「わんは見た」銀魂 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
わんは見た
何も知らない人の意見です。
下地に幕末と新撰組があるが、それは配役とロケーションとコスチュームを提供するだけで、実質、お笑いネタ集である。
ネタ元には、わかるものとわからないものがあったが、わからなくても、おぼろげに何かのパロディであることがわかった。その意味においては銀魂を何と読むのか以外にわからないことはなかった。
ただネタ集とはいえ、大きな笑いはpunch lineではなく、顔や動作がもっていく。いちばんの見せ場は殴られたときにこっちを向く変顔で、何度かあり周到なタイミングがはかられていた。二度ぐらいはまじで笑った。
個人的に出色だったのは岡田似蔵でいつでも俯いて瞑目したまま「おやおや」とか、語尾に「ねえ」が入ると決まる。
「俺はちょいと体を貸しただけでねえ」
演技を四の五の言う種類の映画ではないが新井浩文にはバラエティ番組の寸劇に役者が一人混じってしまったような迫力があった。
が、この翌々年に捕まった。
瀕死の鉄也を鉄子が抱える演出は紋切りだった。おちゃらけた映画がシリアスに立ち入ってはいけないと思った。
が、映画は長すぎるが総じて楽しい。その比較が適切であるかわからないが、るろうや無限や曇天やキングダムより楽しかった。
驚いたのは映画の何も残らなさである。難癖の意味で使う「何も残らない」ではなく、まるでファンタスティックビーストにおいてノーマジがオブリビエイトされてしまったかのように「何も残らない」。凄まじいほどケロッと忘れた。
しばしば下げの映画レビューに「何も残らない」が使われているのを見る。
わたしは何も残らない映画を、積極的に見たいと思うことが多い。
多くの人がそうだ、とも思う。
忙しい日の終わりに、あるいはしばし現実を忘れたくて感動作や小難しいものより、軽い映画を選ぶことは、誰しもあるはずだ。
そのとき気付くのは何も残らない映画が意外に少ないことである。
サクッと笑って寝るつもりが逆にもやもやしてしまったり、場合によっては憤慨してしまったり。あたらずさわらず、残渣もなく、オブリビエイトせしめる映画は、じつは稀少ではなかろうか。
映画には「何も残らない映画を見たい」という需要があり、それが稀少でもあるなら、映画評の「何も残らない」は諸刃である。
とりわけ粗悪な日本映画に憤怒を感じてしまうことがよくある小市民のわたしは「何も残らな」かった日本映画にはむしろ安堵するのであって、個人的には「何も残らない」が効果的な下げ表現になり得ているとは思わない。
ところで見たのは「わん」だった。
ちなみに巷で交わされる映画の会話に「わんはみた」というのがある。これは「1は見た」の意味で、意訳すると「初回作は見た」である。
ところが、ジョーズも13金も男はつらいよもスターウォーズも007もエイリアンも、その他数多のシリーズものは初回に1とは付けないにもかかわらず、日本人は初回作品のことを「わん」と呼ぶのである。
この圧倒的な可笑しさのニュアンスを解する人と映画の話で相酌するとき「わんはみた」だけで小一時間ツボに嵌まることができる──かもしれない。
ところでオープニングはセルフパロディで、本編導入前に「原作を知らないおきゃくさんもいるんだぞ」とか「原作のファンは超辛口のレヴューとか書いたりするけど、そうじゃないおきゃくさんはとっても甘やかしてくれるからな」とかの台詞が入る。
戯事にしているが、おそらく本気で原作ファンを牽制していると思われる。
わたしたちはマンガ原作ファンが妄想肥大してしまう現象を知っている。
定期的にその攻防がエンタメニュースに入ってくる。風物詩と言っていい。
個人的には風で対策するのがいいと思う。ぜんぶのタイトル尾に風を付ける。銀魂風実写版──という感じである。これだと駁撃を法的にも逸らせる。ちなみに稲庭風うどんから思いついた。