ひそひそ星のレビュー・感想・評価
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「記録」として撮るだけというのは果たしてどうか
園子温。
「紀子の食卓」で作風と演出の方向性が固まり、「愛のむきだし」で変態をエンタメで描き、「冷たい熱帯魚」で変態色が強まり、なぜだか、日本を代表する映画監督として祭り上げられる。
だが「紀子」以前の「奇妙なサーカス」等の作風とその時の方法をミックスしたような「恋の罪」が全然面白くなく、「ヒミズ」に至っては、福島の風景が撮りたいがためだけの、お子様ランチと化して、それ以降の「地獄でなぜ悪い」「TOKYO TRIBE」とさらなるお子様ランチが続き、三池ならお手の物、だが園監督の手には余る「新宿スワン」ですっかり見切りをつけた監督である。
今回、全く観に行くつもりではなかったが、連れがどうしても観たいという。神宮前のワタリウム美術館で展示をしているということもあり、美大での彼女の、アートなにおいをかぎ取ったのか、お供で鑑賞した次第である。
本作、園が昔書いた脚本を映画化する際、福島の今を記録することの作家としての思いが合致し、作られたという。
なるほど、アンドロイドが「思い出」を届ける、というのは、SF的だ。その届け先が荒廃した世界の人々、というのが「福島」にあたる。
「希望の国」は観ていないが、今回は「いやらしさ」を排除したとう。
果たしてそうか。
「ひそひそ星」
「ひそひそほし」なのか、「ひそひそせい」なのか、気になって序盤まともに覚えていない、と言うのは嘘だが、どれだけ意味のあるのか、ただただ同じシーンの繰り返し、という序盤。
主人公洋子はアンドロイドで、時間の経過に左右されることはない、というので曜日の経過をいちいちいちいち繰り返す。お湯を沸かすのに、1日が過ぎるのである。こちとら人間なので、時間の経過ばっかり気になり、そのうち時間どころか映画の経過も気にならなくなるという睡魔に襲われるのは、おそらく意図的だろう。
長い時間をかける、は福島復興にひっかけているのかもしれないが、そういう睡魔を意図的に誘う方法だと腹は立つ。自己満足なメッセージ表現でしかない。
またこの映画、随所に、昭和な描写が続く。蛇口、床の雑巾がけのかけ方(今どき、あんな雑巾がけのやり方するか)。
そして「ひそひそ星」の影絵の姿。徹底して昭和推し。昭和の家族推し。昭和推し、の真意は分からないが、正直、気持ち悪い。
それ以外は実に緩く、各配達物の「思い出」にこれといったエピソードもなく(連れはフィルムが出てきたことに感動したというが)ババアの缶蹴りにちょっと笑ったぐらい。
本作、自主制作ということだが、それを盾にしてる感が強い。「自主制作」なので、観なくていいよ、という妙な開き直り。
例えば、主人公が自転車で福島の町を延々と走るシーンがある。
「記録を残す」、とはそういうことではないだろう。
映画なら、お客さんからお金を取るなら、もっと「お客さんを楽しませる」方法はあるだろうに。知っているだろうに。流れる背景に変化をつけるべきだ。そこはあえて「CG」を使ってでも。SFという体をとっているなら、それこそ。
真摯な作品とは、むしろ、そういうことだとも思うのだが。
まだまだ「福島がこうだから、こういう画が撮れるから撮っておこう」という意図が見えるように思える。
追記
自主制作、と言えど、宇宙船のセットやひそひそ星のシーンなど意外と手間とお金がかかっていそうで、安っぽさはそれほどない。
遺物とともに思い出を届けるという方式で震災後の状況を記録・紹介する...
遺物とともに思い出を届けるという方式で震災後の状況を記録・紹介する方法はアリと思います。しかしながらラストシーンの影絵は昭和30~40年代の生活を想起させるもので、浪江町の方々は2011年でもそんな暮らしをしていたと言うようなイメージでした。田舎の生活なんてそんなもんでしょ、という勝手な思い込み、あるいは馬鹿にしているのかなぁ、と思われました。もし浪江町ではなく架空の町であるというならば、自転車で街を巡るシーンで壊れた店の看板など街をそのまま映すのではなく、シン・ゴジラのようにセットなり特撮なりで造らないと。まあ、震災の記録・紹介するつもりなんて全く関係なく、ちょうどよい廃墟がたまたま浪江町にあっただけなのかもしれませんが。
影絵の意味するものは?
