「愛国にすり替えられた反原発の祈り」シン・ゴジラ かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
愛国にすり替えられた反原発の祈り
『自分の外には自分の知らない感情が無数に存在し、まったく矛盾する幸福感を持つ人たちが、隣り合わせで生きているのだ。私のLOVEは誰かの悲しみだったり。』
HONDA TVCM〈Go,Vantage Point〉より
エヴァンゲリオンはもちろん、軍事から鉄道まで幅広いヲタのみなさんが泣いて喜びそうな小ネタ満載の本作は日本では大ヒットを飛ばしたが、海外での評価はいま一つ盛り上がりに欠けているようだ。
まるで他人事のようにマニュアル通りの声明文を読み上げる首相(大杉漣)以下内閣の無能ぶりや、ゴジラ内部の原子炉凍結をはかる一時しのぎのヤシオリ作戦などは、なるほど3.11をリアルに体験している日本人ならばピンとくるシナリオだ。
体内核融合によってエネルギーをえて東京を放射能汚染地獄に変えてしまうゴジラはまさに動く原子炉であり、この巨大不明生物が“フクシマ”のメタファーであることは一目瞭然であるが、その寓意がうまく伝わってこないというのだ。
庵野監督が福島被災者の気持ちを忖度したせいなのか、映画制作の意図が反原発とは別のパトレーバー的愛国心を鼓舞することにあったのかはよくわからないが、ゴジラが東京を目指した理由や本作のキーマンとなる牧教授の物語をあえて封印した演出により、ラストシーンの(人間の煩悩を増幅させる装着としての)象徴性がぼやけてしまった感は否めない。
おそらく反原発を叫んだであろう牧教授やその奥さんを含む被災者の怨念が憑依したゴジラが(福島が電力を供給し続けた)東京を目指したのは、テクノロジー万能を過信した東京いな日本が享受しなければならないいわば当然の“痛み”だったのではないか。
もはや“神話”と化しつつあるその技術力を駆使して、完全無欠の生命体=神ゴジラを封じ込めようと躍起になるはみ出し官僚&タカ派発言を繰り返す主人公矢口蘭堂(長谷川博巳)の姿に、共感どころか後味の悪さを感じてしまう人もいることだろう。
国民生活など二の次で、本当は省内出世と既得権益確保にしか興味のない官僚の大活躍によって一応の決着を迎える本作は、ドメスティックな九条改憲派にはすこぶる受けがいいそうだが、ゴジラ侵攻によって最も被害を受けているであろう一般ピープルの視点が抜け落ちているのが気になるところ。
(ショック・ドクトリンに基き)TOMODACHI作戦なる有償援助を押し付けられた日本の米国に対する不満を表明するのがせいぜいの、想定範囲内の反原発映画と評価されてもいたしかたのない映画の出来に(小ネタ祭には狂喜乱舞するものの、物事の本質には見ざる言わざる聞かざるを決め込む国民性に)、庵野監督自身さぞはがゆい思いをしていることだろう。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
『春と修羅(mental sketch modified)』より抜粋