「演出がうまいのか、本当にそうなのか?」君の名は。 やじろべえさんの映画レビュー(感想・評価)
演出がうまいのか、本当にそうなのか?
今頃になって「君の名は」を見ました。
やはりこれだけ話題になっているものですから、どんな映画なのかずっと気になっていました。
僕は、映画にしろ漫画にしろ小説にしろ、かなりこだわりの強い人間ですので、きっと自分には合わないんだろうな、と思っていました。昨今の万人受けする作品はことごとく自分とは合わないからです。
そして、案の定、この作品も合いませんでした。
巷で言われているような、整合性の問題について、僕はあまり気になりませんでした。個人的な考えを言えば、整合性の粗というのは、物語に必ず存在するもので、そこまで気にするようなものではありません。全く気にならなかったといえばうそになりますが、それよりも別のことが気になったというのが正直なところです。
以下、僕が気になった点です。
1、説明調のセリフ
物語の冒頭というのは、とにもかくにも脚本家の力量が出やすいところだと思います。というのも、冒頭部は読者に提示しなければならない情報が多く、うまくやらなければ、物語が非常に閉じたものになるからです。
説明というのは、作者の作為が丸見えになるということです。本来感じるべき世界観やその広がりが、隠されてしまいます。
「君の名は」に関しても、作為が強い冒頭と感じました。
最初に彗星の美しい映像から始まります。正直言えばこの時点から不満がありました。というのも、モノローグや彗星の表現が直接的すぎて、それ以上のものを感じる余地がなかったからです。とにかく力押しで「この作品は壮大なんだ」と押し付けられているような感覚がありました。
「わからない」ものがないんです。美しいのはわかる。彗星がなんかの伏線なのもわかる。でも、そこになにも疑問がない。疑問がないと、世界観は広がりません。「わかっている」ものしかない。
また、三葉視点が始まってからの内容。すでに入れ替わりが起きた後の時点から話が進んでいるのは新鮮でよかったのですが、キャラクターのセリフが説明調すぎます。どこもかしこも「一言二言多い」印象。特殊な田舎の設定なのに、その背景や雰囲気を感じ入る余地がありません。情報を言葉ではなく、そのキャラクターの動きや態度で感じることで、そこに一緒に映るものを感じ取ることができます。セリフは美麗な背景等に溶け込むことがないので、セリフが多ければ多いほどその雰囲気が覆い隠されて作為の強いものとなります。
そして、作為の強さのせいで、物語全体が平坦に感じました。ファンタジー設定も入れ、とにかく美しい景色を前面に出しているにも関わらず、台本通りに進んでいる「作為」が見え隠れしました。
これも、説明調の弊害であると思います。
説明調にしてしまうと、作者自身もその説明に頼ってしまう。本来は、時間をかけて表現していかなければならないことを、説明調で書いたから「表現できた」と満足してしまう。
さらに、作為の強さも相まって、視聴者に雰囲気を感じ取る余地を与えない。
「君の名は」の最大の問題点は、僕はここだと思います。
たまに、セリフなしでBGMと背景を魅せるシーンがありますが、短すぎます。もっと尺をとるべきだと思います。
2、キャラクターが生きていない
この作品、誰にも感情移入できませんでした。瀧が三葉を好きになる過程、三葉が瀧を好きになる過程を描き切れていないのもそうですが、なによりも、「特徴が薄い」の一言に尽きます。
例えば三葉。途中、田舎暮らしに嫌気がさしているところが出てきます。しかし、それは他のクラスメイトも似たような感情を抱いているシーンを出しているせいで、彼女特有のものとして消化しきれません。瀧に乗り移っているときに家庭的な部分が出てきますが、せいぜいそのくらいです。
キャラクター描写には、「その人にしかない部分」を見せていくのが必須だと思います。「その人にしかない部分」は誰しもが持っているものです。それがあまりにも少なすぎ、「お」と興味を惹かせてくれません。無味無臭のキャラにすることで、老若男女に受け入れやすくしている、という見方もできなくはないですが、恋愛物において、それはどうなのかな、というのが個人的な感想です。恋愛ものこそ、もっともキャラクターを問われる部分だと思いますので……。
主役二人以外のキャラも、主役に都合のいいキャラでしかありません。物語に動かされている感が強かったです。
嘘くさい、大げさな反応は、アニメ映画に多いので、なるべくやめてほしいというのが僕の本音です。
3、実はあまり見せ場がない
ところどころ、工夫はありました。
髪を切った三葉。あとで、その理由がわかる仕組み。
また、前述したように、入れ替わりが起こったあとから話を進めているところ。
必ず胸を揉む瀧。
瀧と三葉が出会う舞台として、美麗な場所を用意しているところ。
ですが、全体にわたって時間に追われている感が半端ないのです。落ち着いて見たい場面でも、さらっと流されてしまう。特に前半部はその印象が強いです。あくまで「伏線をひくためのところ」と考えられているような節があります。
しかし、前半部というのは、そうではないはずなのです。伏線をひくだけではなく、視聴者を引き込んでいくところ。僕は映像の美しさだけでは引き込まれない性格ですし、前述したような説明調が気になっていたので、後半部へと気持ちがつながっていきませんでした。
前半部は、重要な場面とそうでない場面とのメリハリをつけるべきだったと思います。すべてが同じような時間の流れ方をするため、作者の魅せたい部分が伝わりにくい結果になったように思います。
4、音楽の扱い方
この作品、全体を通して音響がよかったです。いいBGMや歌、効果音に恵まれていたと思います。
しかし、その魅せ方が「微妙」だと感じました。
言ってしまえば、映像の裏にBGMや歌を垂れ流しにしているだけなのです。BGMに合わせて映像を動かすような工夫はあまりありません。
映像作品において、BGMというのは非常に重要だと思っています。ときに、背景以上に雰囲気や感情を表現します。しかし、BGMを聞き込ませるようなシーンはほとんどありません。
面白くないとは言いません。
中盤、瀧・三葉が入れ替わった時の様子は、にやにやしながら見ることができました。
また、作者の変態性には脱帽します。
口噛み酒。三葉が口から出したシーンは、口〇射〇後の精〇のようでした。それを瀧に飲ませ、あろうことか、受精シーンを描いてしまう。脱帽……いやドン引きしましたとも、ええ。
奥寺先輩は(都合いい人物とはいえ)めっちゃ可愛かったです。
しかし、僕としては、上にあげた点について納得できず、許容できませんでした。
作者のエネルギーを、美麗な映像と一緒に押し付けられたような印象が強かったです。
二つの平行世界が描かれ、のちに時間がずれていると明かされる、というのも、実はかなりありきたりな展開です。むしろ、並行した二つの視点があれば、ほぼ確実に時間がずれていると言ってもいいくらいです。
瀧が3年前に実は三葉に会っていたということ自体は好きな展開なのですが、「私は三葉!」という悲痛すぎる叫びは、むしろ嘘くささを感じさせられました。
電車ですれ違うシーンも、どうしても東野圭吾の某作品と重ね合わさずにはいられませんでした。
洋画贔屓のようなコメントにはなりますが、邦画として大ヒットした作品である以上、洋画にはまだしばらく勝てないのかな、と思わされる作品でした。