バジュランギおじさんと、小さな迷子 : 映画評論・批評
2019年1月8日更新
2019年1月18日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
不退転のポジティブパワーに見出す、娯楽の王様“インド映画”としての自信と確信
“インド映画”が日本でも継続的に公開されるようになり、「インド映画=イロモノ」と見なす偏見はほぼ解消されつつある。しかし“インド映画”には、他国の映画が及びもつかない力強い個性があって、パワフルなエンタメ魂にねじ伏せられるような感覚に陥ることが多い。この「バジュランギおじさんと、小さな迷子」もまた、インドらしい剛直球が頼もしい快作だ。
ボリウッドの大スター、サルマーン・カーン扮する“バジュランギおじさん”は、学はないが誠実な人柄で周囲から愛されている快男児。ある日、ヒンズー教のお祭りで迷子になっている女の子(猛烈に可愛い)と出会い、親が見つかるまで世話することになる。ところが女の子は喋ることができず、名前も身元も一向にわからない。しかし習慣の違いから、イスラム教徒であることが判明する。しかも彼女の実家はインドと敵対関係にあるパキスタンにあるらしい。“バジュランギおじさん”は、彼女を両親のもとに送り届けようと、パキスタンへの密入国を決意するのだ!
とことん善良な男が、年端も行かない少女のために危険で苛酷な旅を続ける感動ストーリー。なんとなく「世界中が涙した奇跡の実話の映画化!」だと錯覚しそうになるが、完全なフィクションだ。それならば、いささか安易でできすぎなお涙頂戴なんじゃないですかねと、ひねくれた意見も出てきそうな作品ではある。
この映画が飛び抜けた傑作だとか、独創性があるとか言うつもりはない。しかしそれでもなお、まんまと感動させられずにいられない。なぜならこの映画は、「真っ当な人間が真っ当なことをする」という究極的にシンプルな美談が、必ずや観客の心に届くはずだと心底から信じているからだ。そして、価値観が多様化し寛容さが失われつつある時代だからこそ「真っ当であれ! 人に親切であれ!」というストレートすぎるメッセージがまっすぐに突き刺さるのだ。
実際には、もっと複雑な問題にもクレバーに踏み込んでいる。インドとパキスタンの複雑な対立の歴史、宗教間の対立と無理解、日常に潜む数々の偏見。どんな人情話も、土台がしっかりしていなければ説得力は宿らない。ただし、どれだけ現実を見据えても、斜に構えたり、皮肉に逃げ込んだりは決してしない。そんな不退転のポジティブパワーに、娯楽の王様“インド映画”としての自信と確信を見出し、憧憬にも似た気持ちが沸きあがるのを止められなくなるのである。
(村山章)