A2 完全版のレビュー・感想・評価
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匿名性を有さない、一人称としての人間を撮り続けた続編
95年に地下鉄サリン事件を引き起こした宗教団体・オウム真理教をその内部から密着したドキュメンタリー映画「A」の続編。事件から5年後を舞台にしている。
前作の「A」が、同教団広報副部長荒木氏への密着を主軸とした作品であるのに対し、今作の「A2」は、「教団」と「社会」それぞれの接点を生々しく追うことで、存立する両者を描いた作品と言える。
行く先々で行政や住民から立ち退きを要求される教団。カメラマン兼監督の森はいくつかの拠点に入り内部からその様を撮影し続ける。数千人規模で立ち退きデモを行なう地域や町長・助役などが総出で説得にかかる地域、近隣住民の代表団が自身の人生論を振りかざし説教にはいる地域などなど、「教団」と「社会」の接点がリアルに映し出される。
そして、そのなかで住民側が異口同音に教団に対して語るのが、「それが世の中ってものだ」という価値観。
確かにあれほどの凶行を起こした不気味な集団が自宅の近所に越してくれば、一見、過剰と思えるほど反応するのも理解できる。
一方で、その言葉を聞かされた信者達はいつも戸惑いの表情を隠さない。それは、あの事件を正当化するための抗弁を思いつかないから、ではどうやらないらしい。教団の成員は大なり小なり、住民が振りかざす「世の中」という常識に嫌悪し、疲弊し、オウム真理教という隔世の庵に自らの意志で入り込んだ人たちだ。だから、「世の中」という価値観を提示されても、恐らく理解できないのだと思う。
そんななか、驚くべき光景が映し出される。
地域住民のボランティアによる、「殺人集団は出て行け!」などといったおどろおどろしい文字の看板をたくさん掲げたオウム施設を監視するテント。そのすぐ近くで監視員の住民とオウムの信者が楽しそうに談笑しているのだ。おそらく本作品の一番の見せ場だ。
「いや最初はね、怖かったですよ。でも、話してみるとね、情が移るというか、悪い奴らじゃない。嫌いじゃないですよ」と臆面もなく語るボランティアたち。
「こういう場面はマスコミは報道しないですから。やっぱり『オウムは悪者』のほうがいいんでしょうね。新聞だって売れなきゃ困るわけだし、テレビだって視聴率が大切でしょうし」と自嘲気味に語るオウム信者。
監視テントが解体されるときはオウム信者が手伝いに来て、オウム信者が別の拠点に転居することになったときは住民が名残惜しそうに見送りにくる。当初の緊張状態からは考えられない光景が目の前に映し出されている。
これは何を意味するのか。
何となく言及される「教団」や「世の中」といった概念や価値観としての集団は、スクリーンに映し出されるひとりひとりの人間で構成されている、という当たり前すぎる事実を私たちは結構簡単に忘れる。彼岸のこととなる。
だから「世の中」「社会」という価値観は、昔から何となくそこにあるのではなく、ひとりひとりが作り出しているのだという紛れもない事実をこの作品は教えてくれる。
集団の犯した罪は重い。そして、それに対して集団となって防衛しようとする反応も自然だ。けれども、対峙する目の前の信者や監視員は集団ではない。ひとりの人間だ。集団の持つ匿名性に逃げない、それぞれがひとりの人間として語らうとき、接するとき、人は人足り得る。
対照的な場面も描かれている。
地域住数千人が街中をデモ行進し、オウムの住む一軒家にたどり着く。代表団がインターホンを鳴らし「お伝えしたいことがあるので出てきてください!」と意気込んでいう。信者は「せっかくお越しくださったのですから、どうぞ中にお入り下さい」という。すると、代表団は普通の家に十数人で門をくぐり、玄関のドアを開けたところで簡単な文書を手渡し、「これをこれから外で読み上げます!」とだけ告げ、ドアを閉め、門の外へ出て、拡声器でその文書を読み上げる。オウムは出て行け。殺人集団は出て行け。これは住民の総意であるという文書。
