「160926劇場版『聲の形』感想。」映画 聲の形 水玉飴さんの映画レビュー(感想・評価)
160926劇場版『聲の形』感想。
2016年9月26日(月)、京都アニメーション制作の劇場版『聲の形』を劇場鑑賞す。今年の4月に本作上映予定の超朗報を受けてから今日のこの日まで、私の意識の片隅の深いところでは常に「『聲の形』が京アニによって劇場アニメ化される」ことへの嬉し涙が流れ続けていた。そして今日の鑑賞後の今の私は、心の底から嬉しさに悶え、許容しきれない満足感に心の痙攣を覚えている。
まず映画を観て涙を流させられてしまうことはめったにあることではないが今回は見事に喰らって貴重な体験をさせてもらった。だからといってこの映画を劇場や後のブルーレイなどで鑑賞することを他人に薦めるかと問われれば、間違いなく私はNOだ。他人に劇場版『聲の形』を薦めることで人格やセンスを疑われることを恐れるからといった理由とは全く逆で、これだけどツボに嵌って一生モノの宝石のような作品に出会えたという尊く大切過ぎる思い出は、最早自分だけの独り占めに留め切って何らの外部からの印象交換の交じり合いも許したくないという激烈な個人主義的衝動が圧倒して優先されてしまっているからだ。勘違いしていただきたくないのが、本稿はそもそもいわゆる映画評論の枠を踏襲したような虚しい分析の類ではなく、あくまで私個人の趣味、感性を記録するための独り言に過ぎない。従って独断の塊であり、他者との印象の共有やコミュニケーションの機会を図ろうなどと馬鹿げた意図は皆無であるからして、以下に述べるのは決して劇場版『聲の形』の他者への薦めを全く意図しない。もとい、本稿はそもそも未来の筆者自身以外の読者を想定しない。これだけの傑作に出会ったのなら、あとは気の向くままに書き殴って記憶を残すことに没頭するのみである。
まず私は原作漫画『聲の形』の大ファンだ。従って劇場版『聲の形』にバイアス抜きの視線を向けることは不可能だ。ところで、押井守をして「晩年習作の老害」と評されることがままあるが、私から言わせれば彼は自らのマニアックな思想哲学を、他人の褌を巧みに改変しまくって、本来噛み合う筈も無かろうものを見事に作品の形まで成立させてしまえる天才、というか面白い変人であって、更には京都アニメーションこそは、他人の褌で習作を作らせれば他の追随を許さない、むしろ晩年習作でいてくれたほうがいい技術集団だ。劇場版『聲の形』を鑑賞中、首尾一貫して初めて原作漫画に熱中した時に自分の中で起こっていた熱量の働きと極めて類似したものが湧き上がっていた。極力抑えられた劇伴の起伏の演出。淡々と平面的な画面構図で切り替わり続けるカットの数々。『聲の形』を映画技術で魅せようという意欲すらも、本原作への敬意や愛を優先させたいアニメ監督の立場からは邪魔でしかないといった風な割り切りがあったのではないかと思わされざるを得ないくらいの、原作漫画『聲の形』の見事過ぎる習作仕立てっぷりが、原作ファンの私にしてみれば只々ありがたいばかりで、これだけで泣けてしまえるくらいに嬉しかった。
ところで、これは劇場版『聲の形』から私が個人的に受けた作風とか形式とかいった次元に対する印象の話であって、勿論全7巻の連載形式の漫画を原作に映画化するにあたっては物語られ方にかなりの改変、省略、圧縮、そして丁寧な強調などの工夫は必然とあるべくしてあった。今思いつくだけでも、例えば真柴の将也に対する過剰世話焼き友情兼筋徹し理屈優先パンチとか、将也の母と硝子の母との涙ぐましい湧き合い合いのやりとりとか、結弦が過去に硝子から救われていた回想とか、植野のキス泥棒とか、最後の成人式とか、しかしやむなしにというよりは極めて冷静に、戦略的にバッサバッサと省略されるべきは省略されたといった風ではあった。