葛城事件のレビュー・感想・評価
全34件中、1~20件目を表示
他人事である。参考にできる事は無し。
この主人公達が何に怒っているのか全く理解不能。
さて、なぜこの主人公達が鬼気迫る迫力ある演技が出来るのか?
答えは全く簡単。
脚本が全くめちゃくちゃ。
出鱈目、ミスキャスト、突っ込み所満載、時間の流れがめちゃくちゃ。
もはや、評価する範疇ではない。
我が亡父もかなり嫌な奴だったが、こんな切れ方はしない。また、この親父と決定的に違うのは自殺を絶対に認めていない事だった。
バラバラな家族ゆえ、事件が起こる前に離散する。それを脚本で無理やり繋ぎ止めるから、事件が起こる。兎に角、これは偏見を生む。
煽りすぎるが、模倣犯がでたらどうするんだ。
つまり、この制作側は『死刑制度賛成』と見た。
真面目に死刑制度を反対する人達に対する侮辱でしかない。
重苦しい映画
全ての歯車が音を立てて噛み合わなくなる様なそんな映画でした。
作中のモチーフは昨今の様々な事件を参考にしたとの事でしたが、獄中結婚は宅間守ですかね?
家庭環境的には秋葉原無差別殺傷事件なのかしら
あらすじはほかの方が述べているので省略しますが、全体的に重々しく暗い映画です。
実際にあった事件をモチーフにした映画は好きでよく見ますが、今までにない構成で最初は中弛みするかもしれません。
登場人物全てがどこか狂っていて壊れていて。
父親演じる三浦友和は、父親としての威厳や一城の主としての責任故によく出来た長男には甘くよく出来ていない次男には厳しくといった昭和の親父あるあるみたいな役どころで、でも自殺した長男を自殺と認められなかったこと。
死刑になった次男の嫁に俺が3人殺したら結婚してくれるのかと迫るシーンでは、家族というものにこだわりが強く最後家を建てた時に子供と同じように成長するみかんの木で自殺を測ったが死にきれず、蕎麦をすすりながら終わっていく後味の悪さが際立ちます。
長男役の新井浩文は、優しくて少し自己主張が出来ない平和主義者。
営業として就職したが、成績が悪くリストラされそれを妻に言えずに自責の念を持ち自殺を計ってしまう。
元々新井浩文さんを知ったのが隣人13号で、あの役柄のイメージが強かったのですがあんなに弱々しい演技も出来るのですね。
三浦友和の嫁役に南果歩。
旦那と居る時は、優しくそして弱々しくハッキリと言えなかった人が三浦友和から離れるために家を出て次男と一緒に住み始めた頃から心が壊れて行って饒舌になる。
最終的には精神病院に入院されてまさに堕ちてしまった人。
次男役に若葉竜也さん
この方は存じ上げなかったのですが、子役から活躍している方なのですね!
無職で気力もなく何を目指しているか何を考えているか分からない役を演じたのは素晴らしいと思います。
この方が演じた稔が無差別殺傷事件を起こし、死刑と判決されてしまう犯人役。
難しい役どころだったでしょうに、中々見せてくれるシーンが沢山ありました。
そして犯人役の嫁さんに田中麗奈
彼女は死刑反対派の人物で、殺人を犯した稔と獄中結婚しています。
彼女の狙いは結婚をして話し合えば何か変わるかもしれない。役に立てるかもしれないと考えている、ちょっとネジの外れた女性です。
獄中結婚してしまえば、嫁としていくらでも面会に行けるのでそうしたのかと。。
全体的に現在と過去を行き来する作品で、それも作中の流れが分かりやすくなっているのでどうか最初の30分は見て頂ければと
ひたすら救いがない
登場人物、誰に対しても共感できない。
先日観たアイアンクローもそうやけど、この作品も諸悪の根源は結局父親。事件が起こった後も、現実から目を背けている。被害者のかたへの謝罪の気持ちは感じられず結局は夫婦ともに自分のことしか考えていない。自己中心的。家は唯一の自分が幸せだった頃のステータス。その家で自殺をしようとしたのもなんとも自己中心的。もちろん、周りから孤立し、責められ苦しいという気持ちもあったんやろうけど、手放すくらいなら死んでやるという思いなのかなと解釈した。全く同情できない。
自己中心的というのは息子にも言えることなんやろうな。親への復讐のために犯罪を犯したという面ももちろんあるんやろう。定職につき、父親とは違う人生を歩む。真っ当に生きるという選択肢があったにも関わらず人を殺すという選択肢をとった。ほんまに救いようがない。毅然とした態度で接することなく甘やかした母親も同罪。
保は、結局はこの家族の負のループから抜け出せないと察して自殺したんやろうなあ。日本やと完全に親子やきょうだいの縁を切るって難しいもんね。自分の息子が暴力を振るわれた時にきちんと意見を言えない時点で普通ではないよね。
