映画 聲の形のレビュー・感想・評価
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リアルな人間関係
素敵な作品!という言い方は出来ないが
忘れられない作品になった。
登場人物それぞれ人として嫌な部分っていうのがあって
でもそれがリアルな人間みを感じた。
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・いじめてた立場からいじめられる立場に逆転して、
いじめられる側の気持ちを知る、石田将也。
・全ては自分のせいだと、なんでも謝ってしまう、
笑って同調するだけの西宮硝子。
・一方的な解釈で責め立てる言い方しか出来ない植野直花。
・自分は悪くないと正当化させ、被害者ぶる
自分が可愛くて仕方ない、川井みき。
・いじめられてる子と仲良くしていたが、
自分までその対象になってしまって
耐えられず逃げる、佐原みよこ。
・いじめてたグループにいたにもかかわらず
自分はいじめをとめたけど、と人に擦り付けて
いじめていたヤツはいじめていいという感じで
石田をいじめる島田一旗。
・いじめを見て見ぬふりしていたのに問題が発覚すると
1番目立っていじめてた石田をいじめの犯人だと
1人に責任を擦り付ける先生。
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ここから投稿主の話になるが、小中学生の頃
クラスには、"植野"のような子が沢山いた。
その子が少し気に入らなかった些細なことでいじめられた。
一方的な理由で責められる、無視される。
ある日突然仲良くなって、またいじめられて。
それを繰り返した。そのグループの中には、
私はなにもしてませんよって顔する、
"川井"のような子もいた。
やっと、そこから抜け出して
目立たないグループに落ち着いた時、
その頃いじめられた子をグループにいれた。
最後まで一緒にいたけど、私たちもいじめられた。
逃げたくなる"佐原"の気持ちもわかった。
そんな日々を過ごして、
いじめられるのは自分が悪いんだ。と
思うようになって"西宮"みたいに
「ごめんなさい」をよく言うようになった。
同調して笑うようになった。
"石田"のように、顔があげられなくなって
周りの声も聞かないように出来た。
映画の初めから最後まで色々な記憶が蘇ってきて、
涙が止まらなかった。
いじめられることは良くないことだけど、
いじめられたからこそ
優しくできるようになる"石田"の気持ちも分かる。
(いじめてたくせにという意見もあると思うが)
そして自分もいじめの被害者の立場でとらえていたけど
気が付かないうちに誰かを
傷付けていたのかもしれないな、ってふと思った。
人間みんな違う"聲の形"で誰かを傷付けてしまっている
可能性があるということではないのか。
そして永束友宏くんのように声を出して
救うことも出来るんだろうな、とも思う。
リアリティと創作のはざまで
3年前に観る機会がありましたが、そのときは冒頭しか観れずじまいで今回テレビ放映でやっと最後まで観られました。
非常に評判の良い作品なので、物語についてあれこれ言うのは野暮ですが、とても細部までこだわって作られている作品なので、観る人は自身とリンクさせ感情移入しながら観ることになると思います。
しかしそうなると、登場人物が美男美女ばっかりだったり、舞台が岐阜らしいが誰も訛ってないし、今時あんなに高圧的で、児童の名前を呼び捨てにするような小学校教師なんて存在できないだろうし、鯉がいるような川があんなにきれいだとは思えないし、そもそも今の時代、害魚である鯉に餌あげちゃいかんだろうし、パンなんか投げ入れてもっと水質悪くしてどうするんだとか云々、内容にリアリティがある分、リアリティに徹底しきれない、またはあえて美化している部分によって、この作品があくまで作り物であると何度も再確認させられてしまいました。
作品作りに徹底的にこだわる京都アニメーションの作品ですから、原作をアニメ化するうえで相当な試行錯誤があったと思います。
