山河ノスタルジアのレビュー・感想・評価
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『山河ノスタルジア』——時間の層と喪失の倫理
ジャ・ジャンクーの『山河ノスタルジア』は、1999年・2014年・2025年という三つの時代を描きながら、変化する社会の中で人が何を失い、何を記憶に留めるのかを問いかける作品である。
映像的には、時代ごとにアスペクト比が変化し(1.33:1/16:9/2.39:1)、画面の形が社会の構造や人間関係の変容を映し出している。
スタンダードサイズでは、人物描写に重きを置き、人間関係の密度と奥行きを表現する。
FullHDの時代には、映画制作当時と同じリアルな画面比が選ばれ、タオとダオラーの「断絶した日常」を最も冷徹に、感情を抑制して記録するメディアの枠として機能する。
そしてシネスコの2025年は、空間的に最も広がりを持ちながらも、その広大さがむしろ孤立や空虚を強調する。
このアスペクトの変化自体が、過去・現在・未来における“心の距離”の可視化として作用している。
さらに、各章に施されたカラーグレーディングもまた時代の空気を伝える。
1999年の章は、ノイズを含む温かなトーンで人肌の記憶を呼び起こし、
2014年は冷たくクリアな映像で現代の都市的人工性を示し、
2025年では青みがかった乾いた色調が、未来の孤独と風化した記憶の匂いを漂わせている。
これらの映像操作によって、ジャ・ジャンクーは“時間そのものを撮る”ことに成功している。
第1章(1999年)は地方都市・汾陽を舞台に、女性タオをめぐる恋愛劇として始まる。
炭鉱労働者リャンは旧い価値観を、実業家ジンシェンは新しい資本主義の象徴として対置される。
タオが選ぶのは後者だが、その決断は愛情ではなく「時代に選ばされた選択」である。
彼女の微笑の奥に漂う不安や揺らぎには、世紀の転換期に立つ中国の民の心情が滲んでいる。
第2章(2014年)は、経済成長の裏側で生じた人々の分断を描く。
離婚し孤独に生きるタオが、父の死をきっかけに息子ダオラーと再会する場面には、親子の距離と時代の断絶が凝縮されている。
同時に、かつての恋人リャンが病に伏し、貧困に苦しむ姿も描かれる。
タオが彼に経済的援助を差し出す行為は、単なる善意ではなく、自身の記憶から喪失されつつある「古い情」への贖罪的執着を感じさせる。
近代化の波の中で、彼女は豊かさと引き換えに大切な何かを置き去りにしてきた。
その自覚が、リャンへの援助という行為に表れ、過去と倫理的に向き合おうとする静かな祈りとして映る。
ジャ・ジャンクーはこのわずかな挿話に、「過去との関係をいかに生きるか」という主題を凝縮している。
第3章(2025年)では舞台がオーストラリアへ移り、息子ダオラーの視点で物語が描かれる。
異国で育った彼は、言語も文化も母の記憶も失い、アイデンティティの空白を漂っている。
中国語教師ミアとの出会いは、母への郷愁と自己再生の契機となるが、完全な回復には至らない。
ここで描かれるのは、グローバル化の時代における「記憶の断絶」と「文化的帰属の迷い」である。
ラストシーン。荒野の風の中でタオが「Go West」に合わせてひとり踊る。
それは若き日の記憶の再演であり、同時に西方=資本主義への憧憬をめぐる皮肉な儀式でもある。
青く乾いた映像トーンの中で、その身体だけが過去のぬくもりを呼び戻す。
「山河ノスタルジア」という題名が示すように、離れてもなお心に残る故郷や時間への郷愁が、そのダンスに凝縮されている。
ジャ・ジャンクーはこの映画を通して、変わりゆく社会における**“記憶の倫理”と“映像の倫理”**を静かに問うている。
それは、過去に背を向けることなく、喪失の痛みを抱えながら未来を見つめるための祈りの映画である。
go westは印象的に残ったが
3つの時代に渡る親子の話で、映画製作当時を現在とすれば、「過去」「現在」「未来」ということでしょうか。3つ目の時代はなんと未来になっているところが斬新だった。あと、最初に「GO WEST」の曲に合わせ10人位が踊っていて、その中に主人公達3人もいたが、最後にも同じ曲が流れるが、この時は雪の降る中、主人公一人で踊っていたのが、この映画の言いたいことのようで印象的だった。
ただ、全体的に消化不良気味の展開が多い。病気治療のため金を貸した元彼は結局治ったのかどうかの説明がない。3つ目の時代で、主人公の息子が母親に会いに行こうと決心するが、結局行ったかどうかわからないままで終わってしまった。また、息子が語学学校の先生と恋人関係になる展開が、年齢が離れすぎていてちょっと違和感がある、というか唐突すぎる気がした。
山河故人
はっきりいって感情を移入することが難したかった。あらゆることが中途半端になっていて、一つのテーマを継続していないから、観終わった後、さあレビューを書こうという気になれなかった。
