ヴィヴィアン・マイヤーを探してのレビュー・感想・評価
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彼女の写真は涙が込み上げるほどの温かさで満ちている
偉人や偉業を描くでもなく、このドキュメンタリーが光を当てるのは名もなき乳母だ。彼女が撮り貯めた膨大な写真の山。それを偶然発見した本作の監督。どのショットも美しく、構図も素晴らしく、何よりも被写体への温かみ溢れる視座がある。本作はこれまで誰にも見られることなく眠り続けてきたモノクロ写真をディスカバーするのと同時に、今は亡き「名もなき写真家」の素顔を少しずつ解明していく。芸術の分野では生前よりも死後にその作品が評価されて名声を高めていくケースがあまりに多いが、本作に触れることはそのダイナミズムを現在進行形の文体にて体感することでもあるのだろう。ヴィヴィアンの素顔が決して聖人君主ではないところや、「果たして彼女のことを世に知らしめてよかったのだろうか?」と自答する監督の胸中も含めて、非常に素直で正直な映画だと感じた。そして、何度目にしても彼女の写真はどれも時代と文化と人物を優しく切り取っていて、涙がこぼれるほど素晴らしい。
無欲な写真家
功名心がない、誰かにほめられたいとは思わない、意外にそんな人は少ない。
いや、ほとんどいない。
世の中はやったことの対価で成り立っている。
誰でも何らかの欲得をのぞむ。
無欲なんて、あり得ないし、多少なりと腕に自覚があるなら、それを生かそうとするだろう。
ヴィヴィアンはその一般的な概念を超えている。
そこに生き、見たものにシャッターをきって、それだけで楽しい。
上から覗くローライフレックスも彼女の性格に合っている。
誰にでもファインダーを向ける外向性と、地域社会での亀のような内向性。
『ストリート写真家は雑踏をおそれない社交的な性格の持ち主だ、人と接するからね、だが同時に孤独な者でもある。外交的かつ内向的だ。被写体をまるごと抱きしめるが、自らは引いて存在を消す』(映画中、プロの写真家の言葉)
束縛する関係性を嫌い、外で撮りたいように撮る。そもそも、発見されなかったら、発見される人が間違っていたら、世に出なかった。そのネガ15万枚。
『人間やストリートフォトの本質をよくわかっている』
『被写体の人生や風景を完璧にきりとっている』
写真も才能も本物で、世界中で注目された。
そして謎が残った。
こんなにたくさんの素敵な写真を、なぜ誰にも見せなかったのか。
発表しなかったなんて、もったいない。
彼女を知る人々から、そんな言葉が出てくる。
が、そこに高潔という理想も見る。
富も栄誉も求めず、やりたいようにする、自由人。
だが、後半は、奇人ぶりや孤独で惨めな晩年など、ヴィヴィアンの負の側面が紹介される。前半の賞賛から、ぐっと卑近に、等身大になり、リアルだった。
写真の発見であると同時に、ヴィヴィアンマイヤー=15万枚も撮影して誰にも見せなかった、独特な人間の発見でもあったことを、このドキュメンタリーは伝えている。じっさい素敵な写真もさることながら、その高潔に感銘をうけた。
根っからのアウトサイダー
ヴィヴィアン・マイヤーの人間性をミステリアスに興味深く描いた素晴らしいドキュメンタリー。
自分は素人なので技術面は分からないが魅力のある写真群なのは間違いない。
欠陥のある人間性と彼女のダークサイドな側面を描き写真家としてよりも人物像に人生そのものが興味深くそこが魅力でもある。
常に変わり者なアウトサイダーであるのは承知の事実で作品として残さずそれでも撮り続けた理由は永遠に知れない。
最後のフランスでの写真展のシーンは和むし今の評価に彼女自身、何を想うのかが一番興味深い。
無名の女性に迫るドキュメンタリー。
ある無名の亡き女性、ヴィヴィアン・マイヤーの人生に迫るドキュメンタリー。
才能がありながらも、ひっそりと暮らした彼女は幸せだったのか。
人目に触れるのを嫌がった彼女の写真が、亡きいま有名になることは失礼ではないのか。
彼女の作品を取り上げ無条件に褒め称えるのではなく、彼女のパーソナルなところにも迫り、良いところも悪いところも曝け出す。
それは、ヴィヴィアン・マイヤーが生きている間にはできなかったことで、本当は望んでいた生き方だったかもしれないな、と少し思いました。
彼女のことを大切にしていた人もいることに希望も感じました。
それにしても、彼女の写真は映る人の物語が自然に、そしてわかりやすく表現されていてすてき。
なかなかあんな写真は撮れないけれど、久しぶりにカメラを持って出かけたくなりました。
よかった
今現在なら迷惑防止条例で怒られそうな、道行く人を無断で写真撮影する表現にハラハラする。おおらかな時代そのものも描かれていた。
撮影してプリントした時点でかなり満足していたのと、世間に認めてもらいたい気持ち、自分を隠ぺいしたがる気持ちで心が引き裂かれていたのではないだろうか。統合失調症的な分析をしていた人もいた。また世間でもてはやされている写真家についてはどう思っていたのだろう。
孤独であったが、乳母として子供と接していた事で母性が満たされていたのかもしれない。オレも里親なので気持ちが分からなくもなかった。いろいろな矛盾を抱えた人物であったと思われる。
J・K・シモンズみたいなおじさんが、批評をしていてその言葉がいちいちかっこよかった。ご本人に伝えて欲しい。
誰にも見せることなく無数の箱にしまい込まれたネガが好奇心旺盛な1人...
