「賛否両論」トイ・ストーリー4 doomiさんの映画レビュー(感想・評価)
賛否両論
結論として、賛否両論あるだろうが私はあの終わり方もありだとは思う。これまでとは明らかに違うが。
3でアンディからボニーに持ち主が移ったウッディ。
アンディが主人の頃は、ウッディが一番だった為常に愛され、必要とされ、大人になってからでもその自覚があったから遊ばれなくなっても平気(?)だった。
それがボニーに移ってからは、自分は常に相手にされない存在となってしまった。そんなウッディは無意識に、「持ち主を幸せにしなきゃ」というおもちゃ独特の価値観に従い、まるでボニーを自分の子供のように思い、見守り、それが使命だと疑わず行動した。
その最たるはフォーキーを救う時、周りの犠牲が見えていなかったことから伺える。ボニーにとって必要な存在であるフォーキーを救うことに必死で、その為なら古い友人であるボーやその仲間達の犠牲はどうでもよかった。その内実は最早フォーキーそのものを救いたいと思っていたかどうかすら定かでは無い。こうしてウッディは、持ち主に相手にされなくなったウッディは、自分の存在意義の為に、自分の行動を省みることすら忘れ、ただその強迫観念とも言える「持ち主を幸せにしなきゃ」という考えによって過剰なまでに行動してしまう。
そしてボーに言われる。「あなたはボニーの為にじゃない。自分の為に行動しているのよ。」と。ギャビーに言われる。「持ち主と一緒にいる事が本当に素晴らしい事なの?」と。
ボーに対しては最早言葉を失い、ギャビーに対しても悲しい顔で「そうだよ…」としか言い返す事が出来ない。
ウッディにも理想はある。アンディと過ごした時間のように、子供に愛され、子供と幸せな時間を過ごすことである。しかし、それが叶わず、自分の幸せを忘れ、「持ち主の幸せが一番」という固定された過去の価値観によってのみ生きていたウッディは現実を突き付けられハッとしてしまう。なぜハッとするのか。それは、「持ち主の幸せが一番」という過去に得たウッディの価値観は、少なからず「(一緒に遊んでもらえる、または自分は一番であるという)自分の幸せ」も含まれていたからである。その安心感の上で成り立っていた価値観なのだと、本作を見て思う。今は最早自分の幸せ等存在しないのに。条件Aの時だからこそ出来上がった価値観を、条件Bになった時にも引き継いでいるから、ギャップが生じ、不安や葛藤が生まれてしまう。
そうしてウッディは考える。「自分は何の為に生きているんだろう」と。我々も気づく。「ウッディも自分の存在意義を疑うことがあるのだ」と。この事実こそ、1〜3と4で決定的に違う内容である。ウッディは絶対的な道徳を実行する存在ではなく、自分の存在意義の為、あるいは自分の幸せの為に生きる、極めて人間的な存在であると、我々は気付かされるのである。この事実は、1ー3を見てきたコアなファンにとっては耐え難い事実である。なぜなら、我々が求めるのは、あの一方向的で、絶対的で、「仲間の為」という一つの真理のもと突き動くウッディとその仲間達の活動記録だからである。そこに絶対的な安心、日常とは掛け離れた夢の世界が広がっている。私もそんな世界に、憧れや救いを見出していた。
しかし4では1〜3で築き上げたその絶対的な世界観を覆す。
ウッディも、自分の為に生きたいと悩むのだ。あるいは、ウッディは実はある割合で自分の為に生きていたのだ。
そして自分の存在意義について悩み始めたウッディは、「迷子のおもちゃ」だが自分の生き方に芯を持ち、自由に生きているボーの生き方に惹かれる。「こんな生き方もあるのだ」と。
そして最終的に、自分の人生を歩む選択をする。
