「◇映画『LA LA LANDラ・ラ・ランド』(2016年米/デイミアン・チャゼル監督作品)評」ラ・ラ・ランド シネフィル淀川さんの映画レビュー(感想・評価)
◇映画『LA LA LANDラ・ラ・ランド』(2016年米/デイミアン・チャゼル監督作品)評
-人はこのミュージカル映画にかつてのMGM映画の残像を確認すると共に、疲弊したハリウッドの再生を賭けた映画の構造体系を極める為の記号への視線を教育の一環として挙行せねばならぬ事を人生に深く関わる問題として、熟読玩味せねばならぬ-
カリフォルニアのハイウェイに於ける交通渋滞の、群集よりも車体に官能的響きを持たせる長廻しの秀逸なミュージカル場面に、先ず魅せられる。これとシンクロするかの如く最後に繰り広げられる群集の乱舞には、映画が複数の特権を強いるべく民族の坩堝を纏うモブ・シーンが展開される。
間=テクストとしての映画『理由なき反抗』の徹底したジェームス・ディーンの画面を排除した天文台の場面への固執と再現には、現代的風土を醸すトポスの空間への依拠が伺えプラネタリウム内で天空に二人が舞う時の、星の数々がハリウッド映画史だけでなく世界映画史に煌めく霊魂の根源を恰も代替させているかのようだ。そこにはジェームス・ディーンは勿論の事、この映画の監督であるニコラス・レイへの奉呈の意も含有されていよう。それは映画が、感傷を排した生き物である事の証でもあるのだ。
そしてかの名作『巴里のアメリカ人』の最期を想起させるベル・エポックのアメリカ版かと見紛う主役二人の回想場面には、悲劇と喜劇が混在したノスタルジアとは一線を画す心地良い叙事詩が奏でられ、観る者はそこに時間軸が後退する差異の激減した中庸の聖域を獲得するだろう。
日常的空間を反復させる事で実にしなやかなテクスチャを示唆する映像の構築化には、リアリズムが虚構と衝突する時に一触即発する光とそれが及ぼす影の感性が存在と無の領域で栄える時、映画は普遍性に満ちたMGM映画への傾倒を装いながら、実は散文性を操る時間の遡行を行使させる監督自身のワールドワイドな視界が冴えるフィクションの現実を、無闇にも露とするのだ。それは映画史に更なる一頁を企てる、冒険心に富んだ映画のナラトロジーの露呈でもあろう。
以上、中庸とナラトロジーが微妙な差異を伴いながら同時進行するこの映画の構造体系には、魂を超越する為の物語の力学として光と影の交錯する夜景が活きる要素が、もう一つの説話的磁場に引き付けられる脈動の軌跡を辿らなければならぬ。それは映画がクロニクルから逸脱する時の、極めて明瞭なる時制の変容であろう。ここでは時間の歪曲が、倒錯的に映画の聡明化に貢献しているのだ。
映画を活性化させる速度と運動性が画面を実に即物的に横断する時の、冷徹な批評性さえ漂う前半から、後半では時制にズレを伴う事で実にドライな視点を与える。そこにはルルーシュが試行錯誤し、クェンティン・タランティーノが蘇生させた意匠を借りた映画的制度の旧弊さを払拭する追想性さえをも放逐する、まさに時制の特権化が認められるのだ。
またリアリズムが触発させる均衡への遮断が、映画から御都合主義を排した不均衡への傾斜を確認する時、そこには画面を斜めに横切る下り、或いは上りの坂の存在が確認される。
主役二人が丘の上から街の夜景を望みその闇の色である青に溶け込むかのように歌い踊る場面には、先述のミネリ作品に於けるセーヌ河沿いでのジーン・ケリーとレスリー・キャロンとのそれをシネマの記憶装置から抽出する原色の乱舞は、まさに映画の叙事性の何たるかを示唆し、比較的広いトポスに於ける大道に人生観を語らせる登り坂の途中で行使されるのも、この映画が水平と傾斜の構図で道を捉える時、その背景に映画館や映画の撮影現場を認める事で映画の構造主義を、『理由なき反抗』とは別の意味での間=テクスト性を纏う事になる。それはまさに映画の生産と流通、そして消費の仕組みを実に端的に示すのだ。ここに『雨に唄えば』の痕跡を認める時のハリウッド神話に亀裂を催すのが、背景に寄せる壁の存在である。
画面の人物の背後で息づくその背景が、ゴダールが一際愛した壁として人物を抑圧的に囲繞する際の隔絶感を、作者はポップアートの意匠をそこに塗り込む事で同時代の風土を滲ませる事に成功している。
このようにこの映画の坂や壁や映画館等を背景に満たす事が、その手前に位置する人間の心と消費社会の中に唯物的メカニズムを表象させるのも、ほぼ原色で統一された過去のミュージカル映画史の即物的描写の一場面を、実に簡素に機能しているのだ。
前半の長廻しによるカメラワークが映画の韻文性を誇示するのは、ミュージカル映画の宿命的説話の敷衍でもあるのだが、後半の時制が大胆にも遡行する時に、映画は図らずも夢と現実の淡い領域が映画の散文性を露呈させてしまう。
それはこの映画が夢のひと時である事を観る者に訴求するミュージカルの特性の披瀝でもあり、映画におけるイメージ場面がメタの聖域で不覚にも捉えられる時、ポスト・モダンの意匠としてミュージカル映画のいかにも現代的視線の獲得を謳歌する刷新性が如実に表された、これは他者化した視点を兼ね備えた観る者に他者性を強いる、極めて特異なミュージカル映画として記憶されるべきであろう佳作である。
そして人はこのミュージカル映画にかつてのMGM映画の残像を確認すると共に、疲弊したハリウッドの再生を賭けた映画の構造体系を極める為の新たなる記号への視線を教育の一環として装置化せねばならぬ事を、人生に深く関わる問題として熟読玩味せねばならぬのだ。
(了)