支配的な父、目を背ける母という構図はアイアンクローと一緒やけど、その後どう生きるかは結局自分の意思で決めていかなあかんのよね。アイアンクローの主人公のようにある意味逃げるという選択肢をとらなかったのが悲劇の元やったんやろうなあ。
家制度の呪縛。
あまりに悲しく可笑しいとてもよくできたホームドラマ。こんなことを言うと語弊があるかもしれないけど、すごくおもしろかった。三浦友和氏の演技を筆頭に役者さんたちの演技は皆さん素晴らしかったし、演出も全く違和感なくてお見事な作品。結構笑えた。
凄惨な無差別殺人が起きる土壌は日本にどこにでもある普通の家庭だった。
葛城家の主である清はいわゆる昭和の頑固おやじ、横柄で無神経なところがある。長男の結婚祝いの食事の席では店員への執拗なクレームで場の空気を気まずくさせて、あげくに妊婦の前で平気でタバコを吸う。
息子のしつけは妻にまかせっきりで、息子がふがいないと妻を殴りつける。お前が甘やかすからだと。けして息子を直接𠮟ろうとはしない。本当は自信がないのだ。所詮親の金物店を継いだだけの甲斐性なし、しかし自分は一家の大黒柱。だから父親としての威厳を守りたい。万が一にも息子から反論されたらと恐れている。横柄な態度もすべては虚勢でしかなかった。自分は一国一城の主なのだ、だからそんな自分が妻や子供たちに弱いところは見せられないと。
昭和の男たちはたいていこうではなかったか。この映画を見てドキッとする人間も多いのでは。
妻の伸子もある意味典型的な昭和の女性。適齢期になり、世間体を気にして好きでもない男と結婚する。人生の選択肢が限られたこの頃の女性にはこんなことがよくあったはずだ。そしてある時気付く、こんな男、初めから好きじゃなかった。なんでここまで来てしまったのかと。ある意味この二人は犠牲者といえるかもしれない。
家父長制的な意識がまだ色濃く残る時代、男とはこうあるべきだ、父親とは威厳を保ってなければいけない。そして女性は多くが主婦になるしか選択の余地がない。そんな人間同士が結婚して、大半は妥協して何とかやってはいけるのだろうが、最悪この家族のような末路を迎えることもある。
稔の死刑を知らされた清は順子にとびかかる。俺が死刑囚になったら家族になってくれるのかと。家族をすべて失い、一国一城の主でなくなった清。父親としての威厳を保つ必要がなくなった彼がただのオスに豹変した姿がとても無様で滑稽だった。それでも人間ですかと順子は清をなじる。
子供たちの成長を願い植えたミカンの木で清は首を吊ろうとするが、死なせてはもらえない。なぜこうなったのか、生き続けて考えろということだろう。
本作は一見どこにでもあるような家庭を舞台にその家族が崩壊してゆく様をみせることで観ている自分たちの家族もこうなっていたかもしれないと感じさせるのが実にうまい。
かつて日本は欧米列強に対抗するため、天皇制の国家体制を敷いてそれを支えるために家制度を導入した。しかし無謀な戦争に突入し、かかる国家体制は崩壊。民主化により家制度は廃止されたが、それ以降も男系の氏の継承という形で家制度の名残は残った。
この家族に訪れた不幸はそんな名残が引き起こしたともいえるだろう。「家」、「主人」、「嫁」、そういった型に個人をはめ込み、個々の人間の個性を尊重せず、その人らしく生きる権利を奪ってきた。国家統一の名目で個々の人間の尊厳を奪った家制度はいまの日本でもその意識が色濃く残っている。
子供は同じ家に生まれてもその個性はそれぞれ異なる。手のかかる子、かからない子、その子の個性に応じた教育なり、接し方をしなければならない。
葛城家はどうすればよかったのか。清はどうすればあんなことにはならなかったのだろうか。次男の稔は子供の頃から手のかかる子だった。しかし躾は妻に任せっぱなしで、子供との会話はほとんどなかった。
もし清が父親としての威厳などかなぐり捨てて、腹を割って一人の人間として息子と向き合い、息子の個性を認めて尊重してやればあんなことにはならなかったのではないか、そう思えてならない。
いまやLGBT、夫婦別姓など多様性が求められる時代。にもかかわらず、相変わらず家制度にこだわる為政者たちはそんな個人の生き方の尊重などできない。家制度が失われれば国家が滅びると本気で思ってるようだ。
さすがに一般人の間では徐々に意識も変わり、最近では友達親子なんて言葉がはやるように人々も家父長制的な家族運営には無理があると気づいたんだろう。天皇を国家元首とした国家運営に無理があったように。
民主化され個人の人権意識が高まった現代においては一方的な家長による支配では家族はやっていけない。人間は弱いものだ、父親であってもその自身の弱さを認めて互いのその弱さを補い合って支え合う、家族が共に生きる意味はもはやそこにしかないのではないか。