「トイストーリー」という作品に(自己犠牲を払ってでも他者を問答無用で助けるという)絶対的な道徳を期待し、救いを見出す我々にとって、ウッディが(他者を救うがあくまで自分の人生が一番という)自然的な道徳に生きるのは耐え難い。トイストーリーから得られたあの安心感はどこへ行ってしまうのだろうか。または、ウッディは実は1〜3では「自分の存在意義の為に生きている」という事にすら本人が気づいていないだけで、実は最初からあの仲間思いなウッディは絶対的な道徳ではなく自然的な道徳に生きていただけなのではなかろうか。つまり、「自分が一番愛されている安心感があるから」仲間をあそこまで救えるし、助けることが出来る。もしアンディから一番愛されているというウッディ自身の安心が無ければ、あそこまで仲間思いな彼ではなかったのかもしれない。本作から感じ取れるウッディの人間的な性格は、そんな事まで想像させてしまう。現に、1では「保身の為、自分が一番愛される場所へ再び戻る為」バズを助けるし、2では「おもちゃの最後」を悟り博物館行きを独断で決めてしまう。3でも、「自分だけは大学に行けるから」あそこまで危険を省みず行動出来たのかもしれない。もしそうであるならば、そんな不安が我々に残ってしまうのならば、もはやトイストーリーは死んだも同然の作品になってしまう。そう思う人も多いのではないのだろうか。
しかし、私はそうは思わない。
1〜3であれ程「持ち主の幸せが一番」「おもちゃは持ち主と一緒にいてこそ価値がある」と言っていた、軸を持っていたウッディが、ある日を境に、これまでの自分の価値観の原因と自分を見つめ直し、新しい道を選ぶ。このプロセスは人間と同じだ。ウッディとて生き物なのだ。ウッディとて自分の人生を生きてほしい。どれだけ自分の人生が結局一番だと思っていても、それでいい。いいじゃないか。有機的で。おもちゃは生き物なのだから(何も、ある種の形而上学に浸っている訳では無い)。今まで我々を救ってくれた存在なのだから。ウッディにも幸せになってほしい。そして、仲間と離れたウッディがその後何を思うかは我々の想像次第。自分の人生を生きれて嬉しいと思うのか、ボニーが上手くやれているか心配に思うのか、仲間は今頃どうしてるんだろうかと心配に思うのか。きっと全部思うだろう。それが人生なのだ。ある道を選択したとしても、その道が正しかったとは限らないし、他の道を選択した場合の未来を想像して、現状の自分に一喜一憂する。ウッディはそんな経験を今後するだろう。人間と同じだ。
日本とアメリカで評価が別れているのは前述した理由からだと思う。日本人はトイストーリーを「絶対的な道徳をもたらす自分にとっての救い」としてのみ見ているからウッディの苦悩まで考えが及ばず、「こんなのトイストーリーじゃない」と酷評してしまう。対してアメリカは「ウッディとて生き物」という認識が強い気がする。だから彼の苦悩に寄り添い、共感し、自分と照らし合わせる事が出来、本作を評価するのだ。前者の意見は辛辣過ぎるし、「本当にウッディの気持ちを考えてみたの?」と聞きたくなってしまう。中には製作陣をひどく批判し倒す意見もあり、浅ましく思う。
ウッディの幸せを本当に願うならば、自分の娯楽、救いとしてのみトイストーリーを見るのではなく、ウッディを本当の生き物と認識し、彼の苦悩も理解し考えたその上で、想像の世界で彼の幸せを願うのもアリなのではないだろうか。
多くの人間は、「自分が何のために生きているのか」そんな漠然とした疑問に正面から向き合わず、1〜3のように日常に起こる目の前の目まぐるしく起こるトラブル(ex.仕事)の対応にいっぱいいっぱいで、せいぜい土日はその癒しに徹するだけだろう。この思想の奥深くまでは、考えるどころか、考える時間すら無いのである。1〜3のウッディのように。本作はそんな我々に、「自分は何の為に生きているのか」を考えさせてくれる機会を与えてくれるようなメッセージ性を感じた。それはフォーキーや最後に出てくる女版フォーキー(?)が「私は何のために生きているの?」と発言したことからも意は汲み取れる。この映画は、一見フォーキーが「ゴミである自分が何のために生きているのか」という悩みを抱えている事に意識が集中されがちだが、本当は同じ悩みを抱えるウッディについての話なのである。もしかすると、少なからずそんなフォーキーの姿勢を見てウッディも同様の事を思い始めたのかもしれない。
