「期待して見に行ったのですが…」シン・ゴジラ マローンさんの映画レビュー(感想・評価)
期待して見に行ったのですが…
シン・ゴジラ、とても期待して見に行きました。しかし見終わった感想はただただ物足りなさしか感じなかった。
3・11を経験した後の映画として「ゴジラ」を冠するなら、もっともっと破壊のシーンがあってもいい、東京あるいは日本が壊滅的な状況になるほどの描写があってもいい。
さらにはテーマとして何故ゴジラは東京やその近郊に出現したのか?
最初に現れるべきは福島ではないのか??
人々のゴジラに対する恐怖や畏怖の念の描きかたが薄くはないか?
自分は、ゴジラ対人類の戦いというのならゴジラを倒すためには核兵器を使ってもいいと思うし、でもゴジラはやはり人類の力では倒すことのできない存在であり、そこに人類の傲慢さや愚かさが描かれているみたいな内容が見たかった。
政治とはこういうものだということをここまで出してくるのなら別にゴジラでなくてもよかったのではないか、あまりに現実的にありすぎるがためにゴジラまでもが怪獣ではなくただ人を害する巨大生物になってしまったような感じだった。
ゴジラ映画としては2014年のハリウッド版の方がはるかに面白かった。
I♡MOVIEさん、コメントありがとうございます。
他の方々のレビューやコメントを読んでわかりました。
自分が勝手に「ゴジラ」とはこういうものでそこにはこんなテーマがあってこう描かれるべきだと思って期待していたからガッカリした気分になったんだと。
この映画の主題は人間対未知の巨大生物なんだ、だって「シン・ゴジラ」だから。
これまでのゴジラ映画が1954年のゴジラを越えられなかったのはあまりにもその存在にとらわれ過ぎていたから、なら、ゴジラの形態や姿も含めてその概念を壊してしまわなければ決して越えることはできない、だから変態したっていい、だって「シン・ゴジラ」だから。
シンの意味は見る人によってどう捉えてもらってもいい、だってあれは「ゴジラ」 ではなく「シン・ゴジラ」だから。
つまり、これは東宝が作った全く新しい怪獣パニック映画なんだと。
だからストレートに「ゴジラ」とか「大怪獣ゴジラ」とか「ゴジラ2016」というようなタイトルではないんだと。
基本的には賛同の立場です。
初代ゴジラは原爆投下、終戦から9年で公開されました。当時のことを思い出す人もいたのではないでしょうか?だからこそ衝撃であり、人々が恐怖し、原爆への強い警鐘たりえたのでしょう。今だって我々は当時のメッセージを忘れてはならないのです。当時のスタッフだって人の心を忘れた訳ではないでしょう。
今作は初代を強く意識し震災、福島原発を強く想起させる意図は明白です。シンゴジラを娯楽ではなく恐怖の対象として描くなら福島上陸はもっとも強い衝撃、警鐘になったでしょう。もちろん震災を思い出させ、批判もあるでしょうが、その分強いメッセージになったでしょう。マローンさんだってゴジラが福島を蹂躙するのを応援してる訳ではないと思いますよ。
ただ東京上陸でも十分震災を意識させる作りだったと思います。必ずしも福島でなければならなかったいうほどでもないと思います。
1954年、ゴジラが誕生したのはその年にビキニ諸島で第五福竜丸が被曝、水爆実験に対する強烈なアンチテーゼからだと自分は思っている。
さらに映画のなかで東京が火の海になってしまうシーンは9年前に経験したまさしく東京大空襲の再現であり、逃げ場を失った母子が「もうすぐお父様のところにいくのよ」という台詞はおそらく当時の日本人のたくさんの人達がそうして死んでいったということを経験したうえでの描写であり、それを見た人のなかにはあれは自分のことだと思った人も少なからずいたと思う。
そして芹沢博士の苦悩は、人類自らが目覚めさせてしまった「ゴジラ」という怪物は自らの手で葬るしかない、だがそのためには人類も血を吐くような努力を苦しみを味あわなくてはならないというまさしく博士自身の命との引き換えという究極の選択への苦悩であり、それは人類全体の課題なのだと訴えてくるものだと思う。そして博士の最後は特攻隊の姿に重なり、あたら失わなくてもいい命を人類の欲望と傲慢の果てに亡くしてしまう。そんな理不尽が許されていいのかという「ゴジラ」を制作した人達の、強烈な反戦、反核の意志が投影された映画だと思っている。
3・11から当事者以外はもうあの日のことは記憶の中から薄れていってしまうような年月が流れた。―もう5年経ったんだから被災した人達もそこそこ大丈夫だよね、まぁ、そっとしとこうよ―というような安い同情論に流されてやがて忘れてしまう。そんなことがないように今だからこそ、5年前に福島はまさにこんなことがあった、それは決して忘れてはならないことだというメッセージを持った作品を期待した。
でもそうではなかった。少なくとも自分はそうは感じなかった。
1954年にその怒りを即座に表現しようとゴジラを作った人達の気概の、何分の一も感じることはなかった。
日本人であるならあの福島のことをもっともっと怒るべきだと思う。
原発の状況やかの国の核実験、「ゴジラ」ならその怒りはもはや頂点に達していると思う。その舞台として「福島」こそがあってしかるべきと思うのは日本人の心を失っていることなのか?
ゴジラが「福島」に現れることのなにがもっと問題っていう意味がわからない。
曲がりなりにも「ゴジラ」と冠し、現実と虚構と謳うなら、だからこそ福島の存在を忘れてはならないのではないか?
ゴジラが、人類にとって抗うことのできない恐怖の存在でありひとたびその怒りが発せられなたならもはや抑えることのできない存在として描かれることこそが広島や長崎、そして福島を忘れないために必要なのではないか?
もちろんそこには被害を受けた人達を貶めるような描写があってはならない。が、それでもそこを描こうという思いがあってもいいと思う。
このゴジラは、シンゴジラという巨大生物と一部の人間との戦いを描いただけの映画であって「ゴジラ」ではないとさえ思える。
直積的なものは被害者など当事者の方々の気持ちを考えると難しいのではないのでしょうか?本作で核の恐ろしさ、災害の恐ろしさ、政府の対応の難しさなどは充分表現されていると思います。恐怖はあのゴジラの容姿に充分現れていると思います。