だれかの木琴 : インタビュー
池松壮亮×東陽一監督、語り尽くせぬ魂の“共鳴”
「この作品に呼ばれた気がする」――。なんとも不思議な響きを持つタイトル「だれかの木琴」の引力に東陽一監督も、池松壮亮も引き寄せられた。それは、映画の中で常盤貴子演じる主人公の主婦・小夜子が、偶然彼女のカットを担当し、その後、お礼の営業メールを送ってきた池松演じる美容師の海斗にどうしようもなく惹かれ、説明の出来ぬ思いを抱えて恋い焦がれていく姿とも重なる。なんとも言えない魂の“共鳴”が起こっていたのは物語の中だけではなかった。(取材・文・写真/黒豆直樹)
原作は、直木賞作家・井上荒野氏の同名小説。何の不満もなく幸せに暮らしていたはずの専業主婦・小夜子は、初めて訪れた美容院の青年・海斗から来店へのお礼メールを受け取る。そのメールに返信し、その後も頻繁に美容室を訪れるようになった小夜子の行動は、徐々にエスカレートしていく。
東監督は書店で原作小説の前を一度は素通りし、それでも「題名を見れば中身がわかる作品ばかりが並んでいる中で、これはよくわかんなくて、どうにも気になって」結局、購入し、一晩で読み終えた。シンプルだが、様々な解釈の余白を持った物語に惹かれて映像化を希望したが、その上で「小説ではあまり突っ込んで描かれていない海斗をより深く描きたい」と考えた。その時点で頭に浮かんだのが池松だった。そして本作の海斗という役柄とは一見、かけ離れているように思える池松のある出演作品を理由の一つに挙げる。
「僕ね、『MOZU』で池松が演じていたあの役がすごく好きなの。ハチャメチャで、死んだかと思いきや死なないリアリズムを超えた役を、妙な説得力をもって演じていたんだよね。この映画の海斗も、何を考えているのかよくわかんないんだよね(笑)。でもヒントはあって、彼がひとりで小刀をじっと見つめるシーンがある。青年期に誰しもが持つものかもしれないけど、自分の暴力性を自覚しているんです。自覚した上で、それをいかに抑えていくかってのが自己形成なんですよね。暴力性と戦っていると、孤独にならざるを得ないし、彼はそれを決してネガティブなものと捉えていない――それは『MOZU』での演技とつながるなと思いました」。
理性で自らの暴力性を抑える海斗と、衝動的に一線を踏み越えてしまう小夜子。池松はこの2人の感情を、どちらも「理解できる」と語る。
「わかりますね。海斗が抱えている孤独は僕自身が普段から抱えているものともいえるし、その一方で小夜子の孤独、それを抑えきれない気持ちもすごくよくわかる。だから何をするというわけではないですが(笑)、どちらも身に覚えのある感情だなと受け止めていました」。
池松、26歳。役の上では高校生から社会人、変質者から落ち着いた大人の男まで見事なまでに演じ上げていくが、たびたび、話題となるのが20代半ばとは思えない落ち着きぶり、達観、諦観の境地ともいえるスタンスである。別作品で本木雅弘と共演した際「本番は80%くらいのテンションで演じる」と語り、本木を驚かせたというが、そんな彼が、劇中の2人の揺れ動く感情を自分自身のものと捉えていることは意外にも思える。
「いや、そうやって何の執着も衝動もないかのように必死で見せているんですよ(笑)。誰よりも執着を持っていて、困っちゃいます(苦笑)。きっと、東さんは僕のそういうところを見抜いた上で、このお話をくださったんじゃないかと思います」。
東監督は脚本を執筆する際、海斗という男について考えるとき、仏作家アルベール・カミュの「神も理性も信じなくともなお、それでも人はどのように振る舞い得るかを知りたい」という言葉を頭の片隅に思い浮かべていたという。「自分を罰したり、抑制する存在がない中でも手探りで生きていくしかない。それはそのまま海斗の生きる姿だと思った」と明かす。
その上で、東監督は答えを提示しようとはしない。「そもそもなぜ、小夜子はああなったのか? 夫が構ってくれなくて寂しい? そんなのはたくさんある理由のひとつでしかない。僕は何かを分析したいわけじゃない。気づいたらごく普通の主婦である小夜子が海斗の部屋の呼び鈴を押しているという姿を見せるだけ。それを解釈するのは見る人それぞれですよ」。
撮影でもそのスタンスは変わらない。このセリフをこの俳優はどんな表情で、どんなニュアンスで口にするのか? 誰より東監督が楽しみにしている。
「海斗が家に帰ると、家の前にワンピースがぶら下がっているというシーンがあるんですけど、池松はそこでのリアクションを、段取り、テスト、本番と1回ごとに変えてきた。毎回、それまでと違うことをするんです。何回やっても同じことをできる俳優もいるし、そういう俳優が悪いわけじゃない。でもそうじゃなく、池松壮亮という男がそこにいて、たまたま俳優やってる。そんな感じなんですよ。だから、少し条件が違えば毎回、リアクションが反射的に変わってくる。面白い俳優だなって思いますよ」。
だが、池松に言わせるとそうやって毎回、芝居を変えることは、むしろ普段の現場ではやらないようにしていることだという。
「欲求はあるんですけど、普段はやらないで、まさに海斗じゃないですが自分にリミッターをかけているところがありますね。人前で全てを開放して芝居できるかというとそんなことはなくて、計算し、役柄や芝居をコントロールしている。でも今回、東さんを前にすると『そんなこと考えなくていいよ』って言われているような気がしたんです。だから、自分の呼吸や脈のまま、素直に演じました。そうすれば、毎回、芝居が変わるのも当然ですよね」。
「呼ばれている」「なんとなく気になって」――。その感覚が何なのかはわからない。だが池松は「僕自身、出会いだけを信じて、それしか信じないで仕事をやってきた」とうなずく。
「なぜかはわからないけど19歳の時、たまたま『絵の中のぼくの村』を見て、それこそ、呼ばれているような、手を差し伸べられているような気がしたんです。『この人と会わなきゃいけない』って思った。そういうところを頑なに信じているし、だからこそ大変でもあるけど(苦笑)、でも、そういうやり方でしか自分に責任を負えない気がしています」。