「ポストモダニズムの象徴としての君の名は。」君の名は。 scoさんの映画レビュー(感想・評価)
ポストモダニズムの象徴としての君の名は。
この映画を初めて視聴したとき、映像美や音楽との融和性、ストーリーの構成などから純粋に感動し、涙を流した。
ただそれと同時に、設定についていくのがやっとで
「これって矛盾してんじゃないの?」と疑問が消化されないまま
鑑賞を終えたのも事実であった。
ということで、感動を再度味わうために、そして疑問点を解消するために、現在計3度の鑑賞に至っている。
3度の鑑賞で自分が強烈に感じたのは
「この映画はポストモダニズムを鮮やかにかつ力強く描き出している」ということだ。
このレビューではポストモダニズムとそれが乗り越えていこうとしているモダニズムを以下のように定義する。
モダニズム=近代合理主義的な考え方。神や愛、感覚といった物理的、論理的につかみどころのないものよりも、理性に基づいて科学的に物事にアプローチしようとする態度。地球上で理性を持つ唯一の存在とされる「人間」を世界の中心として考えるため、自然を人間に従属したものとしてとらえる。
ポストモダニズム=脱近代的な考え方。近代が生み出した問題点を乗り越えていくために、近代合理主義の恩恵を認めつつも、理性でとらえられないもの、人間以外の存在(宗教、自然、愛など)も同時に大切にしていくべきであるとする態度。
ポストモダニズムという切り口で「君の名は。」のストーリーをみていきたい。
物語の序盤でてっしーが、前日の様子がおかしかった三葉に対して
その原因が「それって、前世の記憶?エヴェレット解釈に基づくマルチバースに無意識が接続したっちゅう!!!」というなにやらわけの分からぬことを、オカルト雑誌を開きながら発言するシーン。
同級生の様子のおかしさを理性では到底とらえられぬオカルト的要
素に帰結させるてっしー、ナイスである。
このてっしーの存在がポストモダン的な生き方の一つ象徴なのだが、それはまた後程。
そしてその夜、組紐作りにいそしむ宮水一家の様子と
巫女装束に身を包み儀式を行う三葉・四葉の姿が映し出される。
近代が下等なものとして興味の埒外に置いた「宗教」的要素が非常に美しく描かれている。
その中で、おばあちゃんが「文字は消えても伝統は消しちゃいかん」といった趣旨の発言をしたシーンも興味深い。
これは「オーラルヒストリー」を端的に表したセリフだ。
「オーラルヒストリー」とは、近代合理主義的な歴史分析の「文字という、理性で客観的に把握可能なもの」をもつ物にのみ歴史が存在し、文字を持たないすべてのものは同時に歴史をも持たないという立場を乗り越えようとする歴史観である。
たとえ文字は消えても、土着の人々の力で時には口頭で、時にはもの(組紐)で文化(歴史)を伝承していこうとする態度だ。
また、三葉・四葉の父、俊樹が妻を亡くしたことから神への懐疑を抱き、神社を出て政治の道に進んだことが明らかになったシーンは
まさに、モダニズムの象徴である。
神が世界の中心であった中世から、人間を世界の中心に据えて
人の力で世界を変えていこう(その手段は往々にして政治もしくは商業活動だ)とする態度が端的に表れている。
町長に再度選出されるために土建屋への根回しをするなど
非常に理知的に物事を進め、娘(中身は瀧だったが)の「彗星が町に落ちてみんなが死ぬ」という主張にも一度は耳を貸さず、「病気だ」と合理的な反応を見せる父は、近代主義を凝縮したような存在である。
そして、物語のキーの一つである「彗星」に
近代合理主義への警鐘が読み取れる。
三葉との入れ替わりが起きなくなった瀧は、三葉に会いに行くことを決意。途中立ち寄ったラーメン屋で手がかりを得、糸守へと向かうが、そこに待っていたのは壊滅し、町が消失した糸守だった。
物語のなかで非常に美しく、幻想的に描かれていた彗星が、実は破滅の象徴であったという事実に、私は驚きを隠せなかった。