たとえば劇中何度も登場する美登鯉橋のかかっている水門川?がおそらく実際はあまりきれいではない川だろうに、印象的な映像にするためにあえて美しく見せた(けど、実際はあまりきれいではないことを水草の量で表現した)んだろうとか、主人公たちが何度も鯉に餌をあげることで、聖地巡礼と称して外来種かつ害魚(飼えばわかるが鯉は相当水を汚し、他の生き物を食べつくしてしまう)である鯉のいる川にパンを投げ入れ環境&水質汚染にいそしむ人々が多く訪れるであろうことを想定し、舞台である大垣市と相談し、それでも観光産業につながるなら良いという市の判断の上で制作したんだろうとか、特に小学校のくだりは、20~30年前の価値観の小学校で、もしあんな学校が現代にあればネットやマスコミにかなり叩かれるだろうとか等々、リアリティと創作とのはざまの試行錯誤の中で、最終的に劇中のような表現方法をとったのであろうと、ついつい想像させられながら観てしまったため、物語はよい内容なんだろうけども、何度も現実に引き戻され、あくまで創作物であると何度も確認させられてしまいました。
これは観る者の生活環境に近いリアリティがあり、共感する部分の多い映画あるあるですが、共感して感情移入してはリアルではない部分が浮き彫りになり現実に引き戻され、また共感し感情移入してはリアルでない部分に興ざめさせられ、ということがよくあります。
SFやファンタジー、歴史ものや非現実的な設定の内容なら観客は最初から割り切って、その世界に流れるパラダイムを読み解きながら映画を観進めるものですが、その作品が我々の現実の世界を舞台とした場合、当然我々は現実の生活において考えるのと同じように、作中での出来事に対して、「こうなったらこうするだろう、こうなったらこう考えるだろう、こうなったらあれもこうなるだろう」と考えながら観るわけです。そのため、かえって現実との齟齬が物語の感情移入への妨げになってしまうことがあります。
しかし正直、アニメ作品でこのような感覚は初めてで、アニメがかなり説得力をもって我々の現実に近づいてきたことには驚きです。
逆を言えばこの作品がそれだけギリギリまでリアリティを追求した作品であるという証拠でもあると思います。
上に挙げた小学校の件や川や鯉の件などは、小学生の子供を持ったことがなかったり、外来種について考えたことがない人々にとっては全く引っかかる要素のない部分でしょうし、この作品のターゲット層に対し、物語を印象付けるための演出として誇張や美化をした部分なのだと思います。
そのような面で、今までは我々が生活する現実世界とは非なるものだったはずのアニメ作品が、我々が生きている現実での思考方法で考えさせられ、現実での対人関係で相手の感情を読み解く方法で、登場人物たちの言動からその感情を読み解くことができるアニメ作品が現れてしまった、ということに驚かされた作品でした。
視点は良かったけど所々理解不能な所があり消化不良
とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。 傷つき...
とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。
傷つきやすく脆い痛々しい感情や、もどかしい迷いを丁寧に描いてる。
「周りがみんな他人に見える孤独」「他人の顔を直視できない、向かい合えない、閉ざした心、みじめな劣等感」たくさんの感情をこめて、「X」で顔が見えないというシンプルな映像で表現する、アニメでしか表現できない表現が見事。
ラストシーンの表現はすごく感動した! 主人公と一緒になって泣いてしまった。同じ光景を見ている、と共感できた。まるで世界に祝福されているような幸せ感が、身近な何気ない光景の中でリアルに伝わってきた。
この「X」の場面をはじめとして、言葉では一言も説明せずに、映像だけで感覚的に、かつ鮮やかにわかりやすく表現する場面が多くあり、そこにはとても静かな、まるで水の中の無音空間のような、自分の心臓の鼓動だけがかすかにきこえるような感覚の、不思議な音楽が流れている。
まるで、耳のきこえない少女の感じる世界と、身体的には障害なんて無くても 心に障害を背負っているかのような生きづらさを抱える 登場人物たち(そして私たち)の感覚がリンクしていくような気がする。
(京都アニメーションの表現は本当に素晴らしい!!✨)
