「作品の成功は米国を舞台にしたこと」ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
作品の成功は米国を舞台にしたこと
1920年代の米国ニューヨーク。
魔法使いのニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)が、魔法動物を詰め込んだ鞄を下げて、英国からやってくる。
目的は、米国で飼育されているという米国固有の魔法動物の入手と、保護した米国産の大型の白頭鷲に似た魔法動物を野生に戻すこと。
しかし、ドジなことから鞄の中の魔法動物が逃げ出してしまった・・・
ということで、魔法動物を捕まえるハナシは、最近流行の体験型ゲームアプリ「ポケモンGO」みたい。
まぁ、そんな感じの、観ている分にはお気楽なハナシなので、『ハリー・ポッター』後半戦のような、暗い閉塞感につきまとわれるということもなかった。
デヴィッド・イェーツの演出も、『ハリー・ポッター』のときと比べてメリハリが効いている。
功労者は、偶然からスキャマンダーの相棒になる、チビで太っちょのジェイコブ・コワルスキー(ダン・フォグラー)。
彼がコミカルリリーフを引き受け、かつロマンス部門も受け持っているので、映画に幅が出た。
脇役にロマンス部門を受け持たせるのは、『ハリー・ポッター』のロンとハーマイオニーのときと同様だが、あのときは三角関係の要素がはいっており、それが映画を暗いものにしていたが、今回は女性側を姉妹にすることで、そんなややこしい関係も回避している。
映画に幅が出た要素で大きいのは、もうひとつ。
それは、舞台を米国に設定したこと。
映画冒頭で、魔法使いと人間が共存する世界であるが、陰に隠れざるを得なかった魔法使いのうち、魔法使い復権を目指す頭目がいて、人間界と戦争を起こそうという企てがあることが示されている。
『ハリー・ポッター』でも似たような設定があったが、あちらは魔法使い世界の中でのハナシ。
いくらか人間界にも影響があったが、主眼として描かれてなかった。
その結果として、英国の階級社会の暗喩のような閉塞感がつきまとってしまった。
対して本作では、人間世界と魔法使い世界とが均等に描かれ、その結果、多人種社会(つまり、現在の全世界)の暗喩となった。
これで、映画に奥行きが出た。
そして、抑圧された年若い魔法使いの想念が人間界を破壊するクライマックス後の対応も興味深い。
魔法使いたちは街を復旧するとともに、人間たちの忌まわしい記憶を消す。
忌まわし記憶=「復讐の根」を消そうというわけだ。
ここには、J・K・ローリングなりの、多人種世界の平和のありようが示されている。
惜しむらくは、忘却ではなく、赦しであってほしかったが、まぁ、そういうことは魔法をもってしてもできないのかもしれない。