劇場公開日 2015年12月5日

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「空翔ける亡霊たち」アンジェリカの微笑み 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0空翔ける亡霊たち

2025年3月27日
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幽体離脱したイザクがアンジェリカの亡霊に誘われ、いきおい街の上を飛翔するシーンに明確な既視感があった。パウロ・ローシャ『黄金の河』だ。『黄金の河』にも恋に狂った年増の女が唐突に村の上を飛翔するという印象的なシーンがあった。

ポルトガル語という言語的架け橋があるからなのか、ポルトガル映画にはちょくちょくマジックリアリズム的なイマジネーションの発露がみられる。先述の飛翔シーン以外にも、意識を失ったイザクが部屋で医者の看病を受けている終盤の一連のシーンがそれを端的に示していた。

窓の外にアンジェリカの亡霊が降り立ち、それに呼応するようにイザクが立ち上がる。イザクは医者の制止を振り払い窓際へ向かう。再びイザクが倒れるが、そこから彼の霊体だけが抜け出し、アンジェリカと共にどこかへ飛び去っていく。

「登場人物が奇行を演じる」というだけであればヌーヴェルヴァーグあたりに目を向ければいくらでも参照項が見つかるが、そこに明け透けな反物理的現象が伴うと途端にマジックリアリズム的になる気がする。カルロス・レイガダス『闇のあとの光』、ロイ・アンダーソン『ホモ・サピエンスの涙』なども好例だろう。

物語の宗教的絵解きは他の誰かに任せるとして、演出に関して何点か。

全編を通してフレーム外という概念を念頭に置いた映画だった。たとえばアンジェリカの家族たちが邸宅にやってきたイザクを出迎えるシーンでは、イザクが映し出されないまま会話が進行する。ようやく左手からイザクが現れ、そこではじめてアンジェリカの家族たちとイザクの距離感が視覚化される。

あるいはイザクがアンジェリカの墓地を見やるシーンでは、肝心の墓地は映し出されず、柵越しに墓地を見やるイザクの姿だけが映し出される。

視線の対象ではなく、それを眼差す主体の反応だけを映し出すことで、イマジネーションを増幅させるという古典的手法が、本作の場合は「幽霊の登場」という荒唐無稽さに対するある種のイントロダクションとして機能していたように思う。

また、反復の運用も見事だった。たとえば教会の前でイザクに擦り寄ってくる乞食を何度も映すことで、中盤以降は乞食を映すだけでイザクが面倒な目に遭うことを示唆する。あるいは轟音を立てながら自宅前を通り過ぎていくトラックの場合は、一度目だけトラックを映し出すことで、以降は音だけでトラックの通過を表現することを可能にした。

102歳にしてこんな映画を撮ってしまうオリヴェイラの老獪ぶりに戦慄した。

因果