誰にも見せることなく無数の箱にしまい込まれたネガが好奇心旺盛な1人の青年を魅了し、やがて世界中の人を虜にする。ある意味『シュガーマン』に似たテイストのドキュメンタリーで、ヴィヴィアン・マイヤーが遺した写真の一枚一枚の美しさもさることながら、たまたま彼女の写真に出会ってしまったがために生前の彼女を知る人々を訪ねて歩くことになる、この偶然の織りなす深いドラマに胸を打たれました。
観終えて、少し悲しい。
嗚呼「優れた芸術家が必ずしも優れた人間ではないのだな」と、観終えて少し悲しくなった一本。
「ガレージから発掘された、未知の芸術家の人物像を追う」
というドキュメンタリの筋書きは◎
何より目の腐った自分でも感じる、ヴィヴィアン氏の写真の魅力が本当に素晴らしい。
ただ、追うにつれて(あくまで他人の視点から、だが)明らかになる彼女の姿が。
決してあまり「良い人」ではなく、それがまた彼女が才能と一緒に抱えていたであろう「世間からの疎外感」ひいては「絶対的な孤独」を思わせて切なくなった。
良い悪いではなく。
情が深すぎる故に現実社会にうまく接されずに誤解も含めて歪になり、その実は写真という「眼」を通して作品に表れていたんではないだろうか。
そんなことを感じた作品。
もし彼女が生きているうちに評価されていたら、きっとダリやらピカソやらのような扱いを世間から受けていたんだろうな。
こんな写真を撮ってみたい!!
そう思える映画でした。
しかし、実際問題、大胆でなければ撮れやしない。
恥ずかしさや気後れがあると人の視線に耐えられない・・・
ファインダーを通しても。
この人はできたんだ!!
でも発表しないで静かな老後をおくってしまった。
作品が発表されたのが救いだ。
上から覗く方式のカメラだったから撮れたのだとの説明があったが、一理あると思う。
一台うってつけのデジカメを持っているが試してみる・・・・か?
才能を秘めた女性の一生
There is a fine line between genius and insanity.
天才と狂気…紙一重なのだろう。
写真家としての才能を認められる事なく一生を終えた女性。彼女の名前を歴史に刻むことになるドキュメンタリー映画は、その作品を見つけた青年の熱意によって作られた。
彼女を知る人々のインタビューと当時の写真から、ヴィヴィアンがどのような人だったのかを想像の範囲で追いかけていく。
そして、晩年の話は少し切なく胸が痛んだ。
ファインダーを通して生き生きとした人々の写真を撮ることで、1人で生きていくという孤独と戦っていたのかもしれない。カメラで切り取られた人々の人生や、息絶えた動物を撮ることで、生と死をいつも身近に感じていた人だったのかな…?
わかりやすく、想像を膨らまし観ることができた。
淡々と進むので、睡魔に襲われそうになったけれど…。
写真家と被写体の間の距離感
撮られた写真は、その人物の性格や生活などが、個性的な距離感と、独特の視点で切り取られ、とてもインパクトの強いものに感じた。
ただ、ドキュメンタリー映画のためか、途中、眠気を催してしまった。
不思議な余韻にひたる
予告編で観るともっと昔の人と思っていましたが、ナニーとして世話した子どもたちがまだ若いですね。
自分の生き方として、家政婦、子守をしながら写真をずっと撮っていた人。
どんなきっかけで撮り始めたのか
どんな写真に影響を受けたのか
人間の不思議さを感じました。
彼女が亡くなった後で、あのネガやフィルムが、誰か見つけて‼︎と言っていたのでしょうか? その声なき声に答えた映画と思いました。
誰にも見つけられなかった宝が、やっと世界に見いだされ、正当な評価得た事に安堵し、不思議な幸福な余韻を感じました。
ある女性の人生…
すでに様々有名になり、写真集も高い評価を得ている、ヴィヴィアンマイヤーの映画です。
ヴィヴィアンマイヤーに魅了された青年が、それを公開して、インターネットを経由して瞬く間に世界を巡り、シンデレラガールの誕生…というところまでは、既知の事実ですが、ヴィヴィアンマイヤー自体はすでにこの世に存在しない…
ヴィヴィアンを解き明かす過程で、なぜヴィヴィアンが情緒ある写真を収めることができたか、彼女自身を解き明かしてくれる過程で、わかってきました。
ヴィヴィアンは、天国からどう思っているんだろ…。
誰にどう思われようと、彼女は彼女の天寿を懸命に生きた…そのことだけが事実なんだと思いました。
思てたんと違う!
