオブジェらしい。
監督の自己満足のお陰で、物凄いただのノイズを受けた。
十一、結論として
いっそタイトルを『俺の関ヶ原』にすれば良かったのに。それならこんな長々と文句も無かったのに。