太陽のレビュー・感想・評価
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家庭用ゲームのようなシナリオ!!
悪い意味で家庭用ゲームか学生演劇のようなシナリオで、それでもテンポが良ければ良いのですが尺も長すぎて終始退屈でした。日本の寒村を舞台にしているのに種族の固有名詞(キュリオ、ノクス)が野村FFっぽくて気持ち悪く、対立構造も空想の域を出ず最後まで馴染めませんでした。役作りした事がないと言う神木君の喚き散らす一辺倒な演技は飽きました。
太陽
この先の人間の在り方を
問いかけているような映画でした。
太陽の下で貧しい生活を
余儀なくされている旧人類、
太陽の下では生きれないが
ハイテクで裕福な生活をしている新人類。
旧人類は
笑ったり泣いたり怒ったり
私利私欲に走ったり
人間味があったように感じました。
新人類は感情というものが薄く、
どちらかというとロボットのような
かんじで人間味がなかったように感じます。
最後新人類になった麦ちゃんが
その悲しい変わりようを表していた
のではないかと思いました。
そんな悲しい現実の中、
古川くんの役は希望でした。
人間というのは汚い部分も
ありますが、人間味がなくなって
ロボットのようになってしまうのは
悲しい。
この先ますます世界がハイテク化し、
人間が人間でなくなっていってしまう
のではないか、そんな危機感を覚えました。
ミニレビュー
考えさせらるれ内容でした。
ウイルスにより、人類は少なくなっていき、種族は二つに分かれました。
ウイルスに強くなり、老化も遅いが、太陽に浴びると死んでしまう「ノクス」と旧人類「キュリオ」。キュリオは、ノクスに管理されています。
ある日、青年がキュリオを殺してしまい、その青年は逃げました。
青年が暮らしていた村は、ひどい扱いを受け貧しくなっていきました。
そんな村で、育った少年は、ノクスになりたいという思いが強く、あることをきっかけにノクスの友人ができます。
しかし、そんな中、キュリオを殺した青年が村に帰ってきます。
その青年は、ノクスに管理される人生は駄目だと主張していました。
その話を聞いた少年は、どちらがいいのか悩み、ある決心をします。
というのが、大体の内容でした。
この話は、色々なことが、両極端に比べられる話だったと思います。
昼間に、生きるか、夜に、生きるかや田舎と都会どちらがいいのか。
ノクスは、生命体としては、いいと思います。病気にならないでしょうし老化も遅いしかし、観ている限りでは、感情が感じられない気がしました。
たいして、キュリオは、貧弱で、悩んでいる不完全な生き物だと感じました。
どちらが、いいのかは個人的な判断になると思います。
自分にとって何が一番なのか考える作品だと思いました。
素晴らしい
映画、物語りに肝心な「必然性」が全く存在しない。
入江悠監督という事で観に行って、愕然とした一本。
映画、物語りに肝心な「必然性」が、画面にも演技にも全く存在しないのが致命的だった。
評価された舞台の映画化ということだが、舞台だからこそ許されることを映画でそのままやってしまってはダメだろう。
ギャーギャー煩瑣い多動障害のような神木氏のキャラ、要所要所で棒読の門脇氏の演技など、これで良いのか?と思ってしまうちぐはぐな人物描写。
設定のみだけで、人物もその行動の理由も何も説明のない展開。
心情的にリアリティのない、長回しとは到底呼べない冗長な演出
後半、村上純氏が「いつもの調子でいつものキャラ」で飛び出してきたときには思わず吹き出してしまった。
(他のお客様には申し訳ないが、ここが一番面白かったわ)
すべては脚本も兼ねた監督の、完全な力不足としか思えず。
「SR」以降の仕事ぶりに、「一発屋」という言葉が頭から消えなくなった作品。
SFなヒューマン
昼と夜、それぞれの光
キュリオとノクス
集団につきまとう闇
異色の角度から問いかけられる、生きていくことの意味。
【賛否両論チェック】
賛:舞台の設定が斬新。新人類として制約の中で豊かな暮らしを生きるか、旧人類として貧しくも自由に生きるか、決断を迫られる若者達の悲哀がしっかりと描かれるのも印象的。
否:展開はかなり淡々と進むので、興味を惹かれないと眠くなりそう。グロシーンやラブシーンもあり。
設定はかなりSFチックな印象ですが、本作で描かれているのは、農村で貧しく暮らしていた“キュリオ”の主人公達が、都会の“ノクス”からの接触によって、次第にその生活をかき乱されていく様子が淡々と描かれていく、あくまでも静かな雰囲気の作品です。そのため、人によっては退屈で眠くなるかも知れません。
日の光を浴びられなくなるが、文明的な生活を送れるノクスを選ぶか、生活は貧しいが、あくまでも人間として生き続けるか。若き少年少女達に突きつけられる究極の選択に、なんとも考えさせられます。
グロシーンや乱暴するシーンも少しありますが、「生きていく」ということの意義を変化球な角度から問いかけてくる、異色の作品といえそうです。
ノクスの恐ろしさ
ノクスは心から善良。
本当にキュリオのことも平等に考えている。
しかしとにかく感情がない。
人間は感情を持ち、日々悩みが尽きないからこそ人間なのに、ノクスは恐ろしいまでに無機質で、とても機械的な存在。
ぞっとする。
すべてを何の疑いもなく受け入れている。
門脇麦さんのノクスになった後の演技が、心に刺さる。
声色や表情がまるでロボットのようになってしまった。
彼女のお父さんは、キュリオがノクスになると人間としての感性やあたたかみがなくなってしまうことを知りながらも、彼女の「豊かな」生活を願って送り出した。
その無条件な愛にただただ胸を打たれた。
思い入れのあるマフラーも、あっけなく新しいマフラーがあるからと断ってしまうような生き物がノクス。
豊かさとは何か、そして、人間の危うさを問うている映画だった。
舞台っぽい、、、
元の舞台も観たい
65点
希望と絶望は裏表
バンパイヤの要素も混入
評判の芝居から映画へ引っ張られることは、漫画原作のそれと同じで商業的にも又は大衆化的にも一つのシステムとなっているのだろう。この映画もその一つである。演劇のメリットはその瞬間の生の息づかい。ディテールに凝ることよりもパッションに任せることで得ることができる感情の支配。観客との一体感を厭が応にも包まれる空気がそこにはある。
逆に映画はカメラのレンズからのスクリーンという触媒を経ての出来事。“覗き見る”眼の前の風景は、凝った仮想現実を淡々と観客に説明するように流れていく。一歩引いた第三者の眼で観客は体験していく。
そうしたアプローチ方法の対極にある見世物がどれほどの意義があっての出会いを繰り広げるのか、興味津々である。
勿論、元々の観劇はしていないので、興味だけなのだが・・・
で、映画からの一方的な方向の感想だが、この作品は演劇でのアプローチ以外は成功しないのではないだろうかということである。、ワーゲンビートルの電気自動車のような走行音、音楽を聴くときの周りの壁に映されるディスプレイ、転換手術の部屋位が、SF感を匂わすシーン位で、SFのテーマであるディストピアがバックボーンに敷かれている事くらいである。
題材や訴求したいことなど、総じて演劇からのアプローチの方が上手くいくのではと強く感じた。
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