園子温による、2015年製作のモノクロSF映画。
人工知能を持ったロボットが8割、人間が2割となった未来の時代、宇宙船に乗ってアンドロイド鈴木洋子が荷物配達員として、銀河を浮遊する話。全体的に静寂に満ちていて、音のないプラネタリウムにいるような感じ。
日本家屋の長屋がそのまま宇宙船になっているのを見た時は、ちょっと笑ってしまいました。
それにしても、どんなメッセージがあるのだろう?
正直なところ、残念ながら、今のところ私には奥の深さが理解できませんでした。
この先、ストーリーがどうなるか考えながら見ると、置き去りにされて、途中で見るのがイヤになってくると思います。前半30分を過ぎたところで、やっと、鈴木洋子以外の人物らしき人間が現れました。
ただ思ったのは、あまりにも欲望に心が支配されて、あれもこれもと精神が忙しい時なんかに見ると、シンプルになれるかもしれません。自分がそうでした。だから、よくわからないなりにも、嫌いになれない映画でした。
テレポーテーションが発達して、瞬時にどこにでも移動できる時代となり、最初のうちはそれが便利でよかったが、人間は「距離と時間の憧れ」を失って退廃的になってしまった…つまりは、この鈴木洋子は、絶滅寸前の人間たちに心のトキメキを配達し続けているのか?
エンディングの影絵のシーンは美しくも哀しい感じ。荷物を影絵の女性が受け取った途端、悲しみに暮れるのは何を意味しているのか? 親しい人が亡くなったことを告げるものが届いたのか? 心に封印していた悲しい出来事を再認識しなくてはいけないもの(形見のような)が届いたのか? 影絵そのものが、過去の回想を意味しているようにも思えました。
静かなる衝撃
ひそにそ星
おそらく初めての園監督作品観賞。
宇宙船かわいかった。あれで宇宙を漂えるなんて羨ましい。
ほっこりと心が落ち着く映画でした。
つなぎ姿も、かわいかった。
すべての人の声がひそひそなのは、聞き取りにくかったけれど…
笑われてムカッときちゃうところとか
人間ではない設定ですが、時々感情的なのがよかったです。
福島は今もあのままなのでしょうか?衝撃でした。
SF映画として堪能しました。
あ、少しだけ、落ちちゃいました。
郷愁に浸る
途中寝てしまったが、しっかり観ていればよい映画だったのかもしれない。昭和の民家のような宇宙船。水道からこぼれる水滴、拭き掃除は何のため?影絵の中を歩くシーン、荷物を受け取った一家が驚愕し、悲嘆にくれる場面が影絵で表現されている部分は、昔いつかみた夢の中でこんなシーンがあったのではないか、と懐かしい感情がほとばしり、なぜか涙している自分がいた。不思議な映画。
映像詩人園子温が好きな人にはオススメ
園子温版銀河鉄道の夜だと思いました。
エンケンさん、宇宙船さんが好き。
神楽坂さんも良い感じ。
私がまだ5歳位の頃、産まれて初めて映画館で観た映画はますむらひろしの銀河鉄道の夜でした。
5歳の私はどんな物語が展開されるのだろう?とワクワクしたのですが、この映画の見始めは、同じようなワクワク感。
タルコフスキーのオマージュがあるとコメントされてる方もいたので、昔から気になってた惑星ソラリス見なきゃ!とも思いました。
奇妙なサーカス以来の美しさ儚さ
気球クラブ、その後以来のせつなさ
紀子の食卓以来のワクワク感
後半は退屈だけど見終わって余韻に浸りつつ考えた結果好きになる映画
やっぱり紀子の食卓が一番好き。でも、
園子温が面白い方に戻ってきてくれたことを確認し安心できたのが一番の収穫。
この映画のミツコさんは
コンピューターきかい6・7・マーM
かな?
