「バンコクナイツは「ソイ48」の音楽活動の序曲である」バンコクナイツ ナムトックさんの映画レビュー(感想・評価)
バンコクナイツは「ソイ48」の音楽活動の序曲である
他の評者が語るようにバンコクナイツは、長尺に渡る映画である。私は、ある種のエピソードの断片を積み重ねた結果、長くなったと思えたので、退屈を感じることなく楽しんだ。エピソードの中には、タイに何度も行ってタイ文化に親しんでいるトラベラーなら知っているような事実の断片が、ぶっきらぼうに提示されている。タイの伝説的左翼文学者チットプミーサックの文章や1973年学生決起クーデターに対する巻き返しの1976年のタンマサート大学虐殺事件後の学生や運動家のジャングル潜伏生活に関する言及と幽霊の話、ベトナム戦争から帰休中のアメリカ兵士とタイ人女性の間でできた子供の行方、アメリカ軍がベトナム戦争で補給を断ち切るためにラオスに落とした爆弾跡など、観客が戦争の歴史を知っていようといまいと説明されることなく、監督の俺達は知っているんだからねと、ちょっと嫌らしい形で提示される。
歴史を知らない観客は欲求不満になり、知っている輩は、「なんだ、インドシナの歴史のおさらいと戦争(大きな物語)後は、ただ後始末の生活だけがある」と言いたいのか、「ユートピア」と言っても切り口はデカプリオの「ビーチ」と同じだなと不貞腐れてしまうのは確かだ。
つまり、大きな物語(ベトナ戦争)の後始末のエピソードが3時間近くも上映されても、タイやインドシナを知らない観客には、迷惑この上ないものになるし、タイをよく知る観客にとっても、「タイにはよくこういうことはあったよな、ああ、おもしろかった」というヴァーチャル・リアリティー体験だけで満足してしまうことになってしまう。
ただ、映画自体は、観客を動かしてくれないが、映画に伴う様々な並行活動が観客を動かすという、ちょっとおもしろい現象は、すごく評価したい。つまり、モーラム楽団の招聘やモーラム音楽を日本に紹介している「ソイ48」の活動を言いたいのだ。ただし、映画の中でのモーラム歌手の扱いや仏門に入る得度式を川向うから撮った映像はあまり評価ができない。監督がモーラムはラオスに誘う媒体(つまり、ベトナム戦争跡、つまり、政治)だと考えているフシがあるからだ。こういう思考法は、昔の「帝国主義と植民地(富める者と貧しき者)」の思考のフレームを借りているように思える。
しかし、モーラムからタイ・イサーンへの旅を語る音楽ユニット「ソイ48」の活動は、違う。イサーン人の貧乏ながらの音楽に対する金遣いのあらさやモーラム音楽へのクレージな振る舞いを紹介する活動を通して、「そうしなければ生きていけないからそうするのだ」という、理解不明で意味不明な圧倒的なエネルギーをタイの音楽を掘ることで観客の前に放り投げてくれるのだ。それを聞く観客は、日本の民謡やインドの音楽、あるいは、その他もろもろの「過去」を探すことを通して、人生を旅するのも悪くない知れないと、自分の内部の疼きを久しぶりに感じることができる。