「僕を愛して! 広い世界で!」Mommy マミー ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
僕を愛して! 広い世界で!
映画界で大注目のグザヴィエ・ドラン監督の「Mommy マミー」ようやく観てきました。若干26歳にして、すでに五本の作品を制作監督し、うち二本が、ヴェネツィア、カンヌの映画祭で受賞歴を持つなんて、どう考えたって、これはとんでもない才能だなぁ~。
映画関連のサイトや、地元神戸の映画館でも「うちはグザヴィエ・ドラン”推し”ですよ」と公言して憚らない。みんなが「イイ!!」と言っている。
おまけにグザヴィエ・ドラン、そのルックス。
カッコイイです。日本に来たら、きっと空港なんかで、女の子がキャーキャー言うんだろうな、なぁ~んて想像をしてしまいます。
僕はひねくれ者の中年おじさんなんで、
「誰がそんなイケメン、天才映画作家の作品なんか観るもんか!」と意地を張ってました。なんで、こう人間って不公平に作られているんだろう?
ああ、神様はなんで、お腹突き出た中年オヤジに、愛の手をさしのべてくれないのだろう? なんで神様は、若干26歳のカナダの若者に、美貌だけでなく、映画作家としての、飛び抜けた才能まで与え賜うたのだろう?
でも、その代わり、グザヴィエ監督の作品を観れば、彼が才能に恵まれたその代償として、実はいかに大きな心の葛藤を抱え込んでいるのか、その一端がわかるような気がするのです。
本作「Mommy マミー」は第5作目。
舞台は「カナダ」という架空の街に設定してあります。そこには、これも架空の法律が設定されております。
「発達障害の子供を持つ親が、経済的な理由などから、もう育てられない、と判断した時は『法的手続きを経ずに』養育を放棄し、施設に入院させる権利を持つ」というもの。
主人公は発達障害、ADHD(多動性障害)を抱える15歳の少年、スティーブ。普段からやたらとハイテンション。それがmaxになり、やがてレッドゾーンにまで入ってしまうと、興奮状態で自分を抑えられない。暴力を振るいます。そのため彼は施設に入れられていました。
母親ダイアンはシングルマザー。彼女はスティーブを施設から出してやり、自分の元で面倒を見ようとします。新しいアパートメントも見つかった。ここで、なんとか息子と二人、新しい生活をスタートさせよう。
でも、息子の扱いはやはり難しい。目が離せない。仕事も探さなくちゃいけない。一人悩んでいたダイアンは、向かいの家に住む、女性教師カイラと知り合いになります。
カイラにはひどい吃音症がある。どうも仕事上のストレスからこうなってしまったようで、今は学校も休職して自宅療養をしています。
やがて、ダイアンとスティーブ、カイラは、家族ぐるみの付き合いを始めて行きます。生活苦と障害を持つ息子を抱えた一家、そしてカイラにも、心の安らぎ、すこしばかりの光が差し込むように思えたのですが……
上映中、コミカルなシーンもいくつかありました。映画館ではクスッと笑っている人たちもいました。
僕はといえば、お恥ずかしながら……ずっと涙が溢れていました。
「すごい作品だ……」
グザヴィエ・ドラン監督の評判は嘘ではなかった。
とてつもない才能を、僕は自分の目で目撃してしまったのです。
僕が注目したのは、この監督さん「音に敏感」であることです。
母親ダイアンは大雑把な性格。お役所の人から書類にサインを求められるシーンがあります。ダイアンはキーホルダーについた自分のペンでサインする。
ところが、このキーホルダー、とにかく両手で持ちきれないほどの鍵の束や、アクセサリーなんかがウジャウジャついている。
ダイアンは机の上で書類に自分の名前をサインする。一文字書くたびに机の上で「ジャラ、ガサガサ、ジャラッ」という音がする。
このシーン。音楽はつきません。当然です。
グザヴィエ監督は、この「ジャラジャラ」の音を入れるシーンを撮りたかったんですね。それだけで母親ダイアンが、どういうパーソナリティーなのか、端的に表現しています。
それに本作で最も話題となった、画面のサイズ。
縦横の比率が1対1なんですね。
「ああ~、こういう撮り方があったんだ」とびっくり。
映画館のスクリーンは横に細長いですね。その中央に四角く映し出される映像。さらにはグザヴィエ監督、人物を撮るときに、真正面から撮るんです。
これ、とっても重要ですよ。彼、明らかに「小津映画」を意識してると思いました。
四角の画面に映る、正面から撮影された人物像。
まるで額縁に飾られた「ポートレイト」に見えるんですよ、これが。
かつて黒澤監督は映画の事を「シャシン」と呼んでいました。
本作は、まさに人物を写した写真。しかもそれが小津映画のモノマネではなく「動く」「アクションがある」ということ。
グザヴィエ監督は「小津映画」の良さを、自身の中でちゃんと消化した上で、自分なりのオリジナルな「様式美」を生み出しているのです。
しかも、これを若干26歳の監督がやってのけるとは!!
