或る終焉 : 映画評論・批評
2016年5月17日更新
2016年5月28日よりBunkamuraル・シネマほかにてロードショー
最後の瞬間まで続く緊張の糸に、監督が委ねたもの
ティム・ロスとは思えないような、どんよりと重たい、猫背気味の彼の佇まいが印象的だ。病床にある患者をまるで壊れもののように繊細に扱う、終末ケアの看護師デヴィッド。その一挙一動に、患者の要望を知り尽くしている彼の熟練と献身が見てとれる。だがその完璧さが逆に、どこかいびつな印象をもたらす。ほとんどが自宅と患者の家の往復である日々の隙間から、微かに浮かび上がってくる彼の背景。少ないセリフ、わずかなヒントをパズルのように繋ぎ合わせることで、彼の孤独と屈折が浮かび上がる。
患者の遺族と悲しみを分かち合うこともせず、かと思えばあるときは、知り合った赤の他人に、亡くなったばかりの患者を最愛の元妻のように語る。じきに逝くとわかっている人間とだけ親密な関係を持てるこの主人公は、いったいどんな人物なのか。その寡黙さと無表情の奥にどれほどの闇が存在しているのか。この静かな映画を観すすめるうちに、観客の心にはそんな問いが、どんどんと大きくなっていく。そしてその謎を解く手がかりはどこにあるのかと、懸命に目を凝らすようになるはずだ。その緊張が最後の最後まで、一瞬も緩むことなく続くことに、ミシェル・フランコ監督の技量を感じさせられる。
だがそれは、「マニピュレート」とは異なる。たとえば彼を、ミヒャエル・ハネケと比較することも可能だが、ハネケの映画にある種の「作為」を感じるのに引き換え、本作にはそれがない。それはフランコがあらかじめ結論を用意することなく、すべてを潔く観客に委ねているからだろう。この主人公をどのような人間として解釈しようが観客の自由。否、彼にさえ、デヴィッドの抱える屈折の謎は、解けないに違いない。ただ人間のなかにそのような闇があることを肯定し、差し出す。それを見つめることによって、たとえ解決にはならなくても、我々は何かを得られるのではないか、というささやかな思いを込めて。
思えばティム・ロスも、近親相姦を扱った自身の監督作「素肌の涙」で、やはり人間の闇を真っ向から見据えていた。「或る終焉」はフランコの前作、「父の秘密」に感銘を受けたロスとの出会いから実を結んだと聞くが、両者の作品が誰をも断罪しない、という共通点をはらんでいることを思い起こせば、それも納得がいく。このふたりが紡ぎだすささやかな物語は、圧倒的な厳しさをもって我々に、人間の心の奥底を見せつける。
(佐藤久理子)