とても、感動した。
それでも批判する人もいるように、確かに、完璧な感動作品だ!とすべてを絶賛できるとは限らない。
やっぱり、自分をあんなに酷くいじめていた人達を、あんな風に「友達になりたい」「会えて嬉しい」「好き」なんて、私なら思えない。硝子は純粋すぎて、心が綺麗すぎる。天使かと思えるほど愛らしくて、ちょっと現実味を感じないほどのヒロインだ。
硝子のように、「自分にちょっかいをかけてくる(実際は酷いいじめだが)=自分に興味をもって構っている → お互いの気持ちが伝われば、つながれる、友達になれる」と思い、そう信じることができるのは、すごい。硝子は儚げに見えても、本当はとても強い心をもっている。
(しょうこと読む名にも色々な漢字があるけれど、この少女は硝子、ガラスだ。 儚げですきとおって光りを映してキラキラと輝くけれど、脆くて、傷つきやすく壊れやすい。壊れてしまうと、他人をも傷つけてしまう。 現実には人名に硝子と付けることはないが、この少女のイメージにぴったりだ。)
現実の世界なら、あんな酷いいじめを受けたら、笑顔なんか失くしてしまい、どんなに可愛らしい子どもだって、表情は暗くなり 可愛く見えなくなってしまう。本当はとても可愛らしい子なのに 落ち込んでいるせいで可愛く見えない(いわゆるブスに見えてしまう、いや、ブスにされてしまう)子は、現実にいくらでもいる。(大人から見たらみんな可愛く見えても、子どもは子ども同士ではシビアだ。理想的な容姿でない人はみな簡単にブスというレッテルを貼られてしまう。)
そして、主人公の少年がいつまでも彼女のことを忘れられずにいるだけでなく 何度も勇気を出してつながろうとしたのは、良心の呵責と贖罪の想いだけではなく、彼女があれほどの美少女だったからだと感じてしまう。現実の、いじめられて暗い表情をしている少女だったなら、贖罪したい気持ちは起きても、つながりたい 友達になりたい 今度は自分が守りたいとまで、あんなに強く思うだろうか、と感じてしまう。
そんな違和感はあれど、批判なんて思わない。しょう子のようにポジティブに他人を(むしろ敵さえも)「友達になりたい」と受け入れる強さ、純粋さは、レアケースではあっても、あり得ないわけではない。重い障害をもつ人が「この人達は、自分を障碍者だからと遠慮して敬遠するのではなく、対等感と興味をもって近づいてきた」と嬉しく感じることも、あるのだろう。障碍者とひとくくりにしがちな私達と同じように、人それぞれみな違う感じ方や性格をもっているのだから。
そういうことも含めて、すれ違う人達の心を、みにくさも目をそらさずに描き、繊細に表現した素晴らしい作品だと思う。登場人物はみな未熟で 自分を守るのに必死で、傷つけあうけれど、本当の悪人は誰もいない。
(しかし、序盤の、担任教師の描き方は不満だ。数多くの作品にあのような教師が出てくるが、現実にはレアケースだ。あんな酷い教師は普通いない。いじめに遭った経験のある子どもが、記憶の中で 美化の逆に醜悪化して、極悪な印象に変えてしまっていることが多いのだろう。)
余談ではあるが、この作品の力を信じ、その影響力に願いを託して、これまでにTVが放送したことにも、とても特別感を感じる。NHKが、夏休み最終日(統計上、未成年・学生の自殺率が年間で一番多い日付。つまり、生活の変化に対応できず不安や憂鬱に駆られてしまう子どもが年間で一番多い日付)に放送したこと。そして2020年は、夏休み直前(翌日から夏休みになる学校が多い、今年は7月31日)に日テレが放送したこと。(コロナ禍のオンライン授業が増えたことで、これまで不登校だった子達がオンラインで出席するようになり、その後、通常登校が始まると彼らも普通に登校できるようになったという事例がたくさん報告された。 せっかく笑顔で通えるようになった学校が夏休みになってしまい、生活スタイルの変化で、また不安や憂鬱に駆られてしまわないか、それを事前に防ぎたくて、子ども達を勇気づけるために放送する意図もあったのでは。 だって、京アニの新作映画ヴァイオレットの宣伝が狙いなら、映画公開日が近づくもっと後の日付のほうが効果的だろう。)
この映画は、多くの「オトナたち」の心の琴線をも揺らし、希望を見せてくれたのだろう。
罪悪感?