ちなみにこの作品のモデルとなった小学校襲撃事件の加害者は下級武士の家系の生まれで、その父親は教育勅語を重んじていて、自分の子供たちへの暴力が絶えなかったそうだ。
稔と獄中結婚した順子のモデルとなった女性は死刑廃止活動家として非常にまじめに加害者を更生させようと努力していたそうだ。本作での彼女の立ち位置はいまだに解釈が難しい。愚かな女性として描いてるのか、あるいはこの家族とは対照的な存在として描いているのか。ただ実際の彼女に対して加害者の男は感謝の言葉を残している。これはやはり彼女が加害者の男を一人の人間として尊重して接した結果なのかなとも思う。謝罪の言葉は引き出せなかったが。もう少し時間が欲しかったと劇中同様この女性も述べていた。
どちらにしろ演じた田中麗奈さんは素晴らしかった。まったく興味ない俳優さんだったけどこんなに魅力的だったとは。
鬱が好きな人に一番おすすめ
初めて見た日は数日間、やるせない暗い気持ちを引きずりました。
数日間引きずるほどのショックを与えてくる展開の映画が好きなので、以来定期的に見ています。(定期的に見るものではない気がしますが…笑)
葛城一家崩壊のすべての原因は、父が自分のもつ家族に対する理想や愛を押し付け続けたことにあります。
愛し方を間違え続けている、それに長いこと気づかなかったからこんな結末になってしまった。
抑圧され続けた家族達も、もはや反抗を諦めてしまっていましたことも原因ではありますが、やはり一番悪いのは父ですね。
でも、愛する息子たちの成長を願って植えたミカンの木を見る父のその目は、間違いなく家族への愛に満ちた優しい眼差し。それが本当に見ていて辛かった。
そしてこのシーンが映るタイミングも、家族崩壊の全てを見せられた後であったことも尚更辛い。
星野にも拒絶され、父が本当に一人ぼっちになった時。
家族一人一人の名前を呼ぶ父の姿も本当に苦しい。
もう誰も帰ってこない現実、絶望を思い知らされる場面でした。
葛城清を見ていると、私の父も、自分が気に食わないことがあると大声で怒鳴ることがあり、私や母がそれに萎縮してしまい自分の気持ちを言えず、ただ頷き続けるしかないことがあったことを思い出し、少しだけ近しいものを感じました。
父が家族を愛していることも分かっているし、正しいことを言っている時もありましたが、自分はそれでもこう思っていた、という気持ちを言えずただ怒鳴り続けられるのは辛かったです。
そんなことを思い出しながら映画を見ていました。
「愛がなんだ」で若葉竜也を知り、痛々しいぐらい真っ直ぐな仲原を演じていたのに、その印象を引きずらず今回は我儘で弱い稔をしっかり演じていて、改めて役者はすごいな…と感じました。
面白いけど、二度と見たくない
見てる最中の胸糞悪さや、居心地の悪さが凄いです。終始目を逸らしたくなる展開の連続でした。
三浦友和の演じる傲慢な父親役は、特段珍しくもなく、どこにでもいるような昭和の頑固ジジイです。
父親役と次男役の口調や論法がそっくりで、正論を言う割に的外れ、デカイこと言う割に行動が伴ってないなど、父親の悪い部分がしっかりと継承されていて細かなディティールにも計算され尽くした胸糞悪さが散りばめられているなと感じました。
また田中麗奈の役どころが最後まで謎でした。死刑反対したいがために赤の他人と獄中結婚、という自己犠牲に酔っている行動がひたすら不気味。
ラストシーン、父親は思い出の木で首吊りをしようとしますが失敗。この親父には、死ぬ資格すらないと言いたげに物語は幕を閉じます。
『眼を背けられないリアリティさ』
自宅(CS放送)にて鑑賞。実在の附属池田小事件加害者一家がモデルと云われ、自己中心的で自らの勝手な理想や幻想を、高圧的に他者へ強いる男の末路を描く。元凶となる悪者を決め附けるのは容易だが、不遇とは呼べない恵まれた過去が一家には存在し、家族四人各々に環境を好転させるチャンスがあった筈である。流される儘が故にそれが叶わなず、それぞれが心に闇を抱く結果を導いてしまう。この家族の言動には、大なり小なり誰しもが思い当たる節や重なる部分があるのではなかろうか。その意味で決して他人事で済まされない重みと凄みが本作にはある。70/100点。
