「ただひたすら無心に…。」ラサへの歩き方 祈りの2400km とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
ただひたすら無心に…。
五体投地。祈り・願い事によって歩数が違うのだそうだ。
合掌してから全身を大地に投げ出し、額を大地につける。立ち上がり、お経を唱えながら決められた歩数を歩き、また合掌から繰り返す。
作法以外のことを考えながら行えば、お経や歩数を間違える。
すべてを神仏の前に投げ出し、帰依していることを示す方法と聞く。
小賢しい考えや、せこい損得、心を蝕む感情すらも神仏に預けるということか。
頭と心を空っぽにして無となる。ただ、ただ、祈りのみ。
ズルをしないこと。他者のために祈ること。それがルール。
”効率”とは対極の方法。
最近、日本で流行っている御朱印集め。収集が目的となり、参詣もせずに、御朱印所に駆け込む姿に呆れていたが、フリーマーケット・オークションサイトでも取引されていると聞く。
”効率”を考えれば、それが一番いいのだろう。
だけど、何のための”効率”?どのような”成果”を目指すのかによっても、評価は変わってくる。
巡礼。お遍路、お伊勢参り。各地に残る富士登山の代わりの”富士塚”。海外に目を移せば有名な”メッカ”。最近は映画やアニメ等の”聖地”巡りも加わる。
心のよりどころを訪ねたいというのは人類共通の願いか。
映画はただひたすらに巡礼する姿を追う。
一周忌をきっかけに人生でやり残したことを考えることから始まる。それぞれの思惑で少しずつ参加者が集まってくる。準備・旅立ち。筋肉痛・頭痛。怪我。袖振り合うも他生の縁。出産。事故。祝福。資金の底つき。憧れともいえるほどのほのかな初恋。別れと再会の約束。死。
ドラマチックなエピソードが散りばめられているが、ドラマチックには盛り上げない。
現地でスカウトした素人に、その方ご自身を演じてもらったのだそうだ。
映画の撮影に入る前から調査した巡礼あるあるをベースに大まかなプロットを作って、演技してもらっているそうだ。村滞在中・ロケ中にあった出来事を撮影しておき、編集したとか。途中で出会った中で、了解を得られた人たちのことも、映画に取り入れているそうだ。
五体投地しながらの旅は、1日10kmというが、撮り直したりしているので、1日1kmという日もあったとか。
なので、棒読みなのは仕方がない。会話の応酬が少ないのも仕方がない。
それでも、
何かを成し遂げようと人たちの顔はどうしてこんなに魅力的なのだろう?
一人一人がまるで本物の役者のような存在感を見せる。
寡黙な世話役のニマ氏。そこにいるだけで絵になる。
ヤンペル氏と、身重なツェワンさんが先頭を歩く。
ツェワンさん。出産してからは、時にテンジン君に乳をあげるために荷台に揺られるが、テンジン君を荷台に乗せて、五体投地。テンジン君の首が座ってからは、おぶって五体投地!!!
監督が「映画史上最年少の出演者」というテンジン君は、生まれたばかりの、まだ羊膜つけているんじゃという姿で初出演。少しづつ大きくなっていく姿で時が経つのを知る。
ツェワンさんの夫・セパ氏はイケメン+イクメン。出産前は、ツェワンさんの後ろ=五体投地メンバーの先頭をキープし、テンジン君が生まれてからは荷台の近く=最後尾に位置する。時におぶって五体投地。入り婿として、舅や姑に気遣う姿もかわいい(笑)。
そして、脇役大賞を進呈したくなるジグメ氏とワンドゥ氏がいい味出してくれる。
ツェリンさん、ダワ・タシ君、ワンギェル君は若さを振りまく。
テンジン君が生まれる前は、最年少のタツォちゃん。こんな小さな少女も「ズル」せずに頑張る姿に、エールを送りたくなる。そして両親のジグメ氏、ムチュさんとのやり取りが微笑ましい。
彼らに逢いたくなって、何度も映画をリピートしてしまう。
あまりにも説明も少なく進むので、できれば、公式HPの制作ノートを見ながら鑑賞すると、面白さが倍になる。まるで、隣村の人々を応援している気になる。
そんな物語とともに、旅行気分・異文化体験も満喫させてくれる。
絶景の山脈はもちろん。
ヤンペル氏が常に回しているマニ車。
風にたなびくルンタ(タルチョー)の美しさ。
日本にいながらのポタラ宮参り。
カターの挨拶。
鳥葬?
ブータンを思わせる家の造り・インテリア・出で立ち。でも、ダウンジャケット・運動靴とかも。
棒で攪拌して作っていたバター茶も、今ではミキサーで作るのか。
道端の水たまりや、氷を割って調達する飲み水。
五体投地の横を爆走するトラック達。
トラクターと、ヤクに曳かせた鋤で耕す農地。
こんなところにも基地局があり電波が飛ぶのかと驚くスマホ。
村と街とラサの格差。
徳の高い子と高くない子の違い。
呼吸困難を起こす(高山病?)観光客。車や飛行機で一気に登ると高山病になりやすい。五体投地のように、徐々に高さに慣れれば、かかりにくいのに。
作った料理を足元で取り分けたら、土埃が入らないのかと心配になったり、
学校があるからと参加を拒んだ子どもがいる反面、タツォちゃんはいいのかと心配したり(この年齢なら両親とともにいる方が大切か)、
こんな大都会を見てしまったら、村に帰りたくない輩もいそうだと心配したり(制作ノートによると、実話としてダワ・タシ君は村でやることなくてプラプラしていたから、巡礼の旅に参加させられたのだそうだ)。
モンゴルと中国。
ダライラマ法王の亡命と、宗教否定の中国政府。
そんなことを考えながら、恐る恐る鑑賞。
最初に映し出される中国の映画会社のロゴの数々に、嫌な予感に襲われる。
だが、そんな懸念をまったく必要としない、ただひたすらに巡礼の様子を繰り返す映画だった。
DVDについていた解説書を読むと、監督の逡巡した思いが行間から読み取れたりはするが。
それでも、公開時中国で300万人を動員したとか。
中国政府が各方面の意に添わぬ者たちに対して規制を強めている今ならどうなるのだろう。
でも、チベット出身の映画監督たちによるチベット文化をベースにした映画は今も作られているし、公開されているし。
中国人であれ、それ以外の国の人間であれ、心のよりどころは必要なのだろう。だからこの映画がロングランとなり、多くの人から愛されているのだろうと思った。
とにかく、彼らの有様に、心の檻がすうっと消えていくような体験。
何が本当に大切で必要なのかと、自分の心に問いかける。
この映画から離れるとすぐに俗物に戻ってしまうのだけれど、でも何かが心に残ります。