また、ギャビーにボイスボックスを渡した後、見送るシーン。もちろん良かったなギャビーと思ったが、それよりもここで機械音の出なくなったウッディがおもちゃとしての役目を終えたのだと、もう肩の荷が降りたのだと、そう思うと、自然と涙が出てきた。ボイスボックスを渡す事でそれを表現しようとしたのかと考えると、流石はピクサーだなと思う。
賛否両論あるようだが、私はこの終わり方も気に入っている。おもちゃ達それぞれが、幸せな日常を過ごしてくれていると信じている。
続編があるかどうかは分からないが、トイストーリー、今まで本当にありがとう。
大変共感致しました。
私もあの決断は、子どももオモチャも大好きで、みんなのことをいつも想っているウッディだからこその決断だと思いました。
「仲間を捨てた」と言っているのを見かけましたが、ボーもバニーもカブーンも、もはやウッディの大切な仲間になったのだと思います。もちろんボーの存在は大きいと思いますが、他のオモチャにも幸せになってもらいたいという行動はエンディングの射的のシーンでも解ると思います。きっと、ウッディだからできる行動。
バズが最後に別れを決めさせる言葉。
「ボニーは大丈夫だから」
私は「俺たちは大丈夫だから」
にも聞こえました。
今までウッディが沢山の愛を持ってまとめていた仲間はもう揺るぎない絆で繋がっている。だから他のオモチャ達にも力を貸してあげてと。行ってこいよって。
思い出したら泣けてきました…。
欲を言えばボイスボックスは最終的には返してあげてほしかった!今までの、仲間ももうちと活躍させたかった!でも車に残ってたから迎えに行けたと飲み込んでます…
あまりにも共感、感動するレビューだったので、ついつい熱くなって長くなってしまいました。
失礼致しましたm(._.)m
この評価、プロ以上に的確だと思います。
この評価、今後も見れるように、ローカルに保存させて頂きます。(今後、この作品も見る時、この評価も再度見れたら最高だと思ったからです。)
これ子供たちが自立し、もはや親の庇護が必要なくなった時、そして、し
定年になって、職場と仕事仲間に別れを告げる年齢になった中高年の大人のメタファーだと思う。
日本ではウッディを生きて動いているオモチャとしか見ないが、アメリカでは、ウッディたちは、子供を連れて、あるいは孫を連れて映画館に来ている大人たちのメタファーであると理解されているのではないか?
今回はずっとトイストーリーを見てきた大人たちへの内容でしたね。
ホントに書かれているように、私たちも日々人間らしく悩み、そして前に進む。。
すごく共感しました。
この終わり方は全然泣けなかったけど、なるほどーと納得しました。
私もこのラストは大満足です。
自身を必要としている場所をウッディーは見つけられたので。
ボニーはもうウッディーでは遊ばなくなってウッディーは必要では無くなったし、お互いに想い合ってたボーと再会して一緒に生活していく道を選んだので最高のハッピーエンドじゃないですか。
レビューが的確過ぎて感動しました…俺もウッディが幸せならこれも有りかと自分を納得させてます
トイストーリーともこれでお別れなのか…今後どうなるかとても気になります
そうですね( 。_。)
皆がトイストーリーに望んでいた内容とは掛け離れてしまった気もしますが、ウッディの気持ちを考えると、この内容も納得できます。製作陣はこの内容に踏み切るか当然苦悩したでしょうが、駄作等と酷評したくはありません。むしろ、長年の歴史と愛着からこそこの転換に深い意味がある気がしました。
(続編、はよ)
とても共感しました。
私も、1〜3まではおもちゃ達のドタバタ
劇に笑い、涙し、最後はほっこりして終わってたので、今回はとても衝撃的すぎていまだに余韻に浸っています。
ウッディは、アンディからボニーに持ち主が変わった時からもう役目は終わっていたのかもしれませんね。。
今回の作品の中でも、フォーキーの隣りにはウッディがいるのに、ボニーも両親もウッディには目もくれない。
父親なんて踏みつけてるし…
こんな日々を送るくらいなら、これからは自分のために生きていくのもアリだと思います。
トイストーリー、やはりいい作品ですね😊