信者たちは不思議な表情で拡声器から流れる罵声に耳を傾けながら、「なんでさっき、中に入って言わなかったんだろうね?」と苦笑をする。
手法や表現技法は変容、進化しても、つまりところ、森は前作から一環にして「人間」を描き続けている。匿名性を有さない、一人称としての人間。その弱さ、強さ、豊かさ、曖昧さを描き続けている。そして、オウムと何らの対話も持たず、何の理解をする努力もせずに拒絶だけが描かれている社会は、まるで観もせずに封殺・非難された前作「A」をダブらせているようにも思える。
ちなみに森は前作「A」よりも自身が被写体として映し出される覚悟を決めた作品とも読み取れる。実際、住民によるオウム反対集会に参加した森は、無自覚にオウムの恐怖ばかりを論う住民をつかまえ、「話しをしてみてはどうですか?」と語りかける場面や住民とオウムの対話の場を取り持つシーン、荒木氏に「賠償を続けるオウムは本来のあるべき姿ではない」と嗾ける場面などもある。さらには上祐氏の出所を巡り、右翼団体が街宣車でかけつけ、激しい抗議行動を取ったりするが、そこにも右翼団体内部から密着して追い続けている。
どこにでも入り込んでいく森達也。不思議な人だ。
人の自由、人の自由、、森監督は自由
A 鑑賞後続けて見た。
だいぶ印象が違う、オウム信者たちが歯切れが悪くなっている。
森監督のズバリな質問にもホンネでもタテマエでもズバリ答えない。
前より自分のカンを信じてないというか。
最初の方の監視してるうちに仲良くなって本の交換したりしていた町だか村のおじさんおばさんたちは自分のカンでこの子達が大丈夫な子とわかってつきあってる。唯一?かわからないけどこの作品の良い場面。
オウムの拠点に右翼が貼り付き、右翼がデモ行進シュプレヒコールして、右翼が住民の声を代表してるとかオウムや警察、マスコミにマウントとるこっけいなシーンなどもあり街宣車に乗っちゃう森監督とかなかなか面白いんだが。公務執行妨害してるのに捕まえない警察、相変わらず人としての感覚ずれまくり有害なマスコミ、
河野家でのオウムたちのていたらく、、、ぶれちゃったな。状況も変わったし、歳も取ってきたし、、、
チグハグな日本社会
ムラ、群れ、集団としての振る舞いと、個人として一人一人の振る舞いやカン、、、
森監督の言う通り、オウムの事件をひとつよきっかけに日本の世の中が悪い方に行ってしまったことはそうだろうと思うし、ここでもまた上祐がでてきてオウムからアレフに名称を変えて、、、あれ、あれ、名称変更ね、となる。
30億なんぼという賠償を約束した会見には上祐はなく、このまま名称かえて迷惑かけないようにやってくでおわらされたらたまらん、このまま消えていくのもたまらんと森監督に詰められるのも荒木氏。この頃のことは全く興味も知識もなかったけど今観ればこそな、、、、、
Aの時より、全てのステークホルダーが、世の中が歯切れ悪くなっている。
「この写真見て、安心したと思うんだよね」「ええ!逆じゃないの?」
この会話にみるように、かつて気安かった友人同士であっても、理解し合えることは無理なのだ。今の状況を辛いと微塵も思ってやしないのだから。彼らにとって「現世」は、何度も生まれ変わるうちのひとつなだけなんだもの。例えば僕らにとって、一年我慢すればいい、くらいのものなんでしょう。しかしね、前作「A」と立て続けに有料配信で観ているので、ちょっと荒木に感情移入しそうになる。だって彼、いじらしいもの。祖母に会いに行く彼は、心優しい青年でしかなかった。だけど、教団としての罪は認めて贖罪すべきであることとは別である。それに、彼らは甘い。河野さんへの面会なんてその極みだった。
今回、格落ちであった教団代表陣に、出所してきた上祐が復帰。緊張も高まる。だけども、まだ進行中なのだこの一連の騒動は。
講談的に言えば、このあとが物語の面白いところですが、お時間っ!ってなる。実際、このあと現在(2020年)に至るまで教団に相当な変化がある。さあ、それを続編でどう描くか。(あれ、もう描いてあるんだったか?)