まず、これが中国の映画かもなにかも知らないで予約して、いざ、DVDを取りにいったら、
中国語で『山河故人』と書いてあった。監督や俳優の名前もまったく馴染みがなく、まあ、観てみるかと軽い気持ちでみ始めた。
個人的に、中国の文化大革命あたりの映画に感情移入ができるし、好みである。一般論だが、中国人の、特に女性の力強さは文革の歴史からきていると思っている。それに、四十年前に中国を訪問したことがあって、それに私の故郷ではないが郷愁のようなものを感じるし、批判を浴びるかもしれないが、批判承知で、日本人のルーツだと感じている。
この私にとって、文革時代の良さを1999年以降の文化のなかで見出すのが難しかった。この時代は監督の言うように中国の端境期で、モダン中国に変わっていった時代らしい。技術だけでなく、人間の心より、金を稼いでアメリカ流の、資本主義を好む時代に突入していった。この時代にタオは伴侶として、リャンを選ばなかった。タオが自分で選んだ道だが、山西大学の法律科を卒業して実業家になったジンシェンの富の魅力に勝てなかったのではないかと思う。しかし、愛するもの全てを失ったなかでタオが生きていくところは文革のなかで生きていった人を思い出した。
炭鉱夫のリャンは石炭のようにモダン中国から取り残されていく存在だった。かれの控えめな性格も。ここをもっと描いてくれたら、私好みの映画になったのにと思った。
山西省・汾陽(フェンヤン)は監督の故郷だそうだ。映画の始め『黄河』とサインが見えて、黄河の雪解けのとうとうと流れる河に引き込まれそうになるくらい美しかった。素晴らしくて、私の知っている中国が汾陽(フェンヤン)で見て、見つかるかなと期待した。
タオが餃子を作っている時、『タオ』と言う声で彼女は振り返った。このシーンが我々に、息子との巡り合いの希望を持たせた。
最後のシーンで、リャンがGo West を一人で踊る美しいシーンがあるが、いままでの人生を『故人』しているが、『山河』のように人生は続いていくと思わせた。
それに、この2曲の対比はwestに行くか、伝統に戻るかの端境期にぴったりの選択だと思った。
https://www.youtube.com/watch?v=LNBjMRvOB5M Go West
https://www.youtube.com/watch?v=ZVeT_xoGm9Q サリー・イップ の珍重
3つの時代は上手く描けているように
みえる(画角を変える等)し景色はダイナミックで美しいが、いまいち主題が見えてこない。リャンズーがどうなったかほったらかし。
ゴーウェストで始めてゴーウェストで〆るのもいいがだから何?とも思う。
結局1,5倍速で見てしまった。
サリーイップの歌は良い。
パートパートもなんとなく良いような気はするが結局何が言いたいのかが?中国人じゃないと分からないのかも
飯が美味しそうに見えないのもちょっと
未来を少し覗いてみる
1999年から2025年にわたる大河ドラマだが、伏線がほとんど回収されないので、あとはご想像にお任せ、という感じか。
1999年、二人の男が一人の女を奪い合い、商才のある方が勝ち、負けた男は去っていく。
15年後、去っていった男が妻と息子を連れて戻ってくる。
女は子供が生まれた後、離婚、親権を夫にとられ一人で故郷に帰っていた。
更に15年後、舞台はオーストラリアに移り・・・。
孤独な未来。
タイトル通り、非常にノスタルジックな気分にさせられる一本。
若い頃の選択は若気の至りという言葉がピッタリの勢い任せで
あることを描く´99年、豊かさですっかり近代化された´14年、
そして未来の´25年。「Go West」が懐かしいと思うと同時に
あぁ色々あったなと己の過去まで反芻してしまう。主人公タオ
がやたら友近に見え、結婚相手の実業家が大泉洋に見えて仕方
なかった自分にはなんだか入り込めない気がする一本だったが、
テーマは母と息子の人生を絡める後半で加速する。母親ほどの
年齢の女性教師に惚れる息子と、独り雪の舞う故郷で踊る母親。
離れていても絆は見える、しかし驚くほど孤独で寂しい未来像。
シルビアチャン
ベンダースの時の翼にのって、とか、武のDOLLSとかのギリギリな感じ。ジャジャンクーも20年経って、その段階に来た感じ。飛行機墜落のCGが意外と良く出来てて、驚く。相変わらず、チャオタオは垢くさくて野暮ったくて、そういうスタイリングさせられて、そういう音楽でそういう感じに踊って、中国の今を体現しているけれど、今回の出色はシルビアチャン。未来のオーストラリアで、がっつりなおばちゃんが変な色気を出してて、ちょっと見たことない、悪い意味ではない、滑稽さが魅力的。ジョニートーのミュージカルの洗練との対比。半野喜弘はどこまで音楽みてたんだろ、あのニューオーダー?は多分監督として、クラブで掛かる微妙なトランス?テクノ?とかも関わってるのかしら。
女性目線が苦手なのは監督か観客か?
