ダゲレオタイプの女のレビュー・感想・評価
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静謐な中、不意に出現する歪さ
映像の世界に国境など存在しない。わかりきったはずのその言葉を改めてぐっと噛み締めた。とりわけ黒沢印ともいうべき窓辺のほのかな明かり、揺らぐカーテンの彼岸性はどうだ。あの映像を受けて全身の体毛が逆立ち背筋がぞぞっとくるような感触を、フランス人も同じく抱くものであってほしいと願うばかりだ。
本作の真価など、ダゲレオタイプの写真のごとく歴史が証明すればそれで良い。もちろん初の海外進出ゆえに課題も残ったはず。展開は回りくどく、役者陣の演技はもどかしい。転がる薬瓶。唐突な転落———。だが一方で、黒沢の残した確かな爪痕もたくさん見受けられた。何よりも時空と生死の境を貫く不可思議な映画装置を出現させることに成功しているし、あれほど歪な空気、暗闇に浮かぶ蒼を創出できる人は、世界中探してもそうそういない。異国の地で黒沢清パビリオンを体感したような感覚。ヒリヒリする幻をまるで白昼夢のごとく楽しんだ。
女が階段から堕ちる時
映画史上、女優さんを一番美しく撮ったのは溝口健二監督だろうか。私が好きなのは『祇園囃子』。木暮実千代の着物からチラっと見えるうなじと足首。妖艶で、それいでいて冒しがたい聖域にいる。
黒沢清氏が溝口健二に並ぶとは言わない(そりゃ誉めすぎだろう)。だが『ダゲレオタイプの女』には、まるで古い邦画から抜け出てきたような、しとやかな美しさがある。主演女優コンスタンス・ルソーはフランス人だが、どこか日本的な秘められた美しさがある。彼女の青いドレスからのぞく首筋、拘束器に囚われるときのため息。妖艶なのに聖域にいる。
コンスタンス・ルソー、大学では映画を学び卒論は黒沢清監督についてだったそうだ。監督の意図を忠実に汲める女優さんだったのではなかろうか。『ダゲレオタイプの女』は古い邦画の雰囲気があり、日本の怪談のようでもあり。それを再現したのが若いフランス人だったことが興味深い。時代や場所をワープする、それが映画なのかもしれない。
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女は階段から落ちて幽霊になった。異界の者となった。
天から落ちた異界の者。日本にはそんな昔噺が沢山残っている。「羽衣伝説」や「かぐや姫」など。異界の女を手に入れようと、地上の男はやっきになるが、果たしてそれは幸せか。だって、異界だよ、恐くないのか気味悪くないのか?手に余ると思うけどなあ、子どもの頃ずっとそう思ってた。
この映画には幽霊に囚われる男が二人でてくるが。聖域にいるはずの女が堕ちてきたら、男たちはどうなるのか。喜ぶのか、愛するのか、恐れるのか、狂うのか、逃げるのか、ただ受け入れるのか。
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主演のタハール・ラヒム(『預言者』『パリ、ただよう花』など)の大ファンなんで観に行った。割と荒々しい役が多い人だと思う。本作はなんつうか、お坊ちゃんみたいな役でタハール・ラヒムらしくないなあと、もっと情熱的に撮ってくれと中盤まで思っていたが、ラストシーン良かった。幽霊なことに気づいているのかいないのか、図太いのか鈍感なだけなのか狂ってるだけなのか。
それらすべてひっくるめて「愛あればこそ」みたいなところに昇華させてるような気もする。それでこそのタハール・ラヒム。
黒沢監督の『岸辺の旅』『クリーピー』そして本作、ホラーというよりもラブストーリーに重心が置かれているようにも思える。
相手が死んでいようが、自分が死んでいようが、相手も自分もクリーピーだろうが、それでも、男を愛する女というのは、崇高でもあり、どこかしら怖い存在でもあり、やっぱりホラーだなあとも思う。
黒沢監督の次作『散歩する侵略者』もLOVE重視なのかなあ。原作の前川知大さん好きなんだよなあ。楽しみだなあ。
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追記:
「相手が生きているのか判らない怪奇な設定」を受け入れられるかと監督に問われたタハール・ラヒムは、『聖闘士星矢』にも似たような設定があったから大丈夫と答えたそうな。溝口の『雨月物語』とかではなく漫画アニメで答えるあたりがイマドキだなあとも思う。
人は過去を縛り、過去もまた人を縛る
『回路』『叫』の異才・黒沢清監督が海外資本を受けて
フランスで撮った本作。出演陣もロケも言語も勿論
フランスざんすということで彼の個性が活きる作品
になるや否やと思っていたが、蓋を開けて一安心。
黒沢清はフランスで撮ってもやっぱり黒沢清だった。
見えない空間、光の揺らぎ、風のざわめきが醸し出す不穏さ。
何かに固執したが為に魂を失ってゆく人々。
どこまでも曖昧な生者と死者の境界線。
青いドレスの女のぞくりとくるような存在感は流石で、
アウトフォーカスやスロー等の最低限の演出だけで
瞬時にその異様さが伝わるのは彼の真骨頂。
『回路』の赤い女を彷彿とさせるあのシーンなんて、
フランスのファンに向けたサービスかしらと思うほど。
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1839年に開発されたほぼ最古式のカメラ・ダゲレオタイプ。
原理的な説明は……まあ割愛するとして(←逃げ)、
本作を語る上で確認しておくべきダゲレオタイプ
