裁かれるは善人のみのレビュー・感想・評価
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ロシアの人はS〇BWAYでもウォッカを飲む
つまり、司法機関の弁護士が行政機関の長である市長に暴力を振るわれると言う事はこの国が物凄く民主的でないと言っている。
最終場面で『十字架を壊し、イコンを傷つける者がいる』としている。つまり、科学的社会主義者や無神論者って事だろう。
そして、この主人公も教会に余り来ないと神父になじられる場面もある。
それをどう受け止めるべきかと言う事だと思う。
閑話休題
今年、サンクトペテルブルクのトレチャコフ美術館へ、イコン画の巨匠と言われるアンドレイ・リブリョフの『至聖三者』を見に行った。めでたく鑑賞することができたのだが、二日目に行くと物凄い長蛇の列が出来て、入る事が出来なかった。
トレチャコフ美術館はイコン画を始めとしたロシア絵画を集めた美術館。
その長蛇の列は、ロシア人の子供達であった。その中にイコンを傷つける子供はいるとは思えなかった。また、いやいや来ている気配も無かった。
なぜなら、1日目も東博の10倍位の入場者がいた。しかも、夏休みなので、子供が多かった。日本人のク〇ガキが長谷川等伯を見に東博へは行かないだろう。(松林図屏風は正月だけか!)
兎も角、ロシア人のアイデンティティの質の高さは、日本人のそれとは比較にならないと感じる。
さて、
ドストエフスキーの
『ミーチャ』と『グルーシェンカ』の関係を匂わし、最後は『ゾシマ長老』を神父として登場させている。
ロシア人の演出家なら一度はやりたいのだろうが、ドストエフスキーは反ユダヤ主義の思想の持ち主であった事は有名。
さて、そこをどう取るかだろうが、弁護士の扱われ方や浮気して自滅する女性に合理性が感じられない。
日本映画のDNAの臭いがする。彼女が立つ崖は火曜サ〇ペンス劇場並みだ。
つまり、古色蒼然としたソ連に対する反ソ連映画だと思う。
それは理解出来るが、ロシア人は波動の様にイデオロギーをアイデンティティとして自主的に変化させて来た。さて、我が国は現在民主的な国であろうが、民主的な国家を『国民自らの力』で勝ち取った様にはどうしても見えない。従って、この映画の様な行政の長は我が国でも沢山いるんじゃないかと感じる。
巨大で恐ろしいリバイアサンの正体は
原題は「リバイアサン」意味は国家主権への絶対的服從を説いたイギリスの政治哲学者ホッブスの著書名。聖書に登場する海の巨大な生物からの引用である。
つまり、ロシアという巨大な国家になすすべなく蹂躙される姿を描いた物語だ。
本作の監督であり脚本も手掛けたズビャギンツェフがニクいところは、この内容の中でも主人公コーリャを絶対的な善人に描かないことだ。
コーリャに落ち度があるように見えるから終盤までどう転ぶのか分からず面白い。観ているコチラがコーリャに同情しすぎないように絶妙にできてるんだな。
とはいえ、冷静に判断するならば、冒頭でコーリャに突きつけられる理不尽は、相当酷いものであり、コーリャ自身も、少々荒っぽい性格ではあるものの断じて悪人ではない。
コーリャの妻の殺害の犯人がコーリャだと思っている人もいるようだ。ハッキリと示されているわけではないので解釈は好きにすればいいと思うけれど、私はこう思う。
コーリャの家から指紋の付いた凶器が出て、コーリャは息子の犯行だと思った。だから拘束されることを素直に受け入れたのだ。もちろん真の黒幕は市長である。
近所に住む友人の警官がいるが、彼はコーリャを陥れる手助けをしたと思われる。具体的にはコーリャに不利になりそうな、キャンプでの「殺してやる」というコーリャの発言を証言をした。
実際、コーリャの行動を見ていれば彼が妻との関係を修復したいと願っていることは容易に想像がつく。咄嗟の感情的な発言よりも信憑性がある。
そして何より本当に恐ろしいのはエンディングだ。
教会で神父が話す場面。そこには市長をはじめ市長の部下や判事など様々な権力者たちが集う。
人民の最後の救済の場所であろう教会でさえ国家から独立することなく権力者たちとズブズブなのだ。