しかし特に私が残念だったのは、植野の硝子に対する嫉妬がここぞと極めて不謹慎な間を縫って爆発するキス泥棒のシーンと、これに付随する植野が思い描く硝子の良い人ぶりっ子の奥に潜むどす黒いずる賢さのイメージ、しかしこれが実際原作者が、見方を変えれば硝子の本質ってそういうことでもあるんだよ的な、必ずしも読者の勘ぐりから否定し切れない、感慨深い描写の部分などまでが、劇場版で省略されてしまっていたことだ。こういったものは一貫して、映画の2時間強という尺で収めるために各登場人物の描写の掘り下げが簡略化されざるを得なかったためだし、特に植野の硝子に対する嫉妬の描写も含んだ、原作の後半から終盤にかけて熱量を増す恋愛描写の全般こそは、そもそも『聲の形』を限られた時間にまとめる際、この作品全体のテーマ性を、「いじめと向き合い償う犠牲含みの勇気試しの過酷さ」の一点に潔く絞りきる上で、不可避的に後ろに追いやるしかなかっただろうし、極めつけは、物語のおちというか、結び方を、原作の成人式で同窓生の沸き立つ空気の中に扉一枚隔てたところで将也と硝子とが、いじめの加害者側に立たざるを得なかった罪深き呪われた境遇と、聴覚障害との両者共に先天的障害というか運命に翻弄されざるを得ない不可抗力の部分といったハンディキャップを超克した先の話としての恋愛含みの、将来を見据えた信頼の確認を互いに取り合って先に進む・・・みたいなシーンに依らず、敢えて、自死を図った硝子を救って代わりに死に損なうまでした後の学園祭の場で、只時間が解決してくれる的な惰性の暮らしに頼らずに最短時間で償いを突破し切った、これによって最早過去のいじめっ子という自他共に拭い切れなかった呪われし烙印、この負い目の感情から解き放たれたかのような抽象的なイメージ描写によってなした部分などは、あぁ、飽くまで劇場版『聲の形』という企画は、恋愛要素を多少犠牲にしてでも原作企画の立ち上げ当初から多分に第一優先として念頭にあったであろう、「不可抗力的なイジメ問題に振り回されざるを得ない馬鹿な人間の呪われた贖罪に対し向き合う勇気ある精神とこれへの報い、救済」みたいなものに集中しましょうってな感じで、山田監督と原作者との間で周到に話が詰められたんだろうななどと、私をして激烈に勘ぐらしめた。そう、京都アニメーションは劇場版『聲の形』の物語の閉じ方を、硝子を外して将也一人の心象における救済を画面いっぱいに描写することに託したことによって、最早脚本、というか絵コンテ制作における商業主義を丸っきり捨て切ったのだ!私はここに京都アニメーションのオトコギを見た。漢だね。京都アニメは『聲の形』を映画化させるにあたって、上述のような極限的な習作手法を断行した結果、見事に見応えのある映画らしきアニメ映画を誕生させてしまった。これは最早原作付きの習作アニメなどではなく、立派に一つの映画作品であった。
さて、劇場版『聲の形』公開日の9月17日から10日弱の間、私はひたすらこのネタバレ情報の嵐から身を遠ざけることに必死だったが、そんななか聞こえてしまったものの一つに「『聲の形』は聴覚障害者をダシにしてイジメ加害者を癒すだけのゲスを極めた感動ポルノだ」というのがあった。「その理屈、嫌い」と言ってやりたい気分だ。イエスキリスト曰く「あなたがたのうちで全きにして罪を犯したことのない者が、この女に石を投げるがよい」。イジメ加害者を癒すだけの感動ポルノと『聲の形』を一蹴した気になれてしまっている輩は、そうとしかこの傑作の文学的なパワーを解釈できないほどに想像力が貧相なのか、まさか自分だけはイジメ加害者になってしまうような不可抗力的な呪われし運命の境遇とか空気によるがんじがらめとは一切無縁であったり、これに遭遇しても自分だけはビクともせずに勧善懲悪を身をもって体現できる強靭な精神力の持ち主だとか自信満々に驕れていたりするものなのだろうか、はぁ、愚か過ぎて哀れだ。記憶の遠いところでは誰しもが幼少期や学童期から、近くは社会人生活に及んでも尚イジメ問題が絶えない社会構造の欺瞞の中で、自らのお人よしでダサ過ぎるかもしれない勧善懲悪の良心との板挟みでストレスを積み重ね、多少なりとも苦しみ、恥じているものである。