・自宅の落書きを消すファーストシーン、その佇まいや書き附けられた凄まじい文言は、'98年7月25日に発生した和歌山毒物カレー事件の報道映像を彷彿させる。オーディションで選ばれたと云う若葉竜也演じる“葛城稔”の犯行動機は、'08年3月19日・23日発生の土浦連続殺傷事件で逮捕された犯人の自供内容に似ている。他にも身勝手な発言や振る舞いは、'99年9月8日発生の池袋通り魔殺人事件、'08年6月8日発生の秋葉原通り魔事件の犯人を想起させる箇所もある。途中、現金や缶コーヒーは甘目、お菓子は塩っぱい目と我儘な差し入れを強請る中、登場するワッフルの差し入れと云うエピソードは、篠田博之著『ドキュメント死刑囚』に記された'88~'89年発生の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件犯人との遣り取りを思わせる。本作が公開された'16年6月18日の約一箇月後である'16年7月26日未明に相模原障害者施設殺傷事件が発生した。
・一般に周囲を巻き込む程の完璧主義者や理想主義者は、理解者を得るのが難しく孤立しがちであるが、その事が全篇を通し淡々とした語り口や構成が地味乍ら伝わった。
・プリズン・グルーピーと云われる恋愛傾向を持つ人が世の中には少なからず存在し、本作では田中麗奈演じる“星野順子”がこれに相当すると思われる。作中における彼女の存在意義や心の機微が丁寧に扱われており、その言動に同情する迄は至らずとも、違和感は憶えなかった。束縛の余り、次第に対人恐怖症に陥る“葛城保”の控え目乍ら魅力的な新井浩文の演技も記憶に残る。そして何より“葛城清”の三浦友和の存在感と演技が、本作に大きな説得力を与えている。血を分けた家族の破滅を尻目に、現実から目を背け、開き直った挙句、自暴自棄となる腹立たしくも物哀しい悲哀が込められた鬼気迫る熱演は忘れ難い。『アウトレイジ('10)』、『アウトレイジ ビヨンド('12)』での汚れ役も記憶に新しいが、本作が誇れるキャリアの一部となったであろう。
秋葉原
「バラが咲いた」を口ずさみながら、「人殺し」「出てけ」などと塀や壁に書かれた落書きを消す葛城清(三浦)。そして息子稔の死刑判決を真摯に受け止める裁判所のシーンが交互に描かれるオープニング。そして獄中結婚をした星野順子(田中麗奈)が清のもとを訪れる。
保(新井)は会社のリストラに遭い、辞めたことを妻にも言えずにぶらぶらしていた。そして、家族の行き詰った姿を見たため飛び降り自殺を図る。そうして、次男稔(若葉竜也)は通り魔として数人を殺傷・・・
明らかに秋葉原通り魔事件をモチーフにしている映画だったが、親とも同居していない長男の自殺ってのがどうしても理解できない。家族間の確執はそれなりに理解できるのだが・・・強い父親でありたいと家父長制を誇示したいがために、心が離れてゆく様子はなかなかの出来栄えだった。特に中華料理屋のシーン。
それにしても死刑制度廃止論者だけで結婚するというのは、何かのパクリだろうし、現実離れし過ぎている。終盤、死刑が執行されたと報告され、再び清のもとを訪れる順子。精神病院に入院するまでとなった妻(南)がいないためか、「家族になれ」とレイプしそうになる清。そのあとは部屋中を荒らしまくり、庭先のミカンの木で首を吊ろうとする。でも失敗。再び部屋に戻り、スパゲッティをすするのだった・・・
家族という病巣
赤堀作品は何作品が観てますが、だんだんと差し迫る精神的な怖さが絶妙だと思います。
三浦友和さん演じる父親がモラハラのクソ親父で、自分の意見・やり方が1番正しいと思ってて、周囲の人全てにそれを押し付けている人です。
結局、長男が自殺をしたのも、母親が精神的に病んだのも、次男が無差別殺人を犯したのも、この父親ありきとしか言いようがありません。
他の人も言っていましたが、獄中結婚のくだりはあまり意味がなかったような気がします。
家族って名ばかりで、簡単に壊れてしまう脆いものです。現代の闇とも言えるテーマだと思います。家はあっても、中は空っぽなんです。そこに愛はないのです。
団塊世代に観て欲しい
父親清の説明で、父親の思い、と書いてあるが、清は元々こーゆー人でしかない。常に自分が正しいとしか思ってない。
中華料理屋での話が特にそうで、自分の60代父親も昔、一見のトンカツ屋で同じ様な行動をした事があり、すごく「やだ見」だった。だから、団塊世代の父親というよりは、自分の父親に観て欲しい。かと言って、父親にあまり勧めたくもない。
個人的にはこの三浦友和の清がインパクト強かったが、この中の人物皆自分勝手、独り善がり。
母親南果歩は、一見優しそうで自分の都合ばかり優先させる。子供はかわいいのは当然だがそれだけで、厳しさを見せるのは面倒臭いのであろう。食事が全て自炊ではなく弁当や即席麺というのが象徴的。
兄新井は親のご機嫌を伺って優等生で過ごし、いざ社会に出ると取り柄がなく厳しさを痛感し、自分が正しいと思ってるから親にも妻にも相談せず、一人で抱え込んで終いにパンク。
弟若葉は優等生の兄と常に比較され卑屈になり、やりたい事が見つからない中、父には蔑まれ母からは優しくされるのみ。兄からも蔑まれてると思っているのでまともに会話も出来ず、終いには無差別殺人という勝手な結論で死刑を望む。
