たかが世界の終わり(2016)のレビュー・感想・評価
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戯曲の映画化なんだが・・・
劇作家でゲイのルイ(ギャスパー・ウリエル)は12年ぶりに家族の元を訪れる。
それは、家を出てから初めてのこと。
彼が訪れる理由はひとつ。
自らの死が近いことを家族に告げるため。
しかし、それはなかなか切り出せない・・・
というハナシで、ストレートにいえば、それ以外にハナシはない。
なので、見どころは、12年ぶりの家族との確執が焦点で、母(ナタリー・バイ)、兄(ヴァンサン・カッセル)、兄嫁(マリオン・コティヤール)、妹(レア・セドゥ)という豪華配役がそれを演じている。
なかでもキーパーソンは兄役で、粗野で知識の面でも弟に劣るが、一家を支えているという自負があり、さらに、弟の訪問理由にも気づいている。
そして、家族を傷つけたくないという気持ちもある。
また、ルイの病気は語られないが、劇中で、兄は弟のかつての同性の恋人が死んだことを告げていることから推察するに、たぶんエイズなのだろう。
気づいているからこそ、言葉を荒げて、弟が波風を立てないうちに、自分が損な役回りを引き受けて、弟を追い払おうとする。
とにかく、役として難しい。
そして、思い起こせば、愚兄賢弟の図式は『トム・アット・ザ・ファーム』でもみられたもので、ドランとしてはかなり思い入れのある設定なのだろう。
で、映画はこの兄を中心に進んでいくかと思いきや、なかなかそうはならず、ルイの帰還理由に気づいていない妹、理由そのものはわからないが何らか悪いことがあることを予感している母親、そして、兄同様、ルイの帰還理由に気づいてしまう兄嫁が、ほぼ均等に描かれていく。
それを、同時多発的に交わされる台詞をしゃべる人物の顔のアップを中心にして、描いていく。
この映画には原作戯曲があり、ドランとしては、演劇臭をけしたかったがために、この手法を選んだのだろうが、個人的には、あまり効果的でないと思う。
戯曲を映画化する際、舞台のように引いた画面で延々とみせることは映画を撮る立場としては避けたいところで、逆に、登場人物たちに肉薄しようとしてカメラを寄せてしまうということは多々あること。
過去の映画作品でもよくお目にかかった。
けれど、この撮り方は逆に映画を狭苦しくするだけで、戯曲の良さを損なうことが多い。
まぁ、ドラン監督は、そんなことも百も承知、二百も合点でこの手法を採用して、登場人物の内面に迫りたかったのだろうが、やはり映画として上手くいっていないように感じられて、観ていて苛立ちだけが先立ってしまった。
それに、今回は音楽の入れ方も陳腐。
主人公の心情の代わりに使っているのだろうが、なんだかミュージックビデオのようにそのシーンだけが浮いてしまっている。
どうだ、いいだろう、うまいだろうと自ら言っているようで、悪趣味になりかかっている。
常に私小説ならぬ私映画を撮るドラン監督だが、映画を撮るにあたっては若干の客観性がほしかったところ。
言えない、いや言いたくなくなる。
ギャスパー・ウリエルがいい
観たことあるかも
グザヴィエの映画はそもそも好きだし、カンヌグランプリだし、役者も勢揃い。
音楽も昔の回想シーンもよかった。
だけど、やっぱマミーとロレンスには敵わないなぁというのが感想。
こんな家族なら確かに家出るわと、冒頭10分で納得。あまりにもみんな怒鳴りすぎ。Too much!
戯曲だけあって舞台向き。久しぶりに家族が皆が集まって、ものの見事に滅茶苦茶に散っていくあたりは、メリル・ストリープとジュリア・ロバーツの「8月の家族たち」で既視感あり。本作のほうが愛があるけど。
あと暴力的なお兄ちゃんの登場はどこかでも観たことがある。グザヴィエの「トム・アット・ザ・ファーム」に出てくる家を出られない狂気的なお兄ちゃんと構成が似てるかも。
お兄ちゃんだけでなく、全体的に愛という名の暴力的な映画だった気がする。
映画より舞台向きのストーリーかな?と。
人と人がわかり合うことの難しさ、それは家族であっても。みたいなこと...
映画らしい映画
自分の終わりは世界の終わり
最後までアングルはほぼほぼ演者のアップです。話も家族間のヒリヒリするすれ違いの内容だし好みが別れそう。大きい動きはなく登場人物の心情を追う内容なので退屈な人には退屈だと思います。個人的には好きでした。主人公のナイーブな空気や作品の雰囲気が好きだったのでそれだけでもけっこう見れるなと。自分も家を出て暮らしてるので久しぶりに家族が帰ってきた何とも言えない微妙な空気や変な緊張感に後半はかなり感情移入してしまい主人公や妹やお母さん家族皆がとても愛しく思えてきました。でもお兄ちゃんだけは理解不能。立場とか感情とか色々あるんだろうけど劇中に『俺を怪物みたいに扱いやがって』と言う台詞がありましたが、明らかにモンスターだろ、お前と思わず心の中で叫んでいました。
世界が終わっても縮まらない距離
先ず彼の他作品鑑賞後観ましょう!
公開初日は立見が出るほど大盛況な大人気なまだ20代のタトゥーバリバリの男前監督グザヴィエドランの「たかが世界の終わり」みてきましたー。
【最後のタグはネタバレ含むので観ようと思っている方は読まないで下さい】
まず、邦題が秀逸。
台詞の中に出てくる言葉の一部を題名にもってきた素晴らしさと“たかが”のセンスよ。
グザヴィエドラン監督の映画とは相性はいい方ではない私なので、期待はせずに観に行った感想としては、途中眠さがやってくる場面があったけど、総合的に好きな作品でした。(隣の人も寝息たてて少しの間寝てたw)
ただ世間的にはこれはまっぷたつに分かれる評価でしょうきっと。
「なんじゃこりゃ?クソつまんねぇ」と思うか
「よかった。。(しんみり‥)」と思うかはズバリ貴方次第です(キリッ)
ドランは音楽がつくづく好きなんだなぁと思った。序盤の「家には何にもない」みたいな歌詞の曲も入り方もめちゃ好き。誰かしらんけど。
気になったのはカット割り。顔顔顔顔‥とにかく首から上くらいのやたらどアップのカットが多い(ほぼそれ)あれは誰かの視線という意味なんだろうか?一番最初も飛行機に乗っている後ろの席の小さな男の子の視点からのカットで始まっている。
きっとドランの頭の中には明確なものがあってそれを映像化するとこのモヤモヤした空回りのもどかしく進まない葛藤や掛け違いになったみたいな、話の筋だてを描くのではなく想いを形にしたような映画だった様に思う。
ドランはインタビューで「不完全なものに魅力を感じる」と答えている。つまりそういう事だ。その通りに映画は終わりを迎える。
「ディストラクションベイビーズ」を観た時の様な1番好きではないけれど後を引く忘れられない感覚の映画でした。
#しかしあえて言わせていただこう#うすうす途中から気づいてたけど#言わへんのかーい❗️#タバコどこまで買いに行っとんねん#マイヤヒーマエヤハーが頭から離れないw
息づかいが聞こえる
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