いったい、何という才能なんだろう。
得てして、こういう映画作家は自己主張が強すぎて、観客のことを考えない場合がありますね。ところが、グザヴィエ監督はちがいます。
映画の背骨とも言っていい「脚本」が、これまたいいんです。だから、ストーリーのなかに観客は吸い込まれてゆくのです。グザヴィエ監督の世界観のなかに、いともやすやすと入り込めるのです。
もちろん、本作においては、映像の美しさ、絵の切り取り方、鮮やかなカット割り、天才の名をほしいままにする、グザヴィエ監督の、みずみずしい感性が、随所にあふれています。
主人公スティーブが、スケートボードに載って道路のど真ん中を滑ってゆきます。どこまでも続く道を気持ち良さそうに。
空には一点の雲もありません。
抜けるような「青」。どこまでも続く「空、ソラ、そら」
空を見上げ、両手を広げるスティーブ。
自由なんだ、自分は自由なんだ……
大空と一体になるかのような開放感溢れるシーン。
このとき、あの窮屈な1対1の画面サイズが、ついに変わるんですよ。
上映中、真っ暗だったスクリーンの両脇。徐々に左右に広がって行く画面サイズ。その開放感。これは素晴らしい効果を生み出しました。
1対1の比率の画面は、もちろん窮屈ですね。息が詰まりそうですね。
でも、これが母と息子が生きてゆく、限られた世界の象徴、暗喩ですね。
しかし、少しの間だけですが、画面サイズがパァ~っとひろがってゆく。まるで観ている観客も、世界が晴れたようにかんじますね。
でもそれは一瞬の事、また画面は窮屈なサイズに縮まってゆきます。親子はまた縮こまったサイズの、現実の世界に戻されてしまうんですね。なんとも心憎い演出です。
ああ、もう、グザヴィエ・ドランに皆が夢中になるわけが分かりましたよ。
本作は決してハッピーな映画ではありません。
どちらかというとテーマも重く、暗く、観ていてつらくなる映画でもあります。でも、この作品に流れている、深ぁ~い水脈、とでも申しましょうか。
それが母の愛であり、息子がMommyに求める愛なのですね。
純文学の作品などでは「陰々滅々」たる表現を好んで使う作家がいます。読んでるこっちまで落ち込んでしまいそうです。本作も、もし違う監督が撮ったなら、もう観ていられないほど辛い作品になったでしょう。しかし、本作はちゃんと「面白い!」のです。
映画にとって面白さは重要な要素です。過去の名作、傑作と呼ばれる作品はやはり「面白い」のです。本作「Mommy マミー」は、傑作と呼ばれるにふさわしい、必要にして十分な要素は、すでに備えていると言っていいでしょう。
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なお、一つ注意していただきたいことがあります。
障害者を描いた映画では、特にデリケートな問題を扱うので大切なことです。
どうか「障害者」と「ひとくくり」にしないでいただきたい、ということです。
実は僕も障害者です。それも外見はなんともない。
外からは見えない障害、「うつ病」です。「精神障害者3級」という障害者手帳を持っている、「障害者」のカテゴリーに入ってしまう人間です。
僕は精神科に通っています。
本作では精神障害者の暴力シーンもある事から、あえて申し上げますが、僕の担当の精神科医に聞いたところ、ADHDの人すべてが本作で描かれるように、暴力性を持っている訳ではないということ。
もっといえば、知的障害児などでは、僕の経験から言えば、彼らに攻撃性はありません。彼らは本当に平和主義者なのです。
うつ病のような「気分障害」と本作のような「ADHD多動性障害」「統合失調症」それに「知的障害」「ダウン症」などは本来『障害』と、ひとくくりに論じる事自体、全くのナンセンスです。それぞれ発祥の原因や症状が違います。
本作を見て、各個人のもつ「障害」と「障害者」への偏見が助長される事がありませんように、と切に願います。