弁護士で戦地を共にした友人は妻と不倫中。
神を信じず国家に反抗しようとしたコーリャはずっと一人孤独であったのだ。
本当の意味でコーリャを助けようとした人は一人もいない。端から勝ち目などなかったのである。
ズビャギンツェフ監督の特徴は乾いた画からにじみ出る恐怖感かなと思う。
普通、雄大な自然を映し出されたら癒しのようなポジティブな印象を受けるものだが、自然と同時に映り込む、巨大なクジラの骨、船の残骸、それらは恐ろしい終末世界にしか見えない。
特に何もなくとも常に「怖い」と感じてしまう。ホラー映画などでワッと飛び出て驚かせにくる緊張感に似ている。身構えてしまうんだな。
その怖さというのは突き詰めるとロシアのことであり、ズビャギンツェフ監督はロシアは冷酷で恐ろしいものと考えているようだ。
初めてのズビャギンツェフ監督の作品を観たときは少々オーバーでは?と思ったものだが、近年のロシアを見ているとあながち間違ってないんだなと納得してしまう。
閉塞
絶望の淵で拠り所とするは
ソリッドで静的かつ、動的な大自然。荒涼だが美しい風景に見いだされるのは、絶対的で圧倒的な力には到底無力だということである。
本作では、権力・宗教・不運などの覆すことのできない不条理がLEVIATHANとして描かれる。一方で、LEVIATHANを想起する鯨の死骸が浜辺に転がっている。これは絶対的な力の腐敗を意味しているのか。
絶望の淵に立たされたとき、あるいは人間の理解を超えた何かに合間見えたとき、拠り所とするのは神だ。理性の世の中が200年以上続き、一般市民の間にも事実のみを信じる志向はかなり浸透してきているのだろう。しかし、ある意味人間の最後の砦である信仰それ自体が腐敗したものだったとしたら、、、絶望の闇の中で我々は一体何を頼りに歩んで行けば良いのだろうか?何を目的に生きれば良いのだろうか?そもそも私は何の為に生きているのか?
腐敗した宗教が「本当の価値が嘘に取って代わられている」と語ったのは、腐敗した権力者たちであったことは、皮肉以外の何者でもない。
絶望の岸壁に立たされたとき、目の前にするのは、誰の力も及ばぬ大自然。それは人間の手に負えるものではない、全てを飲み込み、全てを破壊する、静的だが暴力的なものだ。神をも思わせる圧倒的な力をもち、息をのむほど美しいこの自然は、リリアのように身を捧げてしまいたくなるほどだ。
不思議
タイトルは皮肉だったと後で知る
バレンツ海の漁村では未だにソ連時代と変わらぬ圧政と腐敗がはびこっている、ということか。
鯨の骨が印象的。景色だけを淡々と映すラストシーンが無常感かもす。
ロシア正教もちらり
ウォッカの飲み方が豪快、イメージ通り。
神は救ってくれますか?
長い。
ダンサーインザダークとまでは言わないけど、
救いのない話。
力のない人達(善人かどうかは分からないけど)は救われず
力のある悪人は救われるという。
ところどころで、
神を信じるのか、というシーンがあり、
この映画では悪人は神を信じており
結果的には神を信じた悪人が救われた。
果たして神は信じるの人を救うのか、
すべての人を救うのか、
信じない人は救わないのか。
神父も「あなたの神は分からない」と。
すごく皮肉的な話になった。
しかしロシア人、ウォッカ飲み過ぎ。
初ロシア映画
キャッチーなタイトルが忘れられず、ついに見に行ってしまいました。しかし、予想していたよりは暗い気持ちになりませんでした。というのも、主人公は別に善人でも何でもなく、腐敗した社会の一構成員に過ぎないため、主人公の体験する悲劇にさほど憤りを覚えなかったからです。
市井の人は自滅するのみなのか・・・
ロシアの海辺の小都市。
入り江に臨む家に祖父の代から暮らすコーリャ一家。
思春期の息子と後妻との三人暮らし。
自動車修理工を営むコーリャであるが、さほどの収入もなく、妻リリアが近くの魚工場に働きに出ている。
そんな暮らしの中、コーリャ一家の土地家屋が市の公共事業のために接収されることになった。
理不尽な市の仕打ちに対して、コーリャは兵士時代の後輩でいまはモスクワで弁護士を営むディーマの手を借りて、市を訴えるのだが、その訴えは棄却されてしまう。
