「山紫水明」黒衣の刺客 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
山紫水明
使い手の長回しで、微妙に動いてフレームを決める。
かならず人物の手前に、幔幕や調度を配置して、奥行きを演出している。
なぜか幅を切っていて3:4ほどの矩形に、ずらしながらおさめる。
カメラはもどかしいほどゆっくり動くが、画にはデジタルな粒立ちがあった。
衣装と髷に異常な心血を注いでいる。
1シーン1ショット。
ロングショットは絶景の山並み。
演技は排除され、役者は外貌と表情だけを担う。
たたずまいが語りかける。
緊張みなぎる斬り合いはワイヤーを使わず静と動にメリハリがある。
短刀逆手持ちの近接戦。
長剣をかわすときの立ち回り。
ヒュッと飛んできてトスッと刺さる矢。
白樺林の決闘。
血も切り口も見せないが様式とリアルがあった。
この年のカンヌの審査委員長はコーエン兄弟だった。
監督賞には意義がある。コーエン兄弟は、ホウシャオシェンのアクション史劇であることに、かつてとは異なる真価を見たのだ──と思う。
後年コーエン兄弟のバスターのバラード(2018)のアルゴドネスの章で、黒衣の刺客を範とした(としか思えない)見事なarrow-shotを見た。
矢が見たこともないほどリアルに人を射る。
むろん真実は知る由もないがあの矢筋は黒衣の刺客を血肉としている──わたしにはそう見えた。
隠娘は幼少に家族から離され、道士のもとで刺客として鍛練を積むが、非情に徹することができず、骨肉の争いに不毛をおぼえ、道士と袂を分かって、旅に出る。
美しい映画というと陳腐だが、山紫水明、どのシーンにも熟練らしい充溢がある。
諸葛亮みたいな道士が白毛扇を携えて桂林みたいなところに佇んでいるのは、ほぼ山水画だった。
伝奇もある。
無国籍もある。
巫蠱をあやつる蛮僧は西洋人の気配。
隠娘を救うのは日本人。
酒宴の踊りはオリエンタル。
むかし夢中になった諸星大二郎を思い出した。