小学校の教室のシーンで、転校生がやってきて挨拶をするが、ノートに書いた文字によるものだった。その後、すぐにいじめの対象になってしまうということがわかり、嫌な予感がしてしまった。結局、彼女はいじめが原因かどうかわからないが転校してしまう。
高校生になった主人公は、彼女と再会し、今度は恋愛の対象となる。最初、この展開はありえないと思ったが、子供の頃は好きな異性に対して照れ臭いから、かえってぶったりして注目を引こうとするが、それに近かったのかな?だから、いじめっ子の女子が言っていた、「罪悪感的な」感情で付き合っていたと言う事ではないと思う。
最後は、すべてが良い方向に収まるハッピーエンドとなる。感動的な良い作品だったが、2点気になるところがあった。
1つは、主人公が稼いだアルバイト代170万円を母がうっかり燃やしてしまうこと。それはないだろう。もう1つは、花火大会の途中で、彼女が自殺未遂を図ったこと。これもそれはないだろうと思った。あまりにも唐突すぎる。その後ちょっと考えて、これはもしかしたら幸せの絶頂で人生を終りにする「髪結いの亭主」のパターンなのかなとも思った。でも違った。
視覚障害の人が出てくる映画は結構多いが、聴覚障害の人が出てくる映画は意外に少ない。前述の、「雨鱒の川」や「レインツリーの国」、古くは「愛は静けさの中に」ぐらいしか見ていない。どれもいい作品だった。あと、まだ見ていないが、松山善三監督の作品「名もなく貧しく美しく」もあったので、今度見てみよう。
いじめの問題を扱っているので、深刻になりがちだが、女の子のキャラがいわゆる萌え系で、そのギャップが個人的には気に入っている。
あと気に入っているのは、主人公が距離を置く同級生の顔には✖︎が付いていたが、親近感が生まれてくるとその✖︎が落ちて顔がはっきりわかるようになること。特に最後の学園祭で、一斉にみんなの✖︎が取れたのは、、ハッピーエンドの感動を盛り上げる素晴らしい演出だった。
細部のつくりこみ、しっかりした演出
私はアニメを好んで見ることがなく、せいぜい宮崎駿や新海誠を見るくらいです。
ゆえに、まずテレビでは観ませんので、観るとすれば「映画」という単位です。
京都アニメーションを覚えていたのは、これを観たからでした。
自分がゆるせない主人公石田くんの贖罪の旅=成長の行程を描いたアニメ映画でした。
彼はいじめっ子だった過去の自己嫌悪にかられていて、人の顔を見ることができません。
その心象を反映させて、クラスメイトの顔にはバツが貼ってあります。
石田くんが、気持ちをゆるした人だけバツが剥がれます。
永束が剥がれ、川井が剥がれ、真柴が剥がれ、徐々に石田くんの贖罪の旅に道連れが増えるのです。植野はいわば必要悪としてドラマを牽引します。
顔のバツは心象の具現であり、アニメであることの必然性であり、かつクライマックスへ持ち越す最大の布石でもあります。
それにプラスして、つくり込まれた魅力的なディテールがありました。
石田母のピアス引っ張って耳朶切ったときの血痕。
いつもタグ立ってる石田くんの一張羅。
とてもいいパン。
お笑い担当の永束くん=「もっかい言ってみろやー」には本気で笑いました。
好きと月と鉢飾り。
ばあちゃんの梅ジュース。
「がんばれゆずる」。
頻繁につかわれる点景のカットシーン、鯉、蝶、花、木々、養老天命反転地。
声だけの姉と人種不明な旦那。
描写がセリフのような説得力を持っていました。アニメに詳しくないゆえに不見識でしたが、監督は、かなり見せ方を知っていると思いました。129分ありますが、心象や点景の挿入で、琴線を離しません。とりわけ、それぞれが、それぞれの場所から花火を見上げるシーンは素敵でした。
そして、学園祭のまんなかで、人々のバツがいっせいに剥がれるラスト。反則的なまでにエモーショナルで、スクリーンの石田くんといっしょに、涙がでました。
亡くなられた方々のご冥福を祈ります。
見える声。伝えたいこと。
京アニ見なくっちゃ、と思い立ち。
"The Shape of Voice"
声に出したいこと。声にして言いたかったこと。伝えたいこと。
誰もが、伝えなければならないことや、伝えられなかったこと。言えないこと、言われたくないこと。たくさんの想いを抱えながら生きている。
会いたい理由
死にたいと思う訳
嫌いな理由
冷たくした訳
学校に行かない理由
友達が欲しい気持ち
顔を上げて歩けない理由
君をどう思っているか
君にどう思って欲しいか
君とどう生きて行きたいか
病院を飛び出した石田は、橋の上にうずくまる綃子を見つけます。想いを伝えた石田に、硝子はカタチのある声を返す。「約束します」。
予想に反して、思ってた以上に忙しいアフター・コロナ。新作が掛からないから退屈だと高を括ってたら、週末の上映予定を見てびっくり。午前十時の映画祭は文字通りの祭りになってるし、人気のあった旧作もゴリゴリに詰め込まれとるし。平日鑑賞への振り替えしか選択肢が無いので、珍しく木曜日に劇場へ行って来ますた。
初鑑賞でした。
良かった。とっても。
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5/29追記
海外版のタイトルを調べると ”A Silent Voice”. 「音無き声」でオリジナルの邦題は「聲の形」。”The Shape of Voice”と"A Silent Voice". なんで微妙に違うんだろう、って不思議に思う一方で。聲の形、音無き声が何を指していたのかが肚落ちしました。
"A Silent Voice"は「あるひとつの手話による伝達」の場面を指し、”The Shape of Voice”は「それを特定している」。最後の「指切り」。自死を考え、実際に実行しようとした二人が「一緒に生きよう」と約束した、あの場面での指切りが映画としてのタイトルなんですね。これは好きやわぁ。すごく好き。
他人の聲の聞き方
原作がよいのか。
アニメーションがよいのか。
おそらく両方かと思いますが、
よい作品ですね。
原作は最初の方だけ読んだ段階で映画を見ました。
高校生の甘キュン恋愛要素もあり、
障害者のいじめ問題もあり、
なのですが、メインは意外にも別でした。
他人とどう分かり合えるか?
