劇場公開日 2015年6月6日

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「希薄な生、濃密な死」トイレのピエタ ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0希薄な生、濃密な死

2015年6月22日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

知的

難しい

もっと上映館が増えて欲しいと思う佳作である。
プールで泳ぐ金魚たち、そのオレンジがかった赤。一緒に泳ぐ高校生、真衣の姿。水の淡いブルー、水中撮影での残像がなんとも儚く美しい。
主人公は、ビルの窓ガラス清掃をしている青年、宏だ。アルバイトの身分だが、腕はすでにプロ級。
ぐらぐら揺れるゴンドラに乗り、高層ビルの窓ガラスを拭いてゆく。
高所恐怖症の人なら気が遠くなりそうだが
「まっ、落ちたら、死ぬだけだし……」と本人は割り切っている。
「社員になっちゃいなよ」と仕事仲間からは誘われている。
はにかんだように、「いいッスよ」と中途半端に返事する宏。
彼は美術学校の学生でもある。絵描き仲間でも、「えっ、こいつ意外に……」とおもわせる腕を持っている。だけど絵描きとして、世の中、生きて渡って行こう、という気概も覚悟もない。
宏はある日、職場で倒れた。病院で精密検査を受けてみる。
その結果を聞く日のこと。
医師からは家族と一緒に来るように言われていた。だが、郷里の父母を呼び寄せるほど、大げさなことかな、などと思ってしまったのだ。
そこで宏は、たまたま病院で居合わせた高校生、真衣に仮の妹になってくれるよう頼んだ。真衣と一緒に受けた診断結果は……
医師からは胃の悪性腫瘍と告げられる。即刻入院だ。
やがて、病気は進行し、転移する。医師からは延命治療をするのか? それとも残りの時間を有意義に過ごすのか? とまで言われる。彼はまだ28歳の若さなのだ。
真衣はシングルマザーの母と祖母の、三人で暮らしている。母は家事を気にかけていない。祖母は認知症だが、その世話を真衣に押し付けている。
介護の必要なおばあちゃん。彼女は嫌がるおばあちゃんをなだめては、シャワーを浴びさせる。
時には「ざけんじゃねーよ、なんで女子高生のアタシが介護しなきゃなんねーんだよ!!」と暴発したくなる。でも怒りは、おばあちゃんには向けられない。
真衣はある日、金魚を沢山買い込み、深夜、学校のプールに金魚たちを放つ。水の中、群れになって泳ぐ金魚たち。そして、自分も一緒に泳ぐ。溜め込んでいた様々な感情。
自由なんだよ。自分だって自由でいいんだ。真衣はそう思っているのかもしれない。
真衣は奔放であり、言いたいことをズケズケ言う。
余命いくばくもない宏に向かって「ねぇ、どうやったら死ねるの?」と無邪気に尋ねる。
真衣は自分の「生」の手触りを探ろうとしているかのようだ。
本作で特筆すべきは、登場人物たちが次に何をやるのか? 全く予想がつかないことである。
宏はやがて、病院を抜け出し、自分のアパートのトイレに壁画を描き始める。その様子をちょっとスケベな患者仲間、横田(リリー・フランキー)がビデオに撮る。楽しそうだ。実際ビデオに撮られながら、宏は微笑んでいる。
ようやく「生」の手応えを感じたような宏の微笑み。
本作の元ネタはあの、手塚治虫氏の病床日記であったそうだ。手塚氏が自身、胃ガンで入院していた時に書き綴っていた遺稿らしい。
キャスティングも秀逸だ。つかみどころのない、今時の若者を象徴するかのような宏(野田洋一郎)。ちょっと過激でエキセントリックな行動をする真衣(杉咲花)。そして、映画に登場するだけで和んでしまうリリー・フランキーの存在感。小学生の息子を、ガンで亡くす母親を演じるのは、宮沢りえだ。しかし、その生真面目な演技は、むしろ本作の中で浮いてしまっているほどだ。
本作は料理に例えれば、「素材の良さ」にこだわり抜いた逸品であると言える。俳優という素材の存在感で、映画を”ほぼ”成立させてしまっている。
淡々としたカットが続く中、決してドラマチックに盛り上げてやろうという、監督の映画作家としての下心は微塵も感じられない。
本作に登場する人物は、それぞれ「自分の生」に対して「生きている」という実感を持てない者達ばかりである。そういった人物像をあえて「いきいきと」演じない、ドラマチックには「描かない」ことで、映画作品を成立させる、というのは難しい事だろう。
今現在を「生きていない」と「感じられる」のは、その人が、実は生きていない、という風に「感じる」ことができる「感受性」を、豊かに持ち合わせている証拠でもある。
「自分はこのまま生き続けてもいいのか?」と、最近、私自身、問い続ける日々が続いていた。そういう時期に、出会った本作のみずみずしさは、私の身体に染み入るように感じた。

ユキト@アマミヤ