ちょっと陳腐な影絵は
失われた日常、普通に暮らすことが許されなくなった日常
なのかな。
洋子コンピューターきかい6・7・マーMにずっと旅していて欲しいと愛おしく思ってしまう
永遠の尊さ、日常の尊さを再認識
被災地以外に住んでいると忘れてはいけないと思っていたはずなのにいつの間にか忘れてしまいがちな、身近な失われてしまった世界が日本国内にあることを再認識し、そのありえないはずの現実にせつなくなって涙
すごい映画なのかもしれない
映画を観て一週間たちます。パンフレットやネットで情報を漁っての感想です。私たちの生活での映画の存在の小ささと、それでいて重要さを示している作品です。映画を観ることは非日常を求めているのですが、この作品は非日常を宇宙船とアンドロイド、宅配便というもので設定し他は殆どが日常を表現しています。観客は非日常を求めるが映画では荷物を渡すところくらいしかなく、それも別段何かがある訳ではないのです。宅配の荷物を渡すシーンで何かを期待し、ありふれたやり取りでも心が動きます。映画を観ながらその事を感じ取るように計算された放置プレイの映画なのです。実際に私たちの生活は平凡なルーチンから出来ていてその中のひと時に喜びや悲しが存在しています。映画はそのひと時なのです。
これが私の理解力の限界でした。
空き缶
超ミニマムなアート映画でした。
ひそひそ話し、モノクロ、という意味で、園子温過去作の「部屋」みたいだった。
寝不足の時は見ないほうがいいです。
必ず寝落ちします。
映画館で見るなら、ポップコーンは買わない方がいいです。
静かな映画なので、音がいちいち響きます。
まぁ館内、イビキだらけでしたけど…笑
25年前に書いた脚本と、福島を混ぜ合わせた作品のようで。
監督はあまり今作を言葉で表したくないとのこと。陳腐になるから。
でも無理矢理に言葉にすれば、
たぶんこういう事。
声の音量は、放射線量の比喩
音を立てる空き缶は、ずーっと付きまとう被災の記憶(放射能を含む)
恐らくそんなイメージだと思う。
監督自身が被災地に足を運び、被災者の声をきき、何本か福島絡みの映画を撮ってきたことで、彼なりに行き着いたのが「記憶」なんだろう。25年前の脚本ということで、そういう意味でも「記憶」なのだろう。
監督の福島映画の完成系は恐らくこれだと思う。少なくとも希望の国とかヒミズとかよりもグッと核心に近付いた。
削ぎ落として、削ぎ落として、辿り着いたのがこの形だったという事だと思う。
音よりも匂いを感じる
全篇モノクロの作品。
自分は園監督作品は血だったり汗だったり涙であったりこの映画の匂いやべえな
って気持ちでいままで見ていたのだけど
全く匂いがしない。
宇宙というテーマ、ロボットという主人公
だからなのかな?なんか物足りないな
と思っていても荷物を届けるために出会った人物と触れ合う時に自分は微かな匂いを感じました。会うたんびに匂いが伝わって
くるんです。
出演者の一部は福島の市井の人たちで
プロではない独特の雰囲気がまたいい感じなんです。ただひそひそ星というタイトル通りひそひそとしか喋らないので
夢の中に入ってるお客さんが何人かいました。 夢の中でどんな夢を見たのか?
Young Shion Sono
20年前以上に作ろうとして、制作費の枯渇で断念した作品と言うことである。
押しも押されぬヒットメーカーに成り上がった監督が、その若い頃に心残りだった残骸である絵コンテや脚本を引越しの毎に捨てられずに一緒に連れて行ったという。
あの頃の宿題を、伴侶となった女優を主役にリベンジに燃えるといった感覚なのか・・・
作品自体は文学的というか、芸術的というか、それまでの園作品のエンタテインメント性がグッと押さえられた演出である。初期の監督作品を知ってる人は懐かしいのかもしれないが。観覧したところが、東京フィルメックスという映画祭及びコンペティションの企画内であったので、より一層その商業主義と一線を画す意図にピッタリなのだろう。
人間の記憶がモノと結ばれ、気持ちが倍増していく。そして淡々と流れる時間と繰り返される暮らし。時間を過ごす、やり過ごすということは、果てしない宇宙を旅するようなものであるというメタファをそのまま一種のSF映画っぽくしたテーマ。
常に差し挟まれる曜日や日にちのテロップ。人間達の記憶を刻み込んだ多種多様なモノがしまい込まれる段ボールが宅配される先は何年もかかる惑星間。
ハリウッドやアニメでは描かれることがない、宇宙航行中の果てしない時間の表現。
そして、監督のテーマでもある『福島』。ロケ地は常に変化を続ける。白黒で描かれる今作品の唯一のカラーになる瞬間のカットが元々街であり、現在は雑草が生い茂る荒れ地で、バックの強い波飛沫、遠く澄む青空に福島への愛を感じさせてくれる。
上映時間は100分だが、それ以上に長く長く体感時間は感じた。
ベクトルの逆が『熱帯魚』ならば、これは静とモノが発する音を演出の依り代として表現している。
感想としては、やっぱり、園監督の激しい作品を観たいなぁ・・・(ふぅ)
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