若葉と獄中結婚した田中麗奈も、死刑反対を大義名分に、自分なら若葉に愛情を注げるという勝手な思い込み。烏滸がましい。
若葉がナイフを取り出した際、後ろで見てたサラリーマンも、この後の事件を予測しながらも止めたり声掛けたりしなかったのは、自分の身可愛さ。でも同じ状況だったら自分でも声掛けないかも。怖すぎて。
田中麗奈の役は不要な気もするが、この家族、何処にでもある話。全部やだ見。
この話を少し楽しくしたのが、「ぼくたちの家族」で、こちらの方が救いがある。この話は皆不幸。
あまりお勧めでは無いが、忘れ難い話。
獄中結婚しても離婚できてしまっては。
『葛城事件』(2016)
息子が殺人をして死刑判決が出た。男親の視点からの映画らしい。家にペンキで人殺しと書かれた壁を男親は消している。男親を演じている三浦友和は若い頃の二枚目から既に完全に演技派の重鎮になっている。そこに、獄中結婚をした女(演者は田中麗奈)が訪ねてくる。私は死刑賛同だが、映画の女は、死刑に反対している。凶悪犯人の心も変えられると女は信じている。獄中結婚したことで、女は実の家族と別れてしまったという。私はこうした女に賛同できない。女が犯人と接見すると、花や菓子なんかいらないから現金をくれというが、なんだ愛情のないと思うと、男は、
家族なんだから正直な会話が必要だ。6万円もってきてくれという。それはそうかも知れないとお思わせる。獄中結婚した女にガラスの後ろで罵声を浴びせる犯人。冷静に応じる女。「ちょっとずつでもいいので、本当の家族になれたらいいと本気で思っている」と話すと、犯人は不信な顔をしてなにか言い残し、獄に戻る。そしてこれは時間が行きつ戻りつするタイプの映画のようだ。四人暮らしである。男親と犯人(若葉竜也)のほかに妻(南果歩)と長男(新井浩文)がいた。居酒屋でカラオケを歌う男親とそれをみる獄中結婚の義理の娘のシーン。男親はかなり酔っぱらっている。
男親は義理の娘を非難しまくる。娘は息子の話が聞きたいという。この映画では人殺しの親でも相手にしてくれる居酒屋の存在があるとみえる。他の客も眉をひそめるが、男親は一緒に飲もうという。とうとう自分の立場ってものをわきまえろよと言われてしまい、早くこの街から出てけと言われると男親はグラスを床に投げつけ、義理の娘と居酒屋を出る。歩きながら娘に話す。長男は良くできた子だったが、弟の犯人はへらへら遊んでいる。同じ兄弟でこうも違うかと愕然としたが、俺はやるべきことはやってきたんだと語る。時間が戻り、長男は会社を解雇される。相談するのが遅かったという先輩がいいことを言っていた。営業とは買ってくれるお客のところに行き、買ってくれないお客さんへは行かないことだが、熱意で買ってくれるものだと。家庭のトラブルのエピソードの後に、また接見のシーン。犯人は女に打ち解けない。女は「私はあなたを愛します」というが、無言で獄に戻る。犯人は無職のコンプレックスがあった。夫婦仲は冷え、妻は失踪したらしい。長男は解雇されたのを告げずに、勤めている振りをしているらしい。男親は工具を店で売る経営をしているらしい。長男は再就職の面接に行くが、冷や汗をかき、精神的になにか出てしまうようだった。アパートを借りて、妻と犯人の次男が隠れていて、長男が見つけて男親に連絡する。長男がどうするのと心配する。妻は時給850円のスーパーで働き、次男とコンビニのナポリタンを食べている。
それを見つめる失業を隠し営業をしている振りをする長男。やがて父親が入ってくるが、次男を足蹴にする。なぜ次男に父親は暴行したのだろう。包丁を次男に向けた途端に、妻が家に帰るからもうやめてと泣いて頼む。だが凄まじいシーンだが、本当に次男を刺すわけもなく、「とりあえずおうちへ帰ろう」と言って、そのシーンは終える。長男が死ぬ。遺書はレシートの裏に「申し訳ない」。
葬儀での嫁と姑の大きく重い確執の対話。愛憎。そして<普通の>街の描写へと転換する。獄中結婚の妻が歩いている。精神病院に車いすでいる女親の姿があり、語り掛ける。人間に絶望したくない。死刑は人間絶望の制度だ。彼には私みたいな人間がそばにいれば心を改めるのだ。今までそういう人に出会えなかっただけだからと女親に向けて叫ぶ。また時間がさかのぼり、長男の遺影に向かって一発逆転してみせると語った次男だが、なぜかナイフを手にする。そして、駅の中で、無差別通り魔を起こしだす次男。叫びながら、ナイフで何人もの通人を切りつける。これも凄惨なシーンである。なぜか逃げずに茫然と立ちすくんでしまう人たち。その頃、男親は家族四人の昔の写真。子供たちがまだ少年だった頃のにこやかな写真をみていた。カラオケスナックのシーンに戻る。男親は客に叫ぶ。「俺が一体何をした」。「奴を裁けるのは国だけだ。そういう仕組みを容認しているあんたらが国民が俺の息子を殺すんだ。それで勘弁してくれねえか。私は息子の血や肉体を差し上げます。奴の脳みそを分析し、今後の犯罪の軽減に協力できるならば、どうかこの変でご容赦できないだろうか」と言った後で土下座する。みんな帰ってしまう。スナックの老いた女主人は、あの家はどこか売り払って他にいったほうがいいよと諭す。みている獄中結婚の妻。そしてずっと昔の子供たちが少年時代のシーンになる。男親は「自分の城ですから」と仲間に
