劇場公開日 2015年4月11日

  • 予告編を見る

「あっさりラブコメ」マジック・イン・ムーンライト 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0あっさりラブコメ

2020年10月27日
PCから投稿

マジックインムーンライトのプロモーションスチールには、見えない何かに触れるように両手をさしだして、神妙に虚空を見つめるエマストーンがつかわれている。映画中でも登場してすぐ「まって今きてるの」と、このポーズを見せる。

ソフィは霊力をもっている人の設定だが、じゅうぶんに疑わしいとはいえ、うさん臭さがない。きれいな童顔のエマストーンが演じることによって、霊能力者のステレオタイプや俗気から解放されている。

冗談なのか本気なのか、コミカルな空気感を常にまとい、突然、大きな目をさらに大きく見開き「見えるわ」と言って、心に見えた形象に触れようと手をさしあげる。それが可笑しかった。

エマストーンは、どこかハズしている気配がある。
コメディならすんなりはまる。
ドラマのときは、妙味がでる。

根本的に真面目なのかふざけているのか解らない不可思議をもっているひとでThe Helpの明るさやLa La Landの楽しさやThe Favouriteの大らかさをつかさどっていた。
すなわちランティモスにさえ、制御されない軽妙をもっている女優だと思う。

真面目なのかふざけているのかが解らない雰囲気。それは、ドラマをシリアスにし過ぎず、コメディを大味にし過ぎない。その属性は技巧っていうよりナチュラルな特性=天性でもある。

たとえば佐藤二朗がマジなのかふざけているのかといえば、どっちかといえばやっぱふざけているわけだが、いくらかマジが混入しているからこそ面白い。

この際のマジとは自分の発した笑いに巻かれてしまわない冷静さ、あるいは「面白いこと言ったぞ俺」の感じがないことが、面白い。この点でいくと「面白いこと言ったぞ俺」感が顕在しはじめているムロツヨシは減退してきている。

真面目なのかふざけているのかが解らない雰囲気。を持った俳優は、着実に仕事を増やす傾向がある。橋本じゅんや小手伸也は好適例だろう。すなわちそれが役者として強みになることがわかる。

韓国にはこの属性を使いこなす中年のバイプレーヤーがものすごく多い。イケメン俳優たちが主役や冠にならなければ面子を保てないなかで、個性的なバイプレーヤーがスルスルと入り込んで個性を発揮しているのが映画/ドラマの実体──と言える。

ところで、真面目なのかふざけているのかが解らない役者が人気をもつのは、わたしたちの現実がマジだらけだから──だと思う。

職場では嫌な仕事を我慢していたり、苦手な人と一緒だったり、緊張を強いられたり──しているのであって、とうぜんそこに佐藤二朗はいない。

会議や疲弊した残業の現場では仏頂面が槍衾(やりぶすま)になっている。のである。
すると、それらの現実を笑い飛ばすことができる珍妙なキャラクター──真面目なのかふざけているのか解らない存在は、おおいにわたしたちを癒してくれるはずだ。

たとえば職場に霊力を持ったエマストーンのようなアルバイトがいる、とする。
わたし「おう、おはよ…」
彼女「ちょ、まって今きてるの」

わたしは一応なんなんだよとか言って邪険にしてみるが、内心嬉しいと思う。──ときとして、そんな面白い人物によって、厄介で憂鬱だらけの現実がふわっと軽くなることがある。ことをわたしもあなたもよく知っている──と思う。

若い頃、わたしも職場でそんな人物像を狙ったことがある。が、とうぜんそんな偽装が長続きするわけがない。お里が知れて、地位や人間関係が悪化するだけ、だった。いつからか止めた。天性を模倣することはできない。

個人的にウッディアレンは好きな映画監督ではない。
90年代あたり、ウッディアレンが山の手のおしゃれな文化人御用達の映画監督だった、ことがある。軽妙な恋愛譚に惹かれなかったこともあるが、日本において文化的な権威主義をともなって語られてしまう気配が嫌だった。

だいたいにおいて、大人になればウッディアレンの映画に出てくる男女の色恋の気持ちが解るのかと言えば、そんなことはない。あの当時、ウッディアレン好きを公称していた文化人ほど、うさんくさいものはなかった。

が、むろん、ウッディアレンに罪はない。これはサクッとつくっていてその老獪さと真面目なのかふざけているのか解らない雰囲気──とりわけエマストーンがよかった。

いまウッディアレンといえば、おしゃれも、昔の攻勢も、どこへやら。養子の告発によって、ペドフィリアの烙印を押され、すっかりハリウッドから排斥されてしまった。

コメントする
津次郎