オウムが起こした事件の異常性を改めて─
オウムが起こした事件が、いかに世の中を狂わせているのか、ひしひしと伝わってくる。オウムの信者が移動する先々で巻き起こる住民反対運動や監視活動はその最たるもので、作品を見る限りにおいては、住民側の異常性が際だっている。それも致し方ないわけで、あの殺戮を引き起こした集団への不安はぬぐい去ることはできない。しかし、集団としてではなく人として接すると、わだかまりが解消されてくるから不思議。地域に溶け込めないから否定されるし、拒絶される。溶け込んでいる数少ない例を見ると、オウム出ていけ!が形骸化されていることに気がつかされる。人として彼らを何とかしようとしている人は少なからず存在するけれど、等の集団はそれを受け入れるような気配を感じ取れない。人と人が仲良くなれても、オウムというものが受け入れられる余地はないように思う。それはどっちも理解しようとしないから・・・
信者と新聞記者になった信者の級友が友達として取材しているシーンが非常に印象的。いまだに友として親しみを持っているけれど、どうしてもお互いを理解できない。なかなか泣かされるシーンだが。だからこそオウムが起こした異常事態を改めて痛感させられる。
不安社会
密教系/終末思想の救済型、普通の新興宗教やん。マスコミ・市民・警察・右翼・教団のデタラメっぷりが20年後の視点だと露呈=ISISて形でより広域化してる現状。当時の日本社会は完全に不安障害、テロが日常化したのが2016年現在
もう宗教をタブーにしたままではまずい
はじまってそうそうに手振れで酔って、ほとんど目をつぶっていたので、かんじんなところを見逃してしまったかも。
このドキュメンタリーで感じるのは、「そうそう、現実ってこうだよね」てこと。
テレビで報じられるオウム事件は、作為的なストーリーでごてごてにされていて、全体にウソくさい。現実を見ているように見えない。もっといえば、自分のいるこの現実と、テレビの中にある向こうの世界、という感じで、地続きになっている気がしない。
A, A2の趣旨の1つは、我々がテレビで見せられているのは、「意図的なストーリーに沿って作られた虚構の世界である」ということなんだろう。
オウム事件は、被害の大きさという理由だけでなく、日本社会にとって極めて重大な事件だったと思う。
そんな重大な事件を、虚構の世界を通して表面的に理解したつもりになってしまうのはとても恐ろしいことだ。
とくに、オウム信者を自分たちとはまるっきり違う異質な存在(たとえば、凶悪犯罪者のような)ととらえ、彼らを排除しさえすれば問題が解決する、という考え方ですませてしまうことは、何の解決にもなっていない。
正常なこちら側と、異常な向こう側、という視点や世界観を提供してきたのがマスコミなんだと思う。
本作のような、オウムを内側から撮影した、生の生活の実体に近い映像の方が、はるかに面白く、考えるべき材料が無数にあることに気づかされる。
とても印象深いシーンがたくさんあった。
もし自分が麻原に命じられていたら、実行したか、と聞かれた信者が、言葉を選びながらも、「するだろう。それが信仰だ」ということを、実に自然に答えるところ。
彼らのサイコパスっぷりに、ではなく、彼らが無差別殺人という、絶対に超えられないはずの壁を超えてしまった理由が直観的に理解できたことに、身震いする。
彼らにとっての信仰がなんなのかがわかり、それは同意できないまでも、宗教としてはあり得ると思った。
彼らの世界観の中では、「人を殺してはならない」という一般的な倫理観にとらわれてしまうことが、エゴであり、迷いであると認識される。
宗教者は、一般的な価値観や常識を理解していないわけではない。俗世とか世間法とかよんで、真実を理解し、実践している自分たちとは低いレベルのものだと考え、ある種見下げているのだ。
その意味で、より世界を俯瞰的に見ることができているのはオウムの方であり、狭い常識や世界観にとらわれてしまっているのは、反対運動をしている住民の方だともいえる(少なくともオウム信者はそう考えていて、そういう世界観=彼らにとっての真実、に生きている)。
オウムの信者たちは、信仰のコミュニティの外では生きられない人間でもある。
彼らを単なる少しおかしくなってしまっただけの頭の弱い人、みたいにとらえて、そんなカルトから抜けて、まともな社会人になれよ、みたいに言うことは、とても的を外している。
