「我々が無邪気に与えてしまった生への落とし前」トイ・ストーリー4 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
我々が無邪気に与えてしまった生への落とし前
作品が100パーセント自分の思い通りになると思っている作り手は嫌いだし、そうあるべきと考えている受け手も嫌いだ。作品は逸脱する。登場人物は意図の通路に容易く穴を開け、好き勝手なところへ向かおうとする。
ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』という映画に、若者たちがボールもラケットも持たずにテニスをするシーンがある。スマッシュする音もプレーヤーの息遣いも確かに聞こえているはずなのに、そこには何も映っていない。カメラという意図性は、決して対象の全てを接収できる完全無欠の道具ではないのだということを、アントニオーニ監督は今一度主張している。何かにカメラを向けることには、常にその何かに対する責任が伴うのだ。
玩具に人間と同等の自我を与える、というのも言うなれば無邪気にカメラを回すことと同義だ。そこには画面的・物語的な進展性に対する欲望だけがある。玩具たちは、『トイ・ストーリー』という映画のために唐突に自我を与えられ、あまつさえ人間に奉仕することを運命づけられてしまった。
しかしそれは別に悪いことではない。私もまたウッディやバズのめくるめく大活劇に心を躍らせたし、彼らが紡ぎ上げる数々のドラマに胸を締めつけられた。とりわけ『3』は玩具と人間の間に横たわる根本的時差の問題に目を向けた意欲作だったと思う。ウッディたちはもう子供ではなくなってしまったアンディとの日々に別れを告げ、次なる持ち主のもとへ旅立っていった。
とはいえ『3』の物語はハッピーエンドの位相が最後まで人間側に設定されていたように思う。大人になるにつれ玩具への興味が薄れていく、という我々の後ろめたさを、玩具たちに「俺たちは誰かに奉仕している限りどこへ行っても幸福なんだ!」と言わせることで無理やり解消していたというか。玩具たちが抱える自己存在の不安は、実のところ巧妙に先送られていただけに過ぎない。
したがって本作はシリーズにとって必然だったといえる。ウッディは作り手と受け手の極限まで肥大した全能感のあわいをすり抜け、その先で隠匿されていた自己自身を知るに至る。それだけであれば既存の構造に対する単に技巧的な裏切りに過ぎないのだが、ウッディがボニーのもとを離れるまでの過程に強い説得力があった。
ウッディがゴミ同然のフォーキーを庇い続けるシーンは、彼が既に主人との関係の側端にまで追いやられていることを如実に物語る。それでもボニーを信じ続けようとするウッディに、これでもかというほどの現実が襲いかかる。
射的屋に何年間も吊るされ続けたダッキー&バニーや、古物店に売り払われたデューク・カブーン。極めつけはウッディとボイスボックスを交換してまで声帯を手に入れたにもかかわらず、意中の子供に「いらない」の一言で捨てられてしまったギャビー・ギャビー。
その一方で特定の持ち主がいない、つまり「幸福でない」はずのボーやギグルはなぜかとても楽しげだ。
それらの小さな違和感が、ウッディを悩ませる。俺もそろそろ自分のために生きてもいいんじゃないのかと。『トイ・ストーリー』という物語が設けた檻の外側を見てしまった以上、ウッディはもはや自分を愛していないボニーのもとへ戻ることができない。そんなウッディの心境を知ったバズが、彼の決心を優しく肯定するラストシーンは美しくも切ない。
我々が勝手に自我を植え付けてしまった玩具たちが、その自我を起点に我々を裏切っていったことにより、作品と我々の関係はようやく正常化したのではないかと思う。寂しいといえば寂しいけれど、そもそも彼らに生を与えてしまったのは他ならぬ我々なのだ。
ラストシーンでのフォーキーと新入りのやり取りはきわめて示唆的だ。
「私、なぜ生きてるの?」
「さあ、なぜかな」
我々の欲望はこれから先も数多のお前たちに望まぬ生を与えるだろう。だからお前たちも好きにすればいい。どのような結果を招来することになろうと、最後までそれを見届けることが我々の責務だ。