ここから読み取れるメッセージは、「結局のところ自然は人間の思い通りになるものではなく(作中でも、彗星の核が砕けて落下をすることをだれも予測できなかったというセリフがある)、時には人智を超えた力をも発揮し得る。そんな自然を支配しようとするのではなく、崇拝し、時には恐れ、共存していくべきである。」ということではないだろうか。
彗星の落下によって糸守は壊滅し、三葉も死んだ。
この事実を知った瀧は、様々な苦悩を抱えつつも口噛み酒によって再び三葉との入れ替わりを行い、糸守を、そして三葉を救うことを決意する。
さやちんとてっしーと共に糸守救出作戦を練る瀧 in 三葉。
ここでてっしーがポストモダニズムの象徴であるということが一層鮮明に見えてくる。
防災無線、重畳周波数など普通の高校生では知りえないような科学的な知識を披露し、高校生にしてMacbookを操る。
非常に理知的な印象を感じるシーンであるが、先述のように、このてっしー、オカルトマニアである。ほかの方々のレビューでも言及されているように、オカルトマニアであるからこそ、「彗星が落ちてみんなが死ぬ」という突拍子もない言葉に真摯に向き合えたのだ。
狐憑きや彗星の落下といった非合理的なものにも心を開き
問題を解決するときは理知的に、合理的に。このようなてっしーの生き方は、ポストモダンな現代に生きる我れにこそ必要な生き方であろう。
御神体のある地でカタワレ時に奇跡の出会いを果たした三葉と瀧。瀧から作戦を引き継いだ三葉は町へと戻り、父のもとへ。
ここまで見てきたように、三葉の父・俊樹は
モダニズムの象徴的な人物である。
一度は「彗星が町に落ちる」という発言に全く取り合わなかった父。
しかし、傷だらけの三葉の姿、そしておそらく、三葉の熱意に押され、消防団の出動を命じたようだ。
この出来事に、ポストモダニズムが集約されている。
近代的、合理的な考え方で行動してきた父が最終的には
娘の「熱意」によって「感情」を動かされ、非合理な事実(町長は山火事はないとの連絡を受けていた)から目をそらさず、
意思決定をしたというこのシーン。
まさに、非合理が合理を乗り越えた瞬間であろう。
このようにポストモダンという切り口でみても印象的なシーンがとても多い「君の名は。」。
私の周りの友人たちは意外にも辛口だ。
「時間軸がずれた入れ替わりなのだから、糸守がすでに壊滅していることにお互いが気付かないのはおかしい。」
「日常生活の中で今が西暦何年なのか、普通に気づくはず」
「メモなどの非効率な方法ではなく、もっと早くスマホで連絡を取ろうとするはず。」などなど・・・
確かに、非常に理にかなった指摘であり、「なるほど」と思わされた。
映画や小説などは非常に精緻に、矛盾がないように作成されることが前提の現代において上記のような点は確かに気になるポイントではある。
しかし、この映画を見て、純粋な感動を覚えた私は、あえて声高に主張したい。
「それでも良いではないか!!!!!」、と。
細かな矛盾はあれど、「映像美」や「音楽」といった
「感覚的」なものを基礎に、ストーリーにもふんだんに非合理的要素が散りばめられた本作が多くの人の心(外国人の心さえ)つかんだというのはまぎれもない事実である。
憶測の域を出ないが、新海監督をはじめとする「君の名は。」の製作スタッフは、あえてこのような矛盾点を残したのではないだろうか。
矛盾はあれど、映像、音楽、ストーリーによってそれらに対する疑問をはるかに超えた感動を生み出そうとする大いなる挑戦=理性万能の近代合理主義を乗り越え、感覚的でメタフィジカルなものにも焦点を当てていこうとするチャレンジ。
確かに、爪痕を残したのではないだろうか。この映画がヒットしたということは、人々の中に近代合理主義への懐疑が生まれている証明になるかもしれない。
あるいは、人の心を動かすのは論理ではなく、感情的な要素だ、ということの証明だろうか。
いずれにせよ、言葉や論理を超え、直接感情に訴えかけてくる本作が素晴らしいものであるということに、変わりはない。