写真の主な特徴は以下の点かと思う。
・焼き増し不可=世界に1枚しか存在しない
・通常のカメラと違い、撮影したフィルムは光の
明暗が反転しない=被写体をそのまま再現する
・露光時間が長い=20分程度は同じポーズで
待っていないと写真にうまく写らない
写真に魂を吸われるなんて言い伝えがあるが……それが
本当ならダゲレオタイプくらいにぴったりのカメラも無い。
思えば土地と写真は似たものなのかもしれない。
露光時間が長ければ長いほど克明に焼き付けられる
ダゲレオタイプ写真と同様、ひとつの地に留まれば
留まるほどに、人はその地に縛られ動けなくなる。
あの幽霊。
夫への復讐だけが目的であれば娘を手にかける
必要はなかったはずだ。娘はきっと、あの土地を、
あの屋敷を、離れたがっていたからこそ死んだのだ。
一方頑なに土地を手放すことを拒んでいたあの父親が唯一
土地を手放すことを考えるなら、それは娘の為だったろう。
結果として彼は娘の死で土地を手放すことを止め、
最終的にはあの屋敷の中で、自らの命を断った。
あの幽霊は、家族をまるごとあの場所に永遠に
焼き付け繋ぎ止めたかったのではと感じている。
人は過去を縛ろうとし、過去もまた人を縛る。
印象的に登場する工事現場の風景。再開発の進む街中で、
忘れ去られたように佇む古屋敷は、それそのままが
人の魂を縛る巨大な銀板だったのかもしれない。
* * *
他方、古典怪談『牡丹灯籠』『雨月物語』のように、
幽霊となったマリーと暮らす事となる主人公ジャン。
やつれた上に外部からの連絡も通じないということは
彼のアパートの部屋も既に異界と化してたんだろう。
彼にとって幸か不幸か分からないが、マリーは最後、
忽然と消えてしまった。あれは死者である彼女と
『死が2人を別つまで』という誓いを立てたが為
だろうか。それとも、マリーは夫婦の誓いを
立ててから彼の元を去りたかったのだろうか。
生きていても死んでいても消え失せても、
マリーはあのままジャンの魂を縛り続けるのだろう。
けどきっと、マリーの魂はあの屋敷に舞い戻っている。
可哀想なマリー。植物を愛した彼女は、自由になりたい
と願った彼女は、ずっとあの死んだ土地に縛られたまま。
みんな逃れられない何かに縛られたまま。
<2016.10.22鑑賞>
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余談:
同監督の映画に登場するロマンス要素はいつも
ストレート過ぎるように僕は感じていたのだけど、
フランス映画で観るとこれが驚くほど違和感がない。
監督って日本より西洋映画と相性が良いのだろうか……。
彼女の「存在」は変わらない
黒沢清という監督は、生者と死者の境界を曖昧に描いている事が多い。
観ている側にとって、本当にその人物が今そこに存在しているのかと疑わせるような、不穏な演出がとても優れている。
回路、岸辺の旅、叫など、多くの作品で見られ、それこそが黒沢清の求めているテーマだと言っていいかもしれない。
そういう意味では、この作品も間違いなく「黒沢映画」なのであって、こんな映画を撮れるのは恐らく、世界でも黒沢清ただひとりしか居ないだろう。
要するに「死」とは何なのかという事である。
まず、マリーは「植物」に思い入れがあるように描かれている。
この「植物」というものこそ、屋敷という地に根付き、ステファンによって身動きの取れない母子の暗喩そのものである。
植物のように枝分かれした拘束器具に繋がれ、彼女達は芸術家の言いなりになり、苦痛に耐えていた。
昭和の日本家庭のような亭主関白ぶりである。
そこから逃げ出すにはどうすればいいのか。
「死」しか無いのである。
少なくともこの作品では、そういう選択肢しか無いように描かれている。
この死者の描き方がまた、いつものように良い。
シーンが変わった時、またカットの始まりにおいて、死者と生者の視点がズレているのだ。
例えばシーンの始まりでマリーが居れば、ジャンは後から画面内に入り、ジャンが画面外に話しかければ、マリーがスッと画面内に入ってくる。
観ている側からすると、そこに話している相手がいるかどうかわからない、宙に浮いたような不穏な時間というか、奇妙な時間のズレがあるのである。
実際に居るか居ないかの問題ではなく、そういったズレた演出が素晴らしいのだ。
だからこそ、彼女の「不在」が見る側に明確となった時のやるせなさも際立つのだろう。
得意の長回しもまた、不穏さを引き立てている。
不穏さと言えば、いつものような揺れるビニールカーテンであったり、芸術家のアトリエとは言い難い、廃墟のような空間であったり、暗闇から人がぼうっと現れる場面の照明の凄さであったり、ワンカットで見せる痛々しい落下であったり、黒沢演出の満漢全席だった。
また、左右に揺れるランプ、カサカサと舞う落ち葉など、どう見てもベルナルド・ベルトルッチの模倣としか思えない演出があった。
余談だが、前作クリーピーにも、死=胎児(ラストタンゴ・イン・パリ)というイメージや、ラストシーンで舞う落ち葉(暗殺の森)など、ベルトルッチ演出が使われている。
別にオマージュ自体はベルトルッチだけでは無いし、クリーピー以外でも使われてはいるが。
だが、フランス映画でここまでの作品が作れたのなら、次はベルトルッチの本場イタリアで映画を撮ってもらいたいものだ。
この作品と同様の、とてつもない傑作を撮ってくれるに違いない。
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