かっこいい写真がいっぱい見られると思って、足を運んだ。
いざ映画が始まってみると、この人の過去を探る内容だった。
最初は、ミステリーっぽくて、少々のワクワク感と共に見ていたけど、だんだん暴き様がえげつない感じになってきて、結構きつい、でも見ちゃう。みたいな感じ。
この方亡くなってるし、この人の本当のところは誰も分からなくて、出てくる人みんなが好き勝手言ってるんだけど、こんなすごい闇抱えた人を何年も雇って、家に住まわせて、なかなかすごいな、アメリカ。と思ってしまったのでした。
今ならこんな人きっとすぐ捕まって施設に入れられちゃうぞ。
あ、でも写真はとにかくすごい、かっこいいに尽きる。
もっと写真見てみたい。
素晴らしい街角写真を撮った独りの女性
埋もれていた女性写真家をめぐるドキュメンタリー。
原題は「FINDING VIVIAN MAIER」。
「find」を「見つける」とするか「探す」とするか、さて、どっちかしらん。
って、どうでもいいような気もするけれど、細かいことが気になって・・・という性分。
2007年、米国シカゴ在住の青年ジョン・マルーフ(この映画の共同監督でもある)は、オークションで大量のネガ・フィルムが詰まった箱を落札する。
彼は、地元の歴史に関する本を執筆しようとして、その資料として、かつての風景・風俗が写った写真を探していたのだった。
開けてビックリ。
その写真は、どれもこれも出来栄えが素晴らしいストリートフォトグラフ。
その他にも、写真を撮った人物が保管していた物品が多数詰まっていた。
写真を撮った人物は、ヴィヴィアン・マイヤーというらしいが、これまで一度も耳にしたことがない名前だった・・・といったハナシ。
とにかく、映画前半で彼女が撮った写真の数々が紹介されるが、どれも本当に素晴らしい。
被写体との距離感といい、とらえた一瞬の仕草や表情といい、街の息吹が感じられる。
そう、まさに、ヴィヴィアン・マイヤーを「見つけた」ぞ!って感じ。
数万枚にのぼる写真及びフィルム(未現像のものまである)の整理もさることながら、マルーフ青年はヴィヴィアン・マイヤーがどんな人物だったのかにも興味を覚え、彼女の人となりを探求していく。
次第にわかったことは、
・彼女は乳母を生業としていた
・かなり奇矯なひとだったらしい
ということ。
ヴィヴィアン・マイヤーに係わったことがあるひとにインタビューすると、彼女は自分のことを「マイヤーさん」「ヴィヴィアン」「ヴィヴ」と様々に呼ばせていたらしい。
ただし、ひとつの家族の中での呼び方は一種類。
つまり、「マイヤーさん」と呼んでいたところでは、決して「ヴィヴィアン」「ヴィヴ」とかは呼ばせなかった。
さらには、マイヤーの綴りも、そのときどきで変わっていた。
そして、なんでもかんでもの収集癖。
ある家族の証言では、「部屋中に新聞紙が山積みになって、壁のようだった」とか。
なんだか、自分の存在を消したかったような感じがする。
世間と、折り合いをつけるのが難しかったようにも感じる。
この感じ、はて、他の映画で観たような・・・
思い当たったのが、ウディ・アレンの『カメレオンマン』。
あの映画は、世間と折り合いが付けられず、そのときどきで容貌・体型までも変化させてしまう男の「フェイク・ドキュメンタリー」だった。
ヴィヴィアン・マイヤーの個性があまりにも強烈で特異なので、この映画も一瞬、フェイク・ドキュメンタリーかと錯覚してしまうほど。
この映画の後半、ヴィヴィアン・マイヤーがどんな人物だったかを「探して」いくうちに、彼女の素晴らしい作品の数々がどこかへ取り残されてしまったように感じてしまった。
彼女が撮った写真は、街の息吹を感じるようなストリートフォトグラフの他に、自分自身のセルフポートレートも多数あった。
それらポートレイトは、街角のウィンドウや鏡などの、ちょっとした反射体に映り込んだ姿をとらえたもの。
このようにして、彼女は「世間との折り合いをつけていた」のだろう。
映画は、発掘した彼女の写真の展覧会が各地で盛況となることを描いて終わるのだけれど、その盛況ぶりは彼女にとっては甚だ迷惑(余計なお世話)かもしれない。
だれかが(ひとりでいいから)彼女の写真をみてくれるだけでよかったのに、と思っているかもしれない。