他人にどう心を開くか?
みたいなこと。
見る前のイメージよりは、ややダークな内容でした。
各キャラクターの設定が面白いです。
私は特に川合さんの言動に注目でした。
優等生なんだけど(がゆえに?)実際は物事を悪い方向にかき回してるという興味深いキャラクターでした。
京アニ作品を見たのは初めてかもしれません。
熱烈なファンがいることが納得です。
独特な表現で、今までにない映画。
君に生きるのを手伝ってほしい
言葉を聲にする大切さ
非常に面白かった。これだからアニメーション映画はますます大好きになってしまう。そんな作品である。
この作品のほぼ全ての登場人物が自分の気持ちを声にして表現ができない。また人の気持ちを声として聞かずにいる。だから幸せそうに見えるひともどこか寂しさをかんじ、うまくいかないものはどんどん下り坂を下ってしまっているわけだ。
主人公の石田は小学6年生の時にヒロインの西宮が難聴である事を理由に虐めを繰り返し、補聴器をいくつも壊すなどしてしまいには大きな事件となってしまう。
小さい苛めの間は周囲の友達、担任の先生も見て見ぬふりをしたり、虐めに加担する者もいた。
ただ大きな事件となった後は掌を返すように今度は周囲が石田を虐めるようになり、以後高校3年生になるまで石田は周囲の声を聞くことをやめ心を閉ざすことになる。
この小学生時代のパートが僕は特に好きだった。この時点で年齢は子供とは言え既に自分の気持ちを声にすることをやめ、相手の気持ちを声にして聞くことをやめてるんだよね。
なぜ虐めをするのか周囲は問うこともない。だから虐められたら佐原は休むことで逃げ、西宮は謝ることで逃げた。
また上野や西宮は当時から石田のことが好きだったのではないかと思う。でも自分の気持ちを声にして伝えることはしない。だから虐められても笑顔で交わしたり、一緒になって虐めることで気持ちを保っていたのではないか。
この気持ちを声にしない弊害ってのを凄く的確に描写されていて心に染みる。
それから6年後の高校生パートでは石田は周囲と関わらないことで平穏を保っていたが、永束と出会うことで気持ちを声にする大切さ、喜びを感じ出す。
その結果西宮と友達になる事ができるが、川井や上野などとぶつかり悩む。その結果西宮が自殺を図り石田が怪我を負うわけだ。
この声にした事で壁にぶつかるのもまたいい。人の気持ちを声として知ることはもちろんいいことばかりではない。それによって悩み、苦しむことも沢山ある。
だけど最後は再び理解しあえて終わるわけだ。
この気持ちを声にする大切さはここであろう。声にする時はやはり相手の気持ちが自然とこもる。
例えその言葉は否定的な意味を持つ言葉だとしても、発した相手は果たして本心なのか、逆に発してる本人の方が苦しんでいる場合もある。
だからこそ人は助け合い分かち合えるのであろう。
そして同時に気持ちを声にすることは相手に伝えることだけではなく、自分自身に本心を伝えてることでもある。
頭や心の中だけの言葉は自分自身でもそれが本心なのか、正しいのかどうか分からないこともある。
声にし、相手の反応で気づけることも沢山あるだろう。
そして最後に今まで周囲の声を聞くことをやめていた石田が声を聞く。そして涙する。
やはり人は1人では生きていくのは苦しいのだろう。人の声を心で聞くことで人と人との繋がりを感じたのではないか。
ここで作品としては終わるが石田はこの後は充実した生活をようやく送れるのではないか。それは自分だけが幸せなのではなく、周囲も幸せにする事ができる生活に。
今はいろんなコミニュケーションの取り方がある。
声にする、いわゆる会話以外にもメールやSNSこれもまた立派なコミニュケーションツールの一つだ。
これらを否定するつもりは全くないが、改めて気持ちを言葉にし、それを声にして伝える大切さを心から感じる事ができる。そんな温かい作品だった。
完璧でした
全565件中、101~120件目を表示