語っていたシーンが対比される。男親は決して異常な人ではなかった。精一杯やってきた人だったのに。6人も7人も殺しても、男親は獄中結婚の妻に、犯人の息子を死刑にしないでくれと頼む。
息子は獄中結婚の妻に、ずるずる死刑執行を伸ばすようなことはしないでくれと怒鳴る。すると、獄中結婚の妻は安い冷房のない部屋でも当時の交際相手と性行為してしまうという話を犯人に聞かせる。こういう面を良い思い出にしてしまうような感覚や、凶悪犯人に獄中結婚して立ち向かおうとする女の存在も変人なのだが、どうした考え方でそうした女が現実にもいるのだろうか。この異常な男女の関係の、ガラス越しの言い合いのシーンも凄惨である。男は軽く礼をして獄に入るようになっていた。涙を流す女。だが現実はこうしたケースもあるとしても、もっと修復不可能なサイコパスはいるはずである。本当はこう書くことが良心的である。これはフィクションだ。「葛城金物店」が閉店しているのが映し出される。男親は獄中結婚の妻に、死刑執行前に犯人は両親のことを何か言ったかと聞くが、別になかったが、死ぬ前に炭酸を飲みたいといったという。男が死刑執行をされて、獄中結婚の妻は、犯人の男親に別れの挨拶にきたのだ。「もうこれで息子との関係はおしまいか」と聞く男親。そして、男親は獄中結婚の妻をレイプしようとする。「唇くらいいいじゃねえの」「失礼じゃないですか。大きな声を出しますよ」「今度は俺の家族になってくれないか」「はい?」「俺が三人殺したら、おまえは俺と結婚してくれるのか」「ふざけないでよ。あなた、それでも人間ですか」驚いたような顔をみせたが、女は出ていく。残された男親は、妻と二人の息子の名前を呼ぶように叫ぶ。獄中結婚の妻は犯人には確かに向かい合えたかも知れないが、犯人が死ぬと関係を清算できた。交際相手とも性行為して別れられた女。しかし男親は。家の中のものをみんなぶちまける。壊す。家の中を滅茶苦茶にする。城だったのに。そして掃除機のコードを伸ばす。庭に出る。イスを持ち出す。木にかけたコードを首にかける。しかし、木が折れる。一瞬正座して立ち上がりまた部屋に戻る。滅茶苦茶な部屋の中で、食べかけていた蕎麦をまたすすりだす。
現代の家族描写が的確!!
強権的な父親が家族全員を蝕んだ結果を描いていますが、父親は一般的な面倒臭い団塊オヤジにしか見えないところがリアルだと思います。お母さんは息子を連れて脱出する判断力を持ちながらも、呆けてしまって怖かったです。中途採用やニートの就職は異様に難しいので、団塊の考え方とは決して相容れないのも上手く表現されていました。私も似たような状況ですが、実家に色々と問題を抱えている場合は、精神衛生上観ない方が良いと思います。襲撃シーンは良く撮れていました。色々やってまた食べるという何だか清々しい終わり方も印象的でした。本作の内容は十分起こりうる事で、誰もが皆自分が正しいと思っているのだから、別に狂ってはいないところがリアルでした。
現代ニッポン
凄惨な事件が起きると、皆が一様に思うのが変な家族だったんじゃないのかとか、原因は親にあって教育を間違えたんじゃないのかとかいう話になります。日本では悲しい事件が、「普通の家族」「普通の自分」を確認できるツールとして、存在している感じがします。
作品を象徴しているのが、「普通の人」が見て見ぬ振りをしたり、評論家に徹するところでした。次男が包丁を持っているのを見ても何もしない。精神的に追いつめられた母親や長男を助ける第3者が誰もいない。ふと気づくと、日本はそれが普通になっていたんですね。他人に興味を示さず、スマホをずっといじってること事体、よその国からしたら「変な国」だったりして。日本は、葛城清みたいな政治家のオッサンだらけだし。だから葛城家はまさに現代ニッポンの象徴の様です。
正そうとしたいけど叶わぬ夢
デットマンウォーキングのような展開を期待してしまっていた自分がいる。
こちらの映画は死を目前にしても人は簡単には変われないという寂しい現実を知らされた気がする。
自殺であろうと死刑であろうと、病気や事故ではないのだから、自分の考えや行動で防げるもののはずが、葛城家には通用しない。