人物の深掘りになる映画後半に、もう一度、彼女の作品群をじっくりとみせてくれていれば、もっと映画に深みが出たし、観客のひとりひとりが彼女のことを思いやることができたのではないだろうか。
精神分析的なアプローチが欲しかった
何万点という写真を残しながらも、一枚も公開することなく亡くなった女性の謎の人物像とその生涯を追うドキュメンタリー。
人付き合いが極度に少ない。新聞を捨てずに自室にとめどもなく積み上げる。子供に一風変わった接し方をする。肉親はほとんどいない。そうした証言を聞くにつけ、TVなどで取り上げられることのあるゴミ屋敷の住民など、何らかの精神的な問題を抱えたパーソナリティが浮かんでくる。
そしてこうしたパーソナリティ障害を抱えた人物が時として、非凡な才能を発揮することも、この映画で明らかにされるヴィヴィアン・マイヤーという女性の姿に合致するのだ。
写真というものは映画と同じく、撮影者の価値観や被写体への姿勢が反映される。
彼女の作品に映る多くの人物は、社会的な評価からは零れ落ちているような人々である。そして、想像するに、彼らは自ら被写体となることを望んではいない。なぜなら、写真には彼らの「醜態」が写ることが分かっているし、その「醜態」をさらすことで得られる利益などないことも分かっているからだ。
しかし、彼女はその被写体自身が望まない写真を大量に撮影している。このことから、映画中にもインタビューであったように、被写体に対する距離の取り型が非常に巧いことが想像できる。
なぜ彼女にはそれが可能だったのだろうか。たいていの人間が同じ被写体にレンズを向けても拒絶され、不興をかったであろうことが容易に想像できるのに。
このドキュメンタリーには、この疑問に対する具体的な答えは出てこない。インタビューを求めたのが、存命中の彼女を知る人々と写真家、評論家に限られたことが残念だ。精神医学や心理学の専門家にも意見を聞いてみて欲しかった。そうすれば、ヴィヴィアン・マイヤーという一人の女性の、残した写真だけでなく、その人物像にもっと観客は近づくことができたのではないだろうか。
写真に魅せられました
いろいろな見方が出来ますが、ビビアンの膨大な遺品を整理し作品を世に出したマルーフ、きっと彼女も天国で感謝していることだろう、
と思います(^.^)
ほかにも誰かの素敵な宝物が、世界のどこかで発見される事があるかと思うと
夢があって、いいなぁ。
●事実は映画より奇なり
好きだわ。知られざる才能の発掘物語って。
なんて魅力的な写真を撮るんだろう。そこには、市井の人々のドラマが切り取られている。笑顔。苦悩。微笑ましさ。誇り。瞬間瞬間の美しさ。彼女はそれを見逃さない。
そして、なんて孤独な人生だったんだろう。類稀なる才能と引き換えに、彼女は幸せを写真の中に閉じ込めた。天才と変人は紙一重だ。人の能力の9割方を写真に取られた分、最低限の生活を強いられた。
天才であるがゆえ、ほかのことは不器用な芸術家って多い。店を破壊するほど酔っ払って暴れる役者。唯一の理解者をストーカーのように攻撃するミュージシャン。出自のコンプレックスから書くことしかできない小説家。それでも普通は、まわりが才能に気付いてフォローする。
彼女だけが自身の才能に気付いていたから、膨大なポートレートを残したのかもしれない。こんな日が来たときのために。
「被写体が身構えない距離に誘う。彼女はこの距離感を知っていた。」
プロが唸る。
「彼女にとって作品は子供。子供を発表したりしないでしょ。」
そうかもしれない。
歴史家、ジョン・マルーフの偶然の出会いと、ネット社会のなせる技。
埋もれた才能は権威だけが発掘するモノではない。
ある価値観が、国を超え世代を超え共感されてパワーになる。
そんな世の中は、ちょっとステキでワクワクする。
彼女の真相に迫る
雑誌にrecommendされていたので見に行ったが間違いなかった。
彼女の写真もとても好きですが、彼女自身を物語るだけの話だが全く飽きずに興味をそそられた。
彼女の展示が日本で公開されることを願う。
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