概ねそう有らざるを得ないというのが文明社会の、決して奇麗事だけでは済まされない闇の部分のひとつである筈だ。こういう足元の厳然たる現実と向き合うことを怠り、さも自分だけは清き聖人君子の如き、イジメとは無縁の潔白な人種だと言い張る輩を、そのまんまに投影し、作中で問答無用に論駁してしまうために川井みきというキャラの立ち位置が用意されていたりもするわけだ。彼女なりに、将也の転落事故を受けて化けの皮が剥がされても尚、この自分を過剰に可愛がってしまう天然さを通して、人間一個体の塩梅をひとつの交友関係に拡大して投影するなら、川井みきのような自己愛の尊厳の象徴も必然的に憎めない感触を伴うようになる(より詳しくは原作漫画の彼女を参照されたし)。そう、誰しもがイジメ問題に無縁足り得ない、足り得なかった自分に思い当たる節が大小様々にある訳で、こういった部分を激烈に向き合わせ、救済に導くような癒しのつくりになっているからこそ、『聲の形』は決して感動ポルノなどと非難されるような単純な駄作ではない、社会学的、文学的な意義を立派に有しているのだ。イジメの構造に巻き込まれたが最後、保身のために、集団に馴染み続けたいがために、あなたが絶対的に将也の学級の面々とは一線を画して、少なくとも佐原のように妥協の嘲笑いにすら組しないでいられるといった自信が持てるのか?正直筆者にだってそれは無理だ。しかしこれを限りなく可能に近い形にもっていく手段はある。つまり、自らの正義感とか良心とか思想信条を実際の生活や労働の場で貫くための手段とは、一つに財力、又一つに強靭な体力とこれによって初めて支えられ得る強靭な精神力とである。私は財力は丸っきり駄目なので、体力と精神力を日々鍛え、この目的のために備えている。財力的な余裕が足りなくとも、体力や精神力で余裕が持てれば、それでも少しはマシな人間として世間で振舞って行けるものである。
しかし究極に主人公の将也が救われた一番最初のきっかけを作ってくれていたのは他でもない彼の母ですよ。「母さん、情けないよ」と涙する時も階段上の息子と視線を合わせ続けた、本質的に息子を大切に想う母親の中の母親にして女の中の女!彼女の息子に対する日常的な愛情があったからこそ、将也は母親が補聴器の弁償代の札束を銀行から引き出す背中を見て自ら無自覚に引き起こした遊び感覚のイジメの本質的な罪悪を直感し、価値観の転換に及び得たのだ。将也がイジメ問題の渦中にあって自らを一般常識、良識に照らし合わせて客観視できるように自律的な成長を促せしめたのは、他でもない彼の母親の常日頃からの愛情や献身だったのだ。賢い女キャラの存在は、美談や傑作物語の必須条件である。実際の現実社会でも、愚かな女ばかりがのさばる組織や集団やコミュニティなんてものは例外なく目も当てられないほどに腐っている。しかしその逆は希望や意欲や活力が豊かに溢れていて、人の群れの幸不幸のムラや運命論的な不平等が生じる分岐点とはやはり社会を支える女の賢さの有無なんだろうなと痛感させられる。硝子の母親も負けず劣らず良い女だよ!
最後に、私は硝子が将也の母親に跪いてひたすら謝り続けるシーンで我知れず涙してしまった。あのシーンで受けた衝撃は最早理屈を超えていて、声優の演技が凄いとか原作の演出を超えたとか云々を捏ね繰り回す余裕など全く許されなかった。只々、私は劇場版『聲の形』の虜に成り果てていた。
劇場鑑賞直後の館内はすすり泣きの音で溢れかえっていた。345席+2車椅子席でほぼ満員の状況で、若いカップルよりも学校帰りの中学生や高校生の同性仲間グループの割合が多かったこともあったかもしれないが、素直に映画に泣かされた時って、大概人は「泣けたぁ」とか言わず、「良い話だった」とか「めっちゃ良かった!」とか照れ隠しにはしゃがざるを得ないようだった。こういう館内の雰囲気はいい、実に良い!そしてこういう雰囲気を醸成する映画はもっと良いに決まっている!私は『聲の形』を劇場鑑賞できて本当に良かったと心底嬉しく思った。ブルーレイ確実に買わせて頂く。