劇場公開日 2016年3月18日

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「分裂しそうな内面を動的かつ端正に描く秀作」リリーのすべて りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)

4.5分裂しそうな内面を動的かつ端正に描く秀作

2016年3月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1920年代のデンマーク。
アイナー・ヴェイナー(エディ・レッドメイン)は風景画家として成功を収めつつあった。
妻のゲルダ(アリシア・ヴィカンダー)も画家であるが、主流でない肖像画を中心に描いているため、成功には程遠い。
ある日、製作中の妻のモデルの踊り子の替わりを務めたアイナーは、幼い頃からの想いと相まって、自身の内からの女性性に目覚めていく・・・というハナシ。

内なる自分に気づいて、内面が分裂しそうになるひとの話はこれまで何度かお目にかかった。
そういう意味では、それほど目新しくはない。

しかし、トム・フーパー監督は、その内面性を巧みに、それも的確に端正ともいえる映像で表現していきます。

冒頭のデンマークのフィヨルド地方の沼の風景。
それは、アイナーが幼い時分に暮らした土地。
水面に映る立木。
それは、揺らいでいる。
そして、風景に続いて製作過程のアイナーが写し出され、その湖沼地域の風景画を描いている。
この導入部は、後に明かされるアイナーの幼い時分のエピソードを知ると、非常に巧い。

アイナーが自身の女性性に気づく代理モデルのシーン。
ストッキングを履き、右脚を斜めに伸ばしたアイナーは、そのスベスベの脚を自身で魅入る。
このスベスベ感、このシーン以前にアイナーが件の踊り子のもとを訪ね、多数並んだ彼女のスベスベした衣装を手で撫でるところと上手く関連付けられている。

これらの内面の女性性に気づくアイナーを、抑制した表現でみせているあたり、トム・フーパー監督の巧さを感じ、一気に映画に引き込まれていきます。

さらには、妻役アリシア・ヴィカンダー。
たまたま、アイナーにモデルの代替を頼んだことで彼の女性性を引き出すことになるのだけれど、当初はそんな意図などなく、面白半分、ゲームのような気持ちでした。
夫の女装も、ゲーム=つまり、夫と自分とのなかでの秘密の共有、程度だったのが、アイナーの自我を引き裂き、自分をも引き裂いていくさまを、こちらも感情移入できるように演じています。

この引き裂かれた自己、そして引き裂かれて相手を変わらずに愛おしく感じてしまう感情。
このダイナミックな主題を、トム・フーパーは端正に描いていきます。

ダイナミックでありながら端正、相矛盾するふたつを巧みに演出した例としては、次のふたつが挙げられます。
パリに移住したアイナーが覗き部屋で、裸婦を覗き見ながら、自身が裸婦と同化していくさま。
押さえきれない女性性の発露を、部屋を仕切るガラスに映る裸婦とアイナーのシンクロニティで描きます。
ここはダイナミックな例です。

端正なのは、切り返しの上手さ。
言い争うアイナーとゲルダ、手術に挑む前のアイナーと教授など、ふたつの対象をそれぞれのフレームに収めて、的確にみせていきます。
最近の映画では、意外とうまい切り返しが少なく、何気ないショットですが、切り返しに至るまでを的確に撮っているからだと思います。

物語は後半、アイナーの手術にうつっていくのですが、手術は、男性性器の切除と女性器の形成の2回にわたります。
1回目の手術を終えたあとのアイナー(もうこの時点ではリリーですが)の心境の変化にはかなり驚かされます。
それまで抑圧されていたものから解放されて、自由になったわけですが、その自由に対しての渇望・欲求が極端に大きくなっていきます。
物語的には、ここいらあたりがかなり興味深かったです。

そんな自己解放が進んでいくアイナー/リリーを愛しつづけるアリシアには胸が押しつぶされそうになりました。

観終わってまだ整理がついていないので、とっ散らかったレビューになってしまいましたが、評価は「秀作」です。

りゃんひさ