ナイトクローラーのレビュー・感想・評価
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フレームの意味
この映画の不思議さはふたつある。
ひとつは映像がきれいなこと。犯罪(事件)パパラッチというのだろうか、現場の動画をテレビ局に売り込む男が主人公。犯罪現場など美しいはずはないのだが、奇妙に美しい。夜なのに鮮明である。
主人公が交通事故の現場で映像の構図にこだわり、被害者をかってに動かす。そしてカメラを高く掲げて撮影する。肉眼で見ているものとは違うものをカメラがとらえている。そうか、映像とはつくりものであり、現実ではないのか。
どんな事件のときも同じである。主人公は自分が見たものをカメラでとらえているのではない。テレビを見たひとが「見たい」と思うものをつくり出している。
ある一家が強盗に襲われる。その家に入り込む。冷蔵庫の扉に家族写真がある。そのまま映したのでは「絵」にならない。写真の位置を入れ換え、「温かい家庭」にふさわしい冷蔵庫の扉にする。そうすることで、そこで起きた悲劇が強調される。
テレビの視聴者は、ふつうの(温かい)家族が悲劇に襲われるのを見たい。ふつうと悲劇のドラマチックな結びつきに興奮する。主人公は、そのことを知っており、そのために行動する。金のためというより、そういう映像を撮ることに興奮している。自分には、人の求める映像を理解し、さらにそれをあおる能力があると自覚している。
と、書いていると、それは主人公のことなのか、監督のことなのか、わからなくなる。「映像」へのこだわりは、主人公のものであると同時に監督のものでもあるだろう。
主人公の「日常」の描き方がおもしろい。彼は毎日自分でシャツにアイロンをかけている。水滴を散らし、アイロンがききやすくするという工夫もしている。部屋には植物があり、毎日、コップ一杯の水をやっている。きちんとした「暮らし」、「ふつうの暮らし」をしている。その一方で、異様な執念で「犯罪現場」の「刺戟的映像」を追いかけている。「ふつうの暮らしの映像」と「刺戟的な映像」を結びつけることで「刺戟」がより鮮明になる。この対比を鮮明にするには、それぞれの映像が美しくないといけない。雑然としていては、「対比」がまわりに侵入してくる「情報」に撹拌されて、あいまいになる。
どんな「情報」もただそのままカメラのフレームのなかにおさめているわけではない。カメラに納まり切れるものをきちんと整理している。「情報量」を整理している。
これがよくわかるのは、クライマックスの、二人組の男と警官の銃撃戦と、その後のカーチェイスである。ふつうの犯罪者と警察のカーチェイスならパトカーはもっとたくさん出てくる。激しいカーチェイスになる。この映画では、最初に追いかけているパトカー、最後に犯人の車と衝突するパトカーと、きちんと整理されている。あ、ほかのパトカーも来た。どこへ逃げるんだ、というような「興奮」を排除し、逃走する犯人の車、追いかけるパトカー、さらにそれを追う主人公の乗った車と、常に観客の視線が3台の車に集中するように「整理」されて描かれている。
「映像」と「情報(量)」の関係に、非常にこだわった映画なのである。そのために、どの映像も非常に美しい。
もうひとつの不思議は、「ことば」である。
変質者を主人公にした、「刺戟的映像」パパラッチの映画なのに、映像だけで映画を動かしていない。「ことば」にこだわっている。主人公はただしゃべりまくるわけではない。他の登場人物も余分なことを言わない。それぞれが「必要最小限」のことばしか発しない。最小限のことばのなかに隠されている「意味」を考える。主人公はしゃべりながら考えるのではなく、考えて、自分の考えを整理してから、最小限のことばを選んでいる。それが映像に緊張感を与える。
人間は、ふつう、主人公のようにはしゃべれない。新しい状況のなかでは、ことばをさがし、右往左往する。その右往左往のなかに「人間性」のようなものが出てくるのだが、それがないから「非情さ」が強烈に響いてくる。
映像と同じように、主人公は「フレーム」のなかで「ことば」を把握している。それが相手にどう聞こえるか、それを意識しながら話している。