併映の「プラットフォーム」と同様、チャオ・タオのダンスの上手さが印象に残る。もともとダンサーをやっていたのだろうか。ジャ・ジャンクー監督の映画に出る前は、地方のドサ周りの踊り子だったりしたら、この人の人生そのものがジャ・ジャンクー映画ではないか。
映画としてはチャオ・タオのダンスの他に見どころのないものだった。
「世界」もそうだったが、彼のお気に入りのチャオ・タオに焦点があてられた作品よりも、男性が主人公の作品にこそジャ・ジャンクー映画の味わいがある。
この女優を主役に作品を作りたいのは分かるが、この監督は女性の視点で映画を撮ることが苦手なのではなかろうか。
この作品においてもそのことが前半の恋と結婚の物語に現れている。本来であれば、本当に好きな男とは結婚しないで、経済力と積極的な性格を持ったジンシェンを選んだタオの逡巡や決意が前半の主題となるはずである。それなのに、映画はジンシェンがタオを口説いているときの嫉妬、結婚してからの虚しさこそが主題となっている。
前作、「罪のてざわり」についても同様に思う。チャオ・タオが主役のエピソードでは、キレる彼女よりも、そんな彼女を翻弄する男の側のどうしようもない閉塞感に共感してしまう。
果たして、ジャ・ジャンクーにとって女性目線の映画を撮ることが難しいのか、それとも私に女性目線で描かれた映画に対するリテラシーが欠けているのか。
このようなテーマで、もうしばらくジャ・ジャンクーの映画との付き合いが続きそうである。
よきにはからえ…
まさに観客に向かって、監督からの「よきにはからえ~」が投げつけられる1本。
叙情的な映像、男女・親子等の不変の人間的な愛憎、やりたいことは分るし、酷い出来というわけでも無いのだが。
演出にせよ解釈にせよ「全てを観客の判断に丸投げ」するスタイルは果たして如何なものだろうかな、と思った。
「え!?今なんで飛行機が落ちてきたの?しかも主人公スルー!?」
なぜか途中で別の映画が始まるような演出の3部構成も。
全てが投げっぱなしで機能しておらず。
「観て勝手に考えてくださって結構」と監督がケツをまくって逃げ出した後のもぬけの殻を観ているように感じた。
観て、その人がどう感じたかが全ての作品。
自分は珍妙なダンスがやたらフィーチャーされてたのはこういうオチか、と思ったくらいだったが…
タイトルなし(ネタバレ)
冒頭のアレが中間の珍妙な(褒め言葉)クラブシーン、ラストのあのダンスにつながるっていう構成がすご過ぎて、最後涙を我慢することができなかった。最近のジャ・ジャンクーの中でダントツ一番好き。
それにしてもあの肺を患った男性はどこに...
いちばん感情移入していた彼はどうなったの⁉︎ 突然なんでお父さん死...
包みこむように
全く解らん
主演の女優さん20代を演じるのは無理だろ!と、タイトルバックが出るまでは、ずっとそこが気になんのね。
「このパートが長くないか?」と思ったけど、最後も長かったから、そこは、まあ、いいかな。
そこから2014年が舞台になんだけど、ここは「経済成長で大切な何かを忘れてしまった」という話かな。
中国だと目新しいかも知れないけど、日本だと散々やって出尽くした話だね。
そして2025年が舞台に。ここが訳、解らん。「まさか男女の仲にはならないだろ」と思ってたらなるしさ。何とかコンプレックスみたいのを描いてんのかな?
画は綺麗だったなあ。ときどき出る隠喩みたいなのも面白かった。
全ての面で微妙・・・
非常によく理解できたし、表現したいところも何となく分かった。悪い作品ではないと思うし、評価される理由も納得。面白いところもたくさんあったし、楽しめたという自覚もある。
しかし、なぜか満足感のない作品であった。
所々笑える作品でありながら、内容が非常に暗く感じてしまった。単にそれを好きになれないだけのことかもしれないが、その暗さが人生の無情なのか社会批判なのかいまいち捉えきれず、それが多少のいらいらを生んでいる気がする。
あらゆる物語を盛り込みながら展開していって、最終的にすべての話を放置して終わっている。話に終わりをつける必要はないとは思うけれども、なんだか全てにおいて責任を放棄している印象を持ってしまった。
悪く言えば、興味のない話をずっと見せられ、多少面白かったけれど、それが本当に自分に関係のないものだった─、といったところか。
絶賛できないところがあまりにも惜しいと思ってしまう作品だった。
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