ディーマは市長の横暴行為の証拠を握っているので、それを利用して、コーリャ側に有利になるように取引をしようとするのだが・・・というハナシ。
ここから、コーリャ側と悪徳市長ヴァディムとの対決が丁々発止と繰り広げられるのかと身構えていると、ありゃりゃ、そんなことにならない。
まぁ、丁々発止の対決合戦が始まれば、通俗ハリウッド映画っぽくて楽しめたかもしれないが、そんなことにならない。
映画は、コーリャの妻リリアとディーマとの不倫話に展開していって、権力を持つ人と持たざる市井の人という図式ではなくなって、なんだかよくわからない。
そもそも、権力を持つ人と持たざる市井の人、というような判り易いハナシではないのかしらん。
たしかに、コーリャとヴァディム市長が対峙するのは一度きり。
コーリャの訴えが棄却され、ヤケ酒を飲んでベロベロのコーリャと、これまた祝杯をあげてベロベロのヴァディム市長が、ヘベレケ対決するだけだ。
このシーン、あまりにヘンテコすぎて、噴飯爆笑してしまったが、他の観客は笑っておらず、どうも笑うところではないようだ。
このシーン以降、どことなく可笑しいシーンが散見する。
暴行容疑でコーリャが留置場に入っているのを幸いにと、リリアとディーマの不倫のシーンも性急で可笑しい(コーリャの息子がリリアを「猿」呼ばわりする伏線はあるので、以前からの関係だと察しはつくが)。
コーリャ一家とディーマが、友人の警官の誕生日に彼らの一家と、射撃&バーベキューに出かけて、射撃の的にロシアの歴代指導者の写真額を持ち出すあたりも可笑しい。
でも、どうも笑う感じじゃないんだよね。
その上、権力側と対決するはず(と期待しているンだが)のコーリャ側が、なんだが勝手に自滅していってしまうについては、ちょっと茫然としてしまいました。
最後の勝利を手にしたヴァディム市長が参加するロシア正教会の礼拝での司教のことば、「国家、宗教、権力の三位一体」を正しく善いものとする説法は、ロシアに対する批判のダメ押しなんだろうけれど、これはどうにも冗長に感じました。
ズビャギンツェフ監督の前3作と同じく今回もどうにも不満なのは同じなのですが、今回がいちばん不満、魅力がなかった。
巻頭・巻末の風景描写や浜辺に打ち上げられた鯨と思しき巨獣の白骨などの驚くべきショットはあるのですが、これまでの作品では、途中途中に過剰とも思える長廻しやカメラワークがあって、それが魅力だったのだけれど、今回はそれもありませんでした(感じなかっただけかしらん)。
ロシアってこんなのなのね
善悪を知るには事実を見るべし?
なんという圧倒的敗北感!
ここまでされたら
かえってすっきりするわぁ…
他人事として観てる分にはだけど。
善悪を知るには
事実を見なければならない
というようなことを
司祭さんが宣うのですが
もはや権力は
その事実さえも歪めてしまう…
いわんや善と悪も
混沌としてしまうのですね~
観てるときには
気づかなかったのですが
パンフレット読んで
オープニングと
ラストシーンのからくりを知り
かなりゾッとしました。
美しい、ブタ!、腐ってる!!
思うツボ
神ではなく希望の不在
すっきりしない。この「ロシア映画らしいもの」の正体はなんだろう?陰鬱なストーリー、芸術的な映像?
腐敗した市長と司法に翻弄され崩壊する家庭と登場人物たちの不条理そのものの運命を描く。海岸に打ち捨てられた幾つもの漁船、浜辺に横たわる巨大なクジラの骸骨、ブルドーザーに叩き壊される主人公の家。ここで過去と未来を繋ぐのは、朽ちて腐ってゆく“モノ”でしかない。「あなたは神を信じる?」という台詞が繰り返されるけど、ここには神は赦す者としてしっかり存在している。むしろここに欠けているのは希望なのだ。もしや、ロシアでは映画が現状の悲惨さを嘆くことはできても、今とは違う未来への希望の姿を描くことが許されないのではないか?だとすれば、ロシア映画界は、ここに出てくる、政治権力と並走する教会と同じではないのか?赦すばかりじゃいかんと思うぜ。
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