この映画には、オウム信者、反対運動の住民、マスコミ、右翼、警察、様々な立場と思いをもつ人達が登場するが、皆、どこか愛せる、日常に生きる普通の人々に見える。
そして、対立しているはずの人達が、ずっと一緒にいるうちにだんだん仲良くなってしまう様子を描いているのが、この映画の一番の見どころになっている。
一般のマスコミの報道では、このような様子はマスコミが演出したいストーリーにうまくはまらないので、排除されてしまう。
しかし、「立場の違う人たちでも仲良くできる」「多様性を認めることが大事」なんていう薄っぺらいことですませられることではない。
オウム信者と地域住民は、心の根底ではおそらく絶対的に分かり合えない価値観や世界観を持っている、にも関わらず、表面的には(日常では)仲良くできてしまうことが、恐ろしいことだ、というように思う。
表面的に何も起こらないことで、記憶も、印象も、風化していくままになることをなんとなく許容していく。問題は何も解決していないのに、人が一緒にいるだけで、気安く話せる仲になっていく。それが良いことなのか、悪いことなのか、分からない。
この問題はあまりに考えるべきことが多すぎて、複雑で、思考停止になってしまうほどだけれども、日本でも世界でも、「お隣さんはテロリスト」ということが不思議ではなくなってきている今、きちんと向き合わなければならないことだと思う。
かつて同じ部活動の仲間だった同級生が、一方はオウムに、一方はその取材をするジャーナリストになり、なぜこうなったのかね、と話すシーンはなにか物悲しい。
両者は、どちらも、自分の道が正しいと感じている。一方が一方を哀れんでいるようでもない。ただ、違った道を行っただけ、という感じ。
なぜなんだろう?という疑問だけが残る。
オウム信者に、頭が足りないとか、常識が無い、とかは感じない。もちろん、自分だったらこうはならないな、とは思うが、彼らと自分が全然違う人間だとは思わない。
むしろ、現実や自分のあり方に悩む青年、誰もがなり得る可能性の1つではないか、と思う。オウム信者は自尊心が強く未熟なところも感じるが、正義感が強く、真摯で真面目な人間にも見える。
だから宗教はこわい、という話でもあるけど、宗教ではなく、他の道で生きがいを見つけられたら良かったのに、と考えるのは意味が無い。
彼らは、たぶんいろいろな道を模索して、彼らの中で、これしかない、と見つけた道がオウムだったんだろうと思うから。
オウム信者が河野義行さんの家を訪問したとき、彼らがノープランだったのを河野さんにたしなめられて、「セレモニー」としての言葉は用意しておくものですよ、ととても大人の対応をされて、まるで小学生がその場で発表会を相談するみたいに、マスコミ向けの文書を用意するところが、彼らの幼さというか、未成熟さをよく表していると思う。
オウムだけではなく、日本全体が幼く未成熟なんだな、と、いろいろな場面で感じた。
幼い、というのは、自分が何なのか、どうしていきたいのか、何が望みなのか、他人をどうしたいのか、何を目指しているのか、そういったことが定まっておらず、仮に決めたとしてもそれに確信を持っておらず、他人に語る明確な言葉を持っていない、というところだ。
マスコミや反対運動の住民も、ただ自分たちのエゴを単調に繰り返しているだけで、主張する言葉はあっても、語る言葉は無く、そのために「言葉」が言葉としての機能を持たず、空転しているようだった。
この完全版では、三女のアーチャリーの場面が入っている、ということが完全版たる理由だったようだ。たしかに、教団にとって重要な位置づけである彼女の、素の言葉や表情を見れたのは良かった。
警察の監視役と仲良く会話している様子はほほえましかった。
オウム信者をいくら責めても、彼らは彼らとして生きていくしかない。そして、彼らを否定する価値観や世界観よりも、肯定するそれらの中で生きていくことを選ぶのは、当たり前のことだろう。
解決は難しいだろうが、せめて、宗教にまつわるこれらの問題点を共有することができれば、と思う。その、立場を超えた俯瞰的な視点の足がかりとして、この映画は重要だと思う。
宗教や信仰の問題はオウムに限らず、とても身近で重要だ。政党の中には、宗教団体を母団体と持つものもあるし、若い人をねらった新宗教の勧誘も多い。
宗教について語ることをタブーとしたままではまずいと思う。
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