先生と迷い猫 : インタビュー
イッセー尾形が語る、俳優としての在り方
孤高であると自負しているが、孤独だとは認めたくない。イッセー尾形が「先生と迷い猫」で演じた元校長先生は、そんな人物ではないだろうか。見るからに偏屈で堅物。己の信念を曲げそうにないタイプだが、亡き妻がかわいがっていた野良猫の一挙一動に揺さぶられていく。おかしくて温かく、ペーソスにもあふれたささやかなドラマを生み出した猫との共演、そして俳優としての在り方に迫った。(取材・文・写真/鈴木元)
独自のスタイルを確立した一人芝居の第一人者。想像するにその作業は孤独だが、観客には孤高の存在として映る。そう考えると、校長先生は対極にいるようなキャラクターに思える。しかも主たる相手役は猫。しかし、尾形はそこに興味をひかれたようだ。
「面白いなと思いましたね。ドラマって人間と人間がやるものですけれど、猫という動物を介在させるとドラマが膨らむな、と。人間同士だと息が詰まっちゃう部分がありますから。楽しみではありましたけれど、どうやって校長先生を造形していけばいいのだろうというのは現場任せ、監督任せみたいなところはありました」
その深川栄洋監督とは「60歳のラブレター」以来、6年ぶりのタッグ。撮影現場で生まれたものをすくい取る演出に、舞台のライブと似た波長を感じていたという。
「深川さんは決めてかからないというか、現場で人間が息づいてどうなっちゃうか分からないところも含めて、役者の生きている感じ、アドリブにしか見えないような即興めいた方を取る監督さんだったんですね。それは自分が一番大切にしている部分でしたので、すごく一致していましたね。しかも、今までは前面に出して進めていくキャラクターが多かったんですけれど、校長先生は沈黙が非常に多い。それはすごく未知の分野でもありましたので、挑戦できたら面白いなあと思いました」
亡き妻が「ミイ」と呼んでいた野良の三毛猫は、毎朝、仏壇の前に座っているが、校長先生は生前の姿を思い出してしまうため、邪険に扱ってしまう。初対面がそのシーンで、リハーサルなしのぶっつけ本番だった。
「いきなり演技が始まっちゃったからね、ご挨拶もなく。それがかえって良かったなと思って。ろくな挨拶ができないタイプなんで(笑)。なんかただならぬ気配がありましたよ、後ろ姿に。場数は踏んでいるなと思いました。この映画を、僕よりもうんと理解していそうなたたずまいでしたね。気品のある顔をしていてね。目が昔のロシアの貴族みないた感じがしました」
それもそのはず。ミイは、NHK朝のテレビ小説「あまちゃん」にも出演していた“ベテラン”の三毛猫ドロップ。とはいっても、猫は自由気ままな生き物。これまでの手練手管は通用しない。
「猫ってピョンピョン動くのが自然だと思っているけれども、逆にジーッとしていたりすると何か想像しちゃいますよね。人格を試されているような。猫と人間の芝居といったところで、実際に向き合った時はどうしたって猫と人間の関係ですから。猫は猫なりに人間観察をしているような気がするんですよ。まあ、監督さんは『イッセーさんが猫みたいなもの』って言っていましたから、じゃあ割り切って“猫共演”なんだって僕もフラフラしようって思いましたけれどね(笑)」
しかし、ある日を境にミイはこつ然と姿を消す。猫用のくぐり戸を封鎖して来訪を拒んでいた校長先生も、その存在の大きさに気づき必死で探し始める。その過程でミイは、妻がなじみにしていた美容院、教え子の家の近所など、あらゆる所でさまざまな人々の癒しになっていたことも知る。「タマ子」「ソラ」など呼び名もさまざまで、地域の人々との思わぬ交流が生まれていく。校長先生がしかられるところなどは、なんともほほ笑ましい。
「いやもう、共演者頼りでしたね。猫を探すのに必死でしたから。後半にいたっては、役をそんなにクールにとらえていなかったんだと思うんですけれど、皆が妙に優しくしてくれてね。校長は人と一致することがなかなか難しいんだけれども、猫のおかげで周りが寄ってきてくれたと言いますか。(岸本)加世子さん演じる容子に『校長、変わったわよ』って言われてね。映画の中では気づいていないけれど、しばらくたってから気づいて美容院に行ったりするんじゃないですか」
ラストは、校長先生が愛妻の不在という寂しさから一歩踏み出せるのではという心地良い余韻を残す。映画主演は「太陽」以来、実に9年ぶり。だが、主演という意識はそれほどないという。
「座長はドロップだから(笑)。一番出番の多い脇の役者だって思っていました。でも、満足感はありますし、ちゃんと尽したなって感じもあります」
あくまで謙虚。数年前に独立し、本人いわく「長期のネタづくり」に入っているため舞台は“休眠中”だが、「先生と迷い猫」の後も映画「ボクは坊さん。」でも重要な役を演じ、7~9月放送のTBS「ナポレオンの村」にも出演と精力的だ。映像作品に出演する意義をどうとらえているのだろうか。
「以前はライブと比較していたんです。テレビや映画は目の前にお客さんがいませんから、直にある反応で生き生きやろうという道はなく、どうしたらいいんだと困った時期もありました。でも共演者やスタッフら自分の周りにいる人に向けて発信して、それをまた自分がキャッチするという新しい方法は僕にとって新鮮でした。ライブはお客さんが自分の目をレンズにしますけれど、レンズそのものがあるから今度はそれに合わせた演技をしなきゃいけない。それはそれでまた面白くてね。どの道も、やればやるだけのことはあるんだなあって」
そういう新たな経験を積み重ね、芝居そのものに対する意識も変わってきたというが、「まだ口ではうまく言えないんですけれどねえ。でも、逆に言っちゃうとできなくなる気もして」と意味深な笑みを浮かべた。その変化は、今後の新作で感じさせていただくことにしよう。