果てしなく「こういう人嫌い」で片付けたいけれど家族やご近所では、シャレにならない。
登場人物で唯一スナックのおばちゃんが好きです。
どいつもこいつも、正義面だからなお恐ろしい
映画「葛城事件」(赤堀雅秋監督)から。
作品全体に、重い空気が流れ続け、
観賞後の気持ちも、(正直)どっと疲れたが、
「無差別殺人事件を起こした加害者青年とその家族」に、
スポットを当て続けたことで、第三者としてでなく、
三浦友和さん演じる、加害者の父としての苦悩が伝わってきた。
子供が大きな事件を起こしたら、親の育て方をはじめ、
どんな家庭に育ってきたのか、と追求する世間の目がある。
特にインターネットが普及し、国民総評論家時代とも言える現代、
加害者とその家族をギリギリまで追いつめる社会構造は、
とても危険なことだと感じているし、
マスコミも、加害者・被害者両方の立場で報道することなく、
加害者と加害者の家族を徹底的に吊るし上げているように見える。
冒頭、ブロック塀に殴り書きした誹謗中傷の文字を消しながら、
三浦友和さんが「バラが咲いた」を口ずさむシーンは、
この映画を思い出すには欠かせない気がする。
そして、こう言い放つ。
「騒ぎたいんだよ、何か理由をみつけて、騒ぎたいだけだ。
どいつもこいつも、正義面だからなお恐ろしい」と。
普段の生活で自分たちが他人に与えている悪影響は棚に上げて、
誹謗中傷できる事件を見つけ、ここぞとばかり大声を上げる。
(または、それをきっかけに目立とうとする)
死刑制度反対を訴え、加害者と獄中結婚した女性も、
正義面した、そのひとりなんだよなぁ、きっと。
案外の重さでびっくり
それほど重い映画だと全然思わなかった!
日本人だったら結構理解できるかもしれないが、外国人なら色々混ざり合っている現象を一々理解するさえ難ありだと思う。例えば家庭の中女性の地位は低いこと、暴力を振るわれても、そのお母さんは弱気で謝るしかできなく、反抗もさらに無理。
また違和感も感じるところもある。例えば、稔が駅でナイフで人を刺すところ、周りの人の反応があまりにも異常で普段だったら逃げるだろうし。
そもそも田中麗奈のあの役は何なんだ?全ての過程を観客に伝えるきっかけと繋がる人間だろうが、たまには彼女の全然いないところでもフラッシュバックみたいに昔話が挿されている。最後また出てて全ての結末をあの暴力のお父さんに話す、だけ、の役か。
一つ過去と今の転換が上手いのは取れるところ。
見終わるとこの映画の言いたいことは何だろうと。
殺人犯に成る次男の育てた家庭自体が歪んでる、か。
日本人はこうゆうのが好きだなぁーと。
黒沢清の『トウキョウソナタ』を思い出せられるわー
家に悲しい事ばかり。
あの家もどっかでおかしい。
ただしあそこにはお父さんは失業。
お母さんは心理的に家に縛られている。
子供は自分の世界を探している。
結局家庭外部の父の失業はきっかけだ。
とても重かった。
が、
この映画はそれよりまた重い!
特に見てやはりダメなのは三浦友和の演じたお父さんだよなと思う。
もう最悪の父だー
全ての悲劇を招いて最後に自殺もできなく自業自得なのも全部あの父。
妻と愛情もなく、暴力を振る舞う。
二人の子供を差別視する。
長男の死も次男の犯行も全て家庭環境の影響だ。
特に南果歩の演じたお母さん、何度も彼女が料理できないことを提示している。
それもまた彼女の愛情の無さを示していじゃないか。
葬礼の時の話、彼女の話したエピソードも、彼女自身が自由を憧れる暗示だろうか。
また彼女も夫の暴行を止められない、というより、怖がっているだけ。次男を一番理解しようとするが、彼を守ることもできない。
こうして、また『トウキョウソナタ』と同じように、両親から崩れている日本家庭の話だ。
そのような家庭から殺人犯が.....
とにかく重いです。
劇場でずっと見たらさぞより重いだろう。
個人的には何を伝えたいかよくわからない重い映画はあんまり好きじゃない。
最低な親父
実際に起こった事件を基にしたフィクションである本作は作品的には良いのだが、そのてのトラウマを抱える者にとっては苦痛この上ない作品である為★1つ。
葛城清の全てを象徴するマイホーム。
庭に植えたみかんの苗木は子供達の成長を願うもの。
親の代から継いだ金物屋を営む清は一国一城の主人かのように家族に対し抑圧する。
清はプライドが高く自分以外の全てに否定的。出来の良い長男を褒め、何をしても長続きしない次男を罵倒する。妻は清のストレスの捌け口となり暴力を受ける。そんな支配的な日常から長男は自立し家を出て家庭を築く。
残された妻と次男は1度は家を出たのだが、見つかり家に戻る。
最後の晩餐…何が食べたい?
