ドローン・オブ・ウォーのレビュー・感想・評価
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じわりじわりと
終始、大きな起伏があるわけでもないのに、じわりじわりと主人公の心が蝕まれていくのがわかる。戦闘機のパイロットとして再び空を飛びたいという夢と、12,000キロも離れた安全な場所から、攻撃されることを予想もしていない相手を爆撃する卑怯さ、実感のなさに生きてる意味を失いかける兵士。
最初、民間人を爆撃することに躊躇していたが、だんだん作業のように無感情になっていかざるをえない葛藤が上手く表現されていた。
テロリストの工場は、中東でなく、殺している私たちだというセリフがアメリカ国民にはどう刺さったのだろう。
相手が攻撃するのをやめないなら、こちらが攻撃するんだ、という上官の言葉。それに対して、それだと相手も同じで終わりがない、と反抗する部下。悪循環とわかっていても辞められない中で良心を保つのは難しいはずだ。
アメリカ映画の割に、反政府、反戦争を戦争をテーマに描くなかなかの作品だった。
ゾーイ・クラヴィッツが、エックスメンの雰囲気とは違い魅力的だったことに驚き。どことなく広瀬すずに似ていた。
戦争の定義が・・・
無人機(ドローン)で上空から標的を爆撃する。無人機だから反撃されることも無く次から次へと平然と民間人も巻き添えにして、攻撃は続行される。攻撃を受けるほうは、はるか上空の小型無人機に気づくわけも無く、狙われていることに全く気づかない。これでは行っていること自体が「暗殺」と同じことであり、次のテロリストを生みだす負の連鎖にしならない。そして、今はアメリカが一方的に無人機で攻撃しているが、アメリカが敵国とみなしている国が、無人機を開発すれば、アメリカの軍事基地がある日本も攻撃対象となる可能性もある。
実際に攻撃を遂行する部隊の人間は、非常に強いストレスにさらされ、精神を病みそうになるのだが、命令する上層部はいつの時代もそうだが、現場を無視している。ドローンもドローンを操作する人間もいくらでも代わりがきくからで、延々と「敵・悪」と見なされた国は攻撃され続ける。今の集団的自衛権や憲法改正も、現在の軍事技術をベースに議論されるべきで、何がテロで何がテロでないのか、等々いろいろと考えさせられる映画であった。
ラストに極悪非道な人間を爆撃するところ(実際には無理だと思うが)に、上層部からの命令から一時的にでも解き放たれ、何らかの「救い」にも見えなくもないが、それ以上に「こんなことまでできる」としか思えずただ寒い思いをしただけだった。
この映画には感動も涙もないが、時節柄見ておいてよかったと思いえる一本だった。
一掃すべき敵?
タイトルに引っ張られると退屈してしまうかもしれない。 -『ロード・オブ・ウォー』より地味だ- それくらい地味な映画である。原題の『Good Kill』が皮肉のスパイスが効いていた。
ニコル監督はひとつのアイディアを上手く転がして面白さをつくる監督だが、今回は現実そのものを題材にしているために、いつもの手法は使わずにしてしまったからだろう。それでも見どころはある。
それは倒すべき敵がはっきりしないところだ。
もちろん情報としての敵は登場人物そして観客も知っているし、見逃すとどうなるのかも理屈としては分かってはいる。しかし、具体的な描写はないために「ピン」とはこない不気味さをだしている。
それをさらに加速させるのは電話機のCIAからの「それ本当に意味があるのか?」攻撃だろう。
この映画ではっきりと敵と分かるのはたまにでてくるDV男だけなのだ。だから、ラストで少しだけ「ホッ」とする。そして「ゾッ」とする。そこに “ヒューマニズム”を感じてしまったことに。
あと、アメリカの場面で空撮を多様しているのは彼らも自分達も “同じ人間” である。という映画からのメッセージだ
今や一般消費者も簡単に購入できるようになったドローン
今や一般消費者も簡単に購入できるようになったドローン。その元はアメリカの軍事技術である。2003年のイラク戦争の折にも大量のドローんが戦地に投入され、地上戦の制圧が短期間で終わっている。
この映画は戦争そのものにフォーカスするのではなく、元パイロットでドローン操縦士の日常を描いている。基本的には職場と家庭の往復が繰り返されるので退屈な印象を受けるかもしれない。だがその中にはゲーム感覚で人を殺してしまう現在の戦争の姿、それによって引き起こされるPTSDなど、リアリティに満ちた描写が多い。
Road Of War然りであるが、Andrew Niccol監督にはこうした大衆受けしない作品を今後も期待する。
間違いなく"問題作"
"ムカつく奥様"キャラが登場する非常に"B級"なメロドラマ・実にチープな"THEアメリカ的"な雰囲気は、間違いなく本作品の”肝"です。
つまり、戦争映画に必ずある「俺にも家族いるから護らなくては」という"戦争正当化定理"を崩壊させる温度差が、本作のベースなのです。
ドローンは、誰がどこから操作しているのか公にならないため、相手国からの"個別攻撃"を喰らうことは無く、その意味で兵士の「生命」は保障されています。にもかかわらず、相手国民の「生命」は簡単に奪えてしまうという戦略システムは、当事者国双方に実害が及ぶかつての戦争を否定し、片方にのみ命を落とす"ゲーム”への転換を賛美します。
要するに、「人を殺す責任」というものを兵士が体感しないままに、殺害行為が可能となったのです。
そして、薄っぺらい責任感のもと殺された相手国民の「生命」も、アメリカの主義からすればやはり薄っぺらいものに過ぎません。
この"薄っぺらさ"を、この映画では見事に体現しています。
繰り返しになりますが、昼間にやっているような浮気とかヒステリーとか、「ここはアメリカだぜ!イェーイ!ベガスサイコー!」とか、最後は将校と部下の禁断の恋…!(?)という感じのB級ドラマを、飽くまで意図的に展開させることで、いかに現代の戦争が異質なものかを観客に訴えているのではないでしょうか。
少なくとも、本作がアメリカ発の映画であることは大きな意義を持つと思われます。
ただ、悪く言えば「退屈な映画」です(完全クリアを目指して行う作業ゲームのような感覚)。しかし、これが意図的な"コード"だとしたら。策士です。
民間人を殺すことは"犯罪"ではないとされるのに、主人公が上官の命令に違反し、敢えて操作不良を装い攻撃不能とし、民間人を巻き込まなかった"正義"は"犯罪"であるというのは、本当にナンセンスで皮肉。
攻撃側に犠牲の無い戦争を正当化するために「法を守らないような奴らに守る法はない」という定理を、我々は批判さえ出来ません。
本作が投げ掛けた「生命」の問題は、こちらが戦争を止めたところで相手は止めやしないという(一方的な)理由によって、結局は「殺し方の倫理観」の問題に落ち着いてしまうのでしょうか。
また、法律学で良くある、解釈の問題。先制的自衛の「解釈基準」が如何に恣意的なものか考えさせられることは必須です。
ラスト主人公が「神」となるシーンで、如何に本作が”問題作”かを知ることになるでしょう。
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