「※作品の内容および結末、物語の核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。」この世界の片隅に Natsukiさんの映画レビュー(感想・評価)
※作品の内容および結末、物語の核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。
「むかし知っとった人にいま会うたら、夢から覚めるとでも思うんじゃろか、うちは。」
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾リトルボーイが投下された。
それは、第33代アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンの7月25日付け大統領令「広島・小倉・長崎のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に特殊爆弾を投下するべし」を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって行われた。
広島市内の中央に位置するT字形の「相生橋」が目標点とされ、投下された原爆は上空600メートルで炸裂。
爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。
爆心地付近は鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒され、強烈な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、高熱で内臓組織に至るまで水分が蒸発、水気の無い黒焦げの遺骸が道路などに大量に残され、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負うほどであった。
爆風と衝撃波による被害も甚大で、爆心地から2kmの範囲で木造家屋を含む建物のほとんど全てが吹き飛んだ。
爆発による直接的な放射線被曝の他にも、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生し、救援や捜索活動のために市内に入った人にも急性障害が多発した。
当時の広島市の人口は約34万人で、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに更に14万人が死亡したと推定されている。
その後も火傷の後遺症による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加なども見られた。
爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼ぶようになる。
「大事じゃ思うとったあの頃は・・・大事じゃと思えた頃が懐かしいわ。」
本作は戦争映画ではなく、第二次世界大戦中の普通の人たちの普通の日常の物語で、その穏やかな暮らしの背景に、たまたま戦争がある。
ささやかで幸せな生活がずっと続いてほしいという願いは、現代も戦時中も全く同じで、みな日々の生活に追われながらも小さな幸福を見つけ、前向きに生きている。
日々の献立を考えたり、少ない材料の中で調理法を工夫して少しでも美味しくしたり、高台からの眺めに「美しい」と感じたり、それを絵に描いたり、妄想したり、慣れない土地で人間関係に苦労したり、買い物の帰り道で迷ったり、儚い恋をしたり・・・。
現代の日本と違うのは、その小さな幸せがいつ奪われてもおかしくない状況にあり、悲劇がある日簡単に訪れてしまうこと。
やり場のない怒りや悲しみに、誰もが突然に放り込まれる。
生まれてきた時代が数十年違うだけで、平和に暮らしている人々がこんなにも悲劇の連鎖に巻き込まれてしまう。
反戦を訴える手段や言葉は数多くあるが、本作のメッセージは口調が穏やかである分、より心に突き刺さる。
「お前だけは、最後までこの世界で普通でまともでおってくれ・・・。」
徹底したリサーチと時代考証で構築された、アニメーションならではの色彩の世界は、本作の主人公があらゆる情景を美しい絵画で表現した事と同じく、カラフルな絵の具で包まれた夢の様な雰囲気で、だからこそ残酷な現実がより浮き彫りになる。
ナチスドイツ軍によりビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題とした20世紀を象徴する絵画「ゲルニカ」(ピカソ作)と同様、本作は鋭い反戦メッセージが込められた「芸術作品」なのだ。
それは、悲惨な戦場をありのまま切り取った報道写真と、それらをモチーフに描いた絵画の「伝え方の違い」を連想させる。
言葉や文章や映画や絵画など、戦争の恐ろしさや悲惨さを「人に伝える」ための方法は古くからあらゆる手段で行われてきたが「まだこんな方法があったのか」という衝撃を受ける。
悲しみと幸せと希望が入り混じった色々な感情が渦巻き、エンドロールで描かれるエピローグも含めて、鑑賞後は心が震えて立ち上がれなくなる。
「そんなん覚悟の上じゃないんかね。最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね。」
本作は、こうの史代による日本の漫画作品を、宮崎駿の『魔女の宅急便(演出補)』、大友克洋の『MEMORIES/「大砲の街」(演出・技術設計)』、そして『マイマイ新子と千年の魔法』で監督・脚本を手掛けた片渕須直がアニメーション映画化。
インターネットで制作費を募るクラウドファンディングで、国内映画の過去最高額を記録した。
戦争は、人々の幸せな暮らしを一瞬で奪い去る。
楽しい食卓、学校の友達、家族、愛する人、そして多くの人々の「未来」を、突然に奪う。
戦時下の昭和19年に、広島市江波から呉に18歳で嫁いだ主人公すずの日常が幼少の頃から順を追って描かれる中で、細かく年日時が表示される。
我々観客は、昭和20年8月6日に広島で何が起きたのかを知っているので、そこに至るまでの「日付」は悲劇へのカウントダウンにもなっていて、サスペンス的な側面もあり一瞬も気が抜けない。
「海の向こうから来たお米。大豆。そんなもんで出来とるんじゃなぁ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね。何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ。」
監督の片渕は2010年5月から何度も深夜バスで広島に通い、後知恵を徹底的に排除した上で、多くの写真を集めたり、70年前の毎日の天気から、店の品ぞろえの変化、呉空襲での警報の発令時刻に至るまで、すべて調べ上げて時代考証を重ね、原作の世界にさらなるリアリティを加え本作を完成させた。
例えば、主人公が高台の段々畑から戦艦大和の呉入港を見る場面は、現存する戦艦大和の航行記録で「大和がいつどこで何をしていたか」を全て調べ、昭和19年4月は17日だけ呉に入港していた事が判り、その日付から天気と気温を調べ、実際と全く同じ「昭和19年4月17日の呉」の景色を再現している。
「理念で戦争を描くのではなく実感できる映像にしたかった」と徹底的にディテールにこだわり、劇中で登場する建造物や商店の並び、登場人物たちが歩く道、その周辺の人々、上空を飛ぶ飛行機の種類や正確な時刻、焼夷弾が落とされる場所や日時、そして戦艦大和の艦上での手旗信号の内容までもが解読できるくらいに、限りなく「現実」だけを描いている。
だから、あの時代に、あの日に、この世界の片隅に、今の我々と変わらぬ「小さな幸せ」だけを願い生きていた人々が、間違いなくたくさん居た事を、心から実感できる。
当たり前の様に戦争中にもたくさんの生活があったという事実を、そして今この瞬間も、世界の多くの場所で内戦やテロや飢餓に苦しみながら必死に生きてる人達が大勢いることを、改めて深く考えさせられる。
今までどれほど大きな戦争や事件や災害が起きても、人々は何度も立ち上がってきた。
ささやかで幸せな生活がずっと続いてほしいという願いは、現代も戦時中も全く同じで、みな日々の生活に追われながらも小さな幸福を見つけ、前向きに生きている。
それはこれからも止まる事はなく、我々の生活はこの世界の片隅で脈々と続いていくだろう・・・。
「晴美さんのことは笑って思い出してあげようと思います。この先ずっと、うちは笑顔の器になるんです。」