「魂の価値が希薄となる恐るべき未来」チャッピー 浮遊きびなごさんの映画レビュー(感想・評価)
魂の価値が希薄となる恐るべき未来
『第9地区』『エリジウム』のニール・プロムカンプ監督最新作。
金ピカや真っ黄っ黄に塗ったマシンガンやら、『ロボコップ』の敵ロボをウルトラアップグレードしたような
最強兵器“ムース”やら、この監督の作品は相変わらず銃器や装備がいちいち凝っていて面白い。
砂埃で薄汚れたアフリカの土地を舞台に展開されるアクションも、泥臭くもスタイリッシュで見事だ。
クライマックスの対“ムース”戦なんて物凄い迫力! 空飛ぶ上にクラスター爆弾装備って……何でもアリかね君は。
もちろん主軸は、学習する人工知能チャッピーの成長。
チャッピーは子どものように好奇心旺盛な動きがユーモラスだし、人間の嘘や暴力を経て少しずつ変わっていく様子もリアル。
チャッピーと出会って母性愛に目覚めるヨーランディとの親子関係も泣けた。
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とまあ、ドラマ面とアクション面については今回簡単に述べるに留める。
書きたいのは本作が描きたかったと思われるテーマについて。
異質さゆえに理不尽な暴力を受けるチャッピーや“創造主”ディオンがチャッピーと同様マシン化される展開は
いやでも『第9地区』と類似した展開に見えるが、人種差別の醜さを痛烈に描いた『第9地区』に比べ、
本作が描くテーマはもっと多面的で、そして薄気味悪いものだと僕は感じる。
外観の異なるものを排除しようとする人間の愚かさ。
あるいは外観に囚われずに美を見出だす姿勢。
結果を顧みずに知的探求を最優先する科学者の業深さ。
己の正義を疑わない人間が圧倒的な力を得た時の暴力性。
軍需産業とテクノロジーの発展の相関。
高度化するテクノロジーにより管理される社会。
その管理社会が一個人の悪意のみで崩壊する脆弱さ。
そしてなによりも、魂の価値について。
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実話かどうかは知らないが、映画の終盤である有名な話を思い出した。
幼い息子が母親に電池を買いたいとねだる。
母親が電池を何に使うのかと息子に訊ねると、息子はこう答える。
「カブトムシが動かなくなったから電池を交換してあげるんだ」
……もちろん、玩具のカブトムシではない。
命との触れ合いが希薄になった現代を揶揄するような、ある種不気味な逸話。
持続不能・交換不能であるからこそ生命は尊い。
だが、この映画の終盤で描かれるのはそんな価値観の終焉だ。
魂を電気信号に変換しコピーできれば、そして“入れ物” とバッテリーさえあれば、
もはや明確な “死” など存在しない。永遠に生き永らえ続けるカブトムシの世界だ。
ヨーランディを葬るシーンのチャッピーを思い出す。
悲しみの無い埋葬。死への畏(おそ)れの消失。
ディオンも、ヨーランディも、そしてチャッピー自身も永遠の生を得た。
この手の物語のフォーマットに反して、チャッピーは遂に『死』を学ばなかったのだ。
死の恐怖も哀しみも痛みも知らない子どもが、一体どうやって生の尊厳を学べるというのか?
そして我々は果たして、量産できる魂に尊さを見出せるのか?
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さすがに2016年までに『意識のデータ化』という技術が完成するとは思えないが、リアリティ溢れる本作を観ると、
この物語は単なる寓話ではなく、来るべき未来なのかもしれないと感じる。
すべての人間が“持続可能”になる未来が、いずれ本当に訪れるかもしれないと感じる。
そして僕は、そんな未来が心の底から恐ろしい。
テクノロジーの進歩が人類にもたらす功罪の数々。
そのひたひたとした不穏な足音が聞き取れるような、恐るべきSF映画。
そしてそれらの要素をリアリスティックかつド迫力のアクションエンタメとしてまとめあげる監督の豪腕は、
やはり化け物じみていると僕は思う。
〈2015.05.24鑑賞〉
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余談:
シガニー・ウィーバーも出演している本作だが、プロムカンプ監督の次回作は『エイリアン』の続編になるらしい。
マジか。マジなのかオイ。
テクノロジー+人間というテーマを描き続けてきた彼はなるほど
『エイリアン』のR・スコット監督や『エイリアン2』のJ・キャメロン監督と相通じるものがある気がする。
これだけの大型企画が順調に制作されるかは不安だが、もし実現したらと思うと、もう今から興奮が止まらない。