「暗雲と驟雨に囲まれた未来」私の少女 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
暗雲と驟雨に囲まれた未来
虐待を受ける少女と性的マイノリティの女性警察署所長という取り合わせから、幾重にも重なる弱者性を動力に現代社会の差別性を穿つ告発系か、あるいは社会から透明化された者たちのささやかな交感と立ち直りを描いたエンパワーメント系の映画を我々はなんとなく予期する。しかし物語はそういった安易な着地をみることなく、最後まで疑念と懊悩の靄の中を曳航し続ける。
まずもって我々(そしてイ所長)は虐待を受ける少女ドヒのあからさまにセンシュアルな描かれ方に困惑する。暴力を振るわれ、数多の傷跡が残る身体が痛ましいドヒだが、その一方でどこか危うい官能性を醸出してもいる。イ所長に向かってテレビのモノマネを披露するシーンではタンクトップの隙間からあられもなく脇が露出するし、K-POPアイドルのダンスに合わせてくねらせる腰つきもどこか思わせぶりだ。彼女の「被虐者」あるいは「幼い子供」という無垢性は徐々に剥落し、それによって我々は彼女を守るべき大義名分を見失っていく。元パートナーとのやり取りについてドヒに口出しされたイ所長が思わず彼女の頬を叩いてしまうシーンがあったが、そのときドヒが浮かべた表情には、苦痛とも恍惚ともとれる妖艶なニュアンスが滲んでいた。さて、こいつは本当にただの「暴力に怯える無垢な少女」といえるのか?
不安定なのはイ所長も同様だ。男性だらけの官憲職において、左遷先とはいえ所長の地位に就いていることから、彼女が相当なエリートであることが窺える。しかしそもそもなぜ彼女は左遷されたのか?夜な夜なスーパーマーケットに赴き大量のチャミスルを買う理由は?ドヒに対して本当に何の性的感情もないと言い張れるのか?日常の節々に表れるこうしたできごとや行動を踏まえると、彼女が「自立した強い女」というステレオタイプから外れた不安定な一個人であることが判明してくる。
当然ながらあらゆる人間には固有の機微がある。男だろうが女だろうが大人だろうが子供だろうが異性愛者だろうが同性愛者だろうが関係ない。そしてそれは時としてグロテスクな形を取ることもある。
そうした機微を避け、社会の一般法則から外れた人々を過度に正しい存在として描くこと、そしてそのフィクショナルな「正しさ」を根拠に彼らを守ろうとすることは、結果的には何も見ていない、何もしていないことと同義だと私は思う。それはどこまでも社会の一般法則の内側に向けてのポーズでしかない。
一方で本作は、社会法則から逸脱した人々を「弱者の無垢性」という社会が構築した神話によって救済するという傲慢さを慎重に避けている。しかも巧妙なことに、序盤のうちはあたかもそういう神話を立ち上げるような素振りをみせる。田んぼの畦道を駆けていく白いワンピース姿のドヒはまるで岩井俊二に出てくる少女のようだし、村内に蟠る旧態依然とした風土を改めようと奔走するイ所長の態度は折り目正しく「ポリコレ」的だ。しかし物語が進むにつれ神話は徐々に解体されていき、最後は個人と個人の深い関わり合いの中でのみ理解されうる超社会的決断へと辿り着く。
とはいえイ所長とドヒの未来は暗雲と驟雨に囲繞されている。二人を乗せた乗用車には絶え間なく雨が打ちつける。それはこの世界における個人と社会の位置関係のアレゴリーであるかのようだ。社会から個人への逃避は一時的には成功するかもしれないが、それはそうと社会はある種の自然法則として世界全体を覆い尽くしている。そこから逃れ出ることは容易ではない。雨風をしのぐ屋根もいつかは朽ち果て、吹き飛ばされる。要するに逃げ続けるしかないのだ。命尽きるまで、永遠に。
初めまして。因果さんのレビュー、言語化のクリアさに感動しました。ラストシーン、自分はドヒの表情メインで観ていたのですが、暗雲と驟雨の解釈、納得です。