母が息子達に話す姿が本作の中で唯一ホッと出来るシーンだが、そんな最中にドアが開き…清が…緊張感半端ない。
長男の自殺、次男の死刑、妻は精神崩壊により施設、
清のマイホームには誰も戻って来ないのにそれでもしがみつく清の姿にムカムカする。
こう言う人いるね〜って思った。
家族から嫌われてるし、周りの人だって挨拶程度の付き合い。家業だって客も来ない金物屋で収入あるの?と思うけど、一応社長だから見栄っ張り。息子の嫁家族には大盤振る舞いし、中華料理店の店員には常連客ぶって横柄な態度。人を見下し最低な親父だ。
あー全く腹が立つ‼︎
次男が最後に本音を言った。
自分の駄目さは十分理解してる。けど認めたくないから他人を、日本を、誹謗中傷しどうにか自尊心を保ててる。嫉妬に狂って事件を起こしたって。
次男は清によく似ているが清より賢いのかも知れない。狂ったイノシシは殺処分に…と。
葛城清…こいつこそが悪の根源なのだ。
家族こそが被害者だ。
死刑囚と獄中結婚ってよく聞くがその真意が理解出来ない。死刑制度廃止はわかるが死刑囚と面会が許されるのが家族だけだから獄中結婚するの?謎である。
戦慄家族物語
赤堀雅秋監督の前作「その夜の侍」は凄まじい人間ドラマであったが、同じく舞台劇を映画化した本作もまた。
話はシンプル。ある家族の物語。
しかし、語るのは難しい。
一つ一つ整理し、考えながら、書いていきたいと思う…。
ある青年に死刑が宣告され、傍聴席のある人物に不敵な笑みを向ける。
その人物とは、父。
やがて父が一人暮らす閑散とした家に、青年と獄中結婚した女性が訪ねて来る。
ここを導入部とし、明らかに何かあったこの家族の姿が炙り出されていく…。
葛城家。
マイホームに父と母、二人の息子。
一見ごく普通のありふれた家族のように思えるが、温もりなど微塵もナシ。
まず、一家の大黒柱・清がモンスター。常に横暴で威圧的な態度で、せっかくの会食の席で店員に聞いてるこっちが嫌になるくらいのクレーム、家族に暴力を振るう事も一度や二度じゃない。
母・伸子は朗らかな性格だが、何処か心ここにあらず。
長男・保はすでに独立して妻子持ちだが、ある秘密を言い出せない。
次男・稔はニートで引きこもり。
それぞれが問題や闇を抱え、家族が顔を合わせただけでヒヤヒヤする空気を孕む。
清は自分なりに家族を大事にし、守ってきた。
が、そんな自分の思いとは裏腹に、知らず知らずの内に家族を支配し、苦しめていた。
当然のようにその時は訪れた。
「あなたの事が嫌い。なのに、何でここまで来たんだろう」妻は家を出、精神がおかしくなっていく。
何とか家族を繋ぎ止めようとする長男だが、今にも壊れそうなほど小心。言い出せない秘密と二つの家族が重くのしかかり…。
人生の一発逆転を狙う次男。彼が起こした“人生の一発逆転”とは…
実際に起きた複数の無差別殺傷事件がモチーフ。
ここで本作が一筋縄でないのは、何故彼がそんな事件を起こしたのかではなく、彼を事件に駆り立てたのは何か、である点。
次男にも問題はある。何をやってもダメな自分の一方的な社会への逆恨み。
それを植え付け、さらに増長させたのが…。
自分の思い通りにいかなければ、不条理な不満をぶちまける。
自分の非を認めず、反省も責任能力も無い。
この異常犯罪者にこの父親あり。
見たら分かる通り、この次男は父親に類似の性格になったではないか。
世間を震撼させた事件の加害者全員が全員、同じとは限らない。
本作の場合、父への憎しみ、父の蔑みだったが、そういう歪んだ何かしらが異常心理を形成する。
三浦友和が存在感と破壊力抜群の恐演。
南果歩、新井浩文も渾身の力演。
次男役の若葉竜也が一際印象を残す。
ちょっと浮いてると感じてしまうのが、田中麗奈が演じた次男と獄中結婚した女性。
キチ○イだらけの登場人物の中で一応唯一のまともな人物の設定だが、言わせて貰えれば彼女もまた相当キチ○イ。
時々言動に不可解があり、次男を助けたいと言いながら結局は何もせず、偽善者こそ一番のキチ○イと言うならば痛烈に効いている。
この家族にも幸せに満ちた一時があっただろう。
清が見る家族写真やとある回想シーンはまさにそれ。
家族を愛するのはいいが、彼に欠けていたのは、思いやる事。
強欲に愛する余り、結果自分で壊し、失ってしまう。
ラストシーンも印象深い。
子供たちの成長と共に育った木の枝に縄を括って死のうとする。が、枝が折れて死ねなかった。
死ぬのは簡単。生きる方こそ苦しい。
父は子供たちに“生かされた”のだ。
自分が建て、自分が壊した、自分の城の中で、独りで。
映画は見たら普通、いい所を褒めるもんだが、本作はその逆で称えたい。
不快感100%、後味悪し、誰もがこんな家族にはなりたくない、お近づきにはなりたくない、ド鬱家族物語。
終始緊迫感張り詰め、見た後ドッと疲れるが、片時も目が離せない!
全34件中、1~20件目を表示