だからといえばいいのか……。主人公が助手とやりとりする最後のシーンがおもしろい。助手は状況が理解できない。助手の頭の中には状況のフレームがない。だから副社長にしてやる。給料はいくらがいいか、と問われたとき、即座に答えられず「70ドル」とばかみたいなことをいう。フレームがわかってくるにつれて、助手のことば(要求)も変わってくる。
もっと主人公の、「ことばのフレーム感覚」がわかるのは、彼が警察に訊問されるときのシーンだろうか。彼は警察が何を問うてくるかを知っている。訊問室で起きる「ストーリー」を知っている。知っているから、あらかじめ準備しておいた「答え」をいう。訊問している刑事には、それが「うそ」であることはわかる。直感でわかる。けれど、主人公の「答え」はきちんと「質問-答え」の「フレーム」のなかでおさまっている。言い換えると「美しい答え」になっている。だから刑事は問いつめることができない。問いつめるためには別の「フレーム」(証拠の枠組み)が必要だが、それは急にはつくれない。
「フレーム」におさまったものが、「フレーム」を支配する。つまり、勝つ。
この「フレームのなかの美しさ(強さ)」にあわせるように、ジェイク・ギレンホールが異様にやせて、「肉体」から「余剰」を排除し、観客がついつい彼の目を見てしまうように仕向ける「肉体のフレーム」にも、何か、ぞくっとするものがある。目に吸いよせられて、彼は、ほんとうは何を見ているのか、と怖くなる。
「映像」も「ことば」も(そして「人間」も)、「フレーム」のなかで「美しくなる(明確になる/強靱になる)」というのは、考えてみれば恐ろしいことかもしれない。「美しいもの(明確なもの)」は、乱れたもの、雑然としたものよりも説得力がある。強靱である。そこに「嘘」を感じても、突き破れない。
ということは、この映画のテーマではないかもしれないが、そう感じた。
この映画が「美しさ」にこだわり、それを実現しているというところに、また奇妙ないらだちを感じた。
もっと雑然とした、あたかかい映画が見たい。ルノワールの映画のような、と思うのだった。
J・ギレンホールの目が怖い
まさにゲスの極み
不屈のヤジ馬根性と、金への執着。そして尊大な虚栄心。これらが主人公...
不屈のヤジ馬根性と、金への執着。そして尊大な虚栄心。これらが主人公ルーを突き動かし続けた。
さも、もっともらしいことを言いながら周りの人間を巻き込み、殺人も交通事故も、飯の種になろうものなら手段を選ばず、突き進む。
そこに戸惑いや同情は一切ないと言っていい。
しかし、人間が視覚の情報を最も信用することをルーは直感的に分かっており、どう撮れば一番刺激的かも心得ているので、行動にある種の潔ささえ感じられる。
ロサンゼルス=犯罪都市のイメージは、我々がこれまで見てきた数々の映画やドラマによって知らぬまに刷り込まれていただけでなく、本作に登場する「事件事故パパラッチ」の暗躍があったからだろうと改めて感じた。
ただ、レネルッソが演じた役がちょっとキャラクターが弱い気がした。
そのくらいジェイクギレンホールがドギツかったんだが。
パパラッチの限界
素晴らしいよ
上質スリラー
頭脳明晰で努力家であるものの、しがない盗みで日々暮らしている独り者のルイス。ある日、居合わせた事故現場での報道パパラッチを見て、自分も始めてみることにする。持ち合わせたスキルと目的意識を最大限活かし、あっという間にLAのTV報道の世界を駆け上がっていく…。
観ていて怖くなるその理由は、ルイスの世の中の見方や生き方は、私達が普段「こうあるべき」と言われているような、成果主義であったり、常に勉強して学ぶ姿勢であったり、自分を安く売らないことであったり、相手にとって唯一の貴重な存在になることだったり、利益か損失かを見極める事だったりするところにある。私達が目指している人間像とは、こんなものだったのか?と立ち止まる事になる。ルイスは、綿密な計画を立て、大いに勉強し、常に成長することを望み、一歩一歩確実に上に上っていく。しかしそれが観ていて怖いのだ。人間味がないからである。その点、ルイスのアシスタントの駄目さ加減が人間らしさを出していて、対比の描かれ方が面白いと思った。
世の中のビジネス書や自己啓発でよく語られている事を本気でやると、成功はするけど、冷たく心さえないような人間になってしまうのかと、LAはもしかしてこんな人で溢れているのかもしれない、と怖くなる映画である。
オススメ。
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