「すべてが乱暴な作品、一生好きにはなれない」バケモノの子 大江戸800野鳥さんの映画レビュー(感想・評価)
すべてが乱暴な作品、一生好きにはなれない
個人的に細田守監督の作品は好きではないです。
それでも公開当時「3回」観ました。
1度目は「今度はどんな映画を作ったのか、見せて貰おうじゃないか」という、海原雄山のようなスタンスで
2度目は、ヒットしている本作に対し、「この映画のどこがいいんだ?」と思いながら
3度目は、(自分の感覚がおかしいのかを確認するため)友人に観て貰うために
正直「何がそんなにいいんだ?」と思いながら、今でもときどき「金曜ロードショー」の録画を観返しています。
冒頭から「よくきたな。まぁ黙って、我々の話す物語を最後まで聞きなさい」だって。
この「聞きなさい」が、スクリーン越しに観客の「僕」へ向かって言っているのだとしたら、僕は今からスクリーンの中に居る「架空のキャラクター」に、「架空の世界であるバケモノの世界」について、一方的な説明を受けるわけです。
そんな乱暴な説明で、「わかったか?わかったら、今から始まるこの映画の世界観を納得して受け入れろ」といきなり言われても、受け入れられるわけがありません。
そんなわけで、のっけからかなり強引に作品の世界に「押し込まれた気分」でした。
思いやりなど微塵も無い大人(親戚)に「牙むき出し」で啖呵をきる主人公の蓮。
主人公の境遇を端的に見せることで、彼の行動原理に共感・同情・納得して貰おうと思ったのでしょうが、感情移入どころか「ケンカドッキリ」に居合わせられたような不快感すら覚えます。
この時点で、この主人公(ひいては細田監督)に付き合うのが苦痛になっていました。
~で、いきなり「闇」を産み落とすし・・・
歩くこと「だけ」を命じられたような、生気の無い渋谷駅前の通行人の群れ
補導すること「だけ」を命じられたような、体温の感じられない警察官の態度
街も車も道行く人間も「パーツの寄せ集め」にしか感じられない渋谷という街を、エピソードが発生するポイント(チコに謎の白い固形物を与える、熊鉄を見て『ば、バケモノ!』と言ふ、など)を1個ずつ消化しながら、何者か(細田だな)に誘われるかのようにスンナリと渋天街へ迷い込む蓮。
すべては細田監督の「思惑通り」に事が運びます。
細田監督に出口をふさがれた蓮は、生臭坊主の豚に誘われ、為すすべもなく熊徹に「飼われる」ことになります。
蓮にできた唯一の抵抗は「本名を明かさない」こと。
熊徹が「勝手」に名づけた「九太」という名前。
蓮には最後までしっくりきていなかったことでしょう。
(果たして彼は、渋天街の中ですら、一度でも、自分のことを「九太」と名乗ったのだろうか?)
「憎まれ口」という言葉がありますが、多分、蓮は熊徹のことをずっと「好きではなかった」と思います。
(クライマックスで細田に丸く治められたように仕向けられていますが、ラストで人間界に戻って平穏な普通の生活ができることになって、清々しているはずです)
※心に宿ったことに満足する熊徹の「独りよがりな笑顔」が虚しく映ります
(この独りよがりな笑顔は、そのまま細田監督のものとして映る)
熊徹の足の動きを読み取ることができた蓮は、これまでの「憂さ」を晴らすかのように、熊徹を追い詰めていきます。
熊徹の「胸を借りる」のではなく「熊徹と張り合う」のが、彼の「修行」です。
一方の熊徹は、「得体の知れない人間の子供」との共同生活の中で、より「乱暴者」に磨きを掛けていきます。
何年経っても平行線を辿る二人の関係性に変化をつけたい細田監督は、一旦蓮を人間界に戻すという「荒業」を使います。
この演出に「シビれた人」は何人居たでしょう。
ここから、前作の「おおかみこども」と同じようなことがしばらく続きます。
※僕の中で、前作の「彼(死んだオオカミ人間)」は、彼の祖先が「渋天街出身だった」ということにしました
「いつもと違う蓮くん」をひっぱたいて、すかさず引き寄せ、背面のフェンスにぶちかました楓。
老けないオヤジ。
蓮の「心の闇」は広がっていくばかりです。
~というか、8年も前に渋谷で産み落とした「心の闇」がまだ残っているとは・・・。
そして、それを見つけた蓮が「あれは・・・オレ?」
いやー、わけがわからない。
もっとワケがわからないのは、エスパー一郎彦と、結局「弱いヤツは大嫌い」な二郎丸。
細田監督の都合に合わせて、何の脈絡もなく突然蓮を痛めつける一郎彦は、いつまで「自分の種族の被りもの」を被っているのだろう?
(あんなアホみたいな補完あるか?)
「8年もあったのに、他に立候補するバケモノは居ないの?予選は?」
そんな僕の素朴な疑問を聞き入れて貰う余地すら無い、「武力による一発勝負」の宗師決定戦が始まる。
8年経っても「落書きが一個増えただけ」の渋天街。
熊徹も同様。
8年経っても大・丈・夫!(イナバ物置き)。
「8年間何をしていたの?」というくらい、あっという間にダウンする熊徹。
よせばいいのに檄(いや、あれはヤジかも)を飛ばす蓮。
数えりゃいいのに、カウントをやめるレフェリー。
あらゆる演出が「東映まんがまつり」と化す。
そして「火事場のバカ力(←“か”ではない)」で、一発逆転をかます熊徹。
刀刺さって、ちょっぴり「松田勇作」する熊徹。
高笑いするエスパー一郎。
猪王山「サイアクだー!!」
オレが言いたいよオッサン・・・。
東映アニメ風の超能力バトルを挟んで、一郎彦ワープ。
・・・彼は「人間」なんですよね?
ぱにくる渋谷。
「なに、映画?」
・・・そんな撮影があるなら見てみたいよ。
一郎彦にポンポン吹っ飛ばされる「えきすとら」の人たち。
絶対に逃げ出せそうも無い渋滞の山手線高架下で起きる大爆発。
「死傷者ゼロ」
イエモンの歌じゃないけれど、「死傷者は居ませんでした」
居ませんでした!
居ませんでした!
・・・僕は何て言えばいいだろう?
こんな物語が「野放し」で手放しで喜ばれている・・・。
【細田監督へ】
そういえば、細田守は「卵掛けご飯」はおキライなの?
渋谷で蓮がチコに食べさせた白い四角のカタマリは何?高野豆腐?
チコは「マスコット」以上でも以下でもないってホント?
「冒険の舞台は渋谷」って、本気で言ってるんですか?
・・・。
細田監督は、知識人めいた能書きをたれることはやめて、単純に「観る人が楽しめる・興奮するアニメを作りたい」って言えば良いと思ます。
細田監督の一連の作品を見ていると、家族の絆や子育てをするお母さんのすばらしさ、子供の成長